第五章
第23話
それから汐里は戻ってこなかった。
皆勤賞。そうでなくても、とてもサボりなんてしそうにもない汐里の空席は並外れて目立つ。しかも、机の横には鞄が引っかかっているのだから、どうしたってサボりだ。担任も大層怪訝そうな顔をして、何か知っているやつはいないかと尋ねたほどだった。
甘楽はいかんともしがたい顔で口を引き結んでいる。事情もよく分かっていないが、逃げ出させてしまった引け目はあるのだろう。顔色がよくなかった。
遠い席にいる南野が、ちらりとこちらを見る。俺なら事情を知っているのでは? という予想だろうか。残念ながら取り合うつもりはないので、俺は頑としてそちらを向かないように心がけた。
そうしてホームルームが終わるや否や教室から抜け出す。しかし、俺と汐里が仲が良いことを知っている甘楽が見過ごしてくれるわけもなかった。
ぱしっと手首を掴まれて、そちらを睨みつける。時間が惜しい。サボるのに躊躇いはないが、汐里を放り出し続けておくほうには躊躇があった。
動乱しくさっていた汐里が、平常心を取り戻せるのか。心配は雨後の筍のようににょきにょき生えている。一目散に移動したいのを邪魔されれば煩わしい。
「なんだよ」
思ったよりも威嚇じみた低音になったことは、悪いと思う。甘楽だって当事者で、汐里のことを気にかけてのことだろうから。だが、だからこそ、引き止めないでほしかったというのが本音だった。
「私も行く」
「来んな」
すげなく断ったのは、甘楽を連れていったところで状況が改善するとは思えなかったからだ。汐里だって恐怖に慄くであろうし、甘楽がどういう態度を取るのかも分からない。そんな危険な賭けをするつもりはなかった。
それに、いくら噂になっているとしても、自分たちの秘密を明かすつもりはない。汐里に許されるまでこれを守り続けるのは当初の約束だ。形骸化していようとも、条件として成立しておらずとも、破るつもりはない。
甘楽は断られると思わなかったのか。険悪な態度に怯んだのか。表情を曇らせて、手の力を抜く。その隙に腕を引き抜いたのが、余計に甘楽に衝撃を与えたようだ。
汐里のことがなくても、人に手首を掴まれた状態でのうのうとしていることはないと思うが。
「……阿万野だって混乱してるだろうから、今はやめとけ」
そういう思考があることも事実だった。自分でもかなり建前くさいとは思うし、その側面も否定はできない。
それでも、せめてもに告げると、甘楽は俯いてしまった。ちくりと罪悪感が刺激される。だが、今は甘楽を慰めている場合ではない。少なくとも、自分の中の優先順位が変動することはなかった。
「後で」
悪いと再度思いながらも、無下に告げて歩を進める。
甘楽の口から、あ。と音が漏れた。引き止めようとする音のひとつだったのかもしれない。放置しておくのは非道かもしれない。その思考は備わっていたが、受け答えする容量はなかった。
弾き出されたものには目を向けず、俺は一直線に廊下を進んだ。走らなかったのは、その辺りにいる教師に見つかって注意を受ける時間が無駄だからだった。そうした悪知恵に近い部分だけは冴えている。小狡い。一層、甘楽への対応のひどさが浮き彫りになるような気がしたが、戻る気にはなれなかった。
向かう先は決まっている。特別棟を突っ切って、いつも待ち合わせをしている空き教室へと急いだ。確信なんてあるわけもないのだが、確信があった。
教室が近付いてきたころに、歩調を緩めて息を整える。勢いやってきてしまったし、そうしたいという積極性でやってきた。
それでも、自分が何をできるのかという不安が顔を出してくる。ここにきて腰が引ける不甲斐なさが、その気持ちを更に増加させた。坩堝だ。かといって、ここまで来て逃げ帰るなどという発想はなかった。
深呼吸を繰り返し、腹を決める。扉にかける手が少し震えた。それでも、勢いを胸に扉を開く。がらっと聞き慣れた開閉音がやけに耳に障ったのは、汐里がそこに項垂れていたからだろう。
椅子の上で膝を抱えて、小さく丸まっていた。音に驚いた汐里がびくんと身体を揺らして、顔を持ち上げてくる。それでも、半分は膝の上で組まれた腕の中に埋もれていた。泣いてはいない。ただ目元は赤くなっていて、今にも決壊しそうではあった。縮こまった体躯と合わせて、悄然として見える。
邪魔して悪いと思うが、かといってここで引く気もない。意を決して、足を踏み入れる。汐里は俺だと分かって、肩肘を張る気はなくなったのか。再び腕の中に顔を伏せてしまった。
それがまた居心地の悪さを加速させるが、今の汐里にそんな配慮をする余裕はないのだろう。責める気にもならなくて、前の席に腰を下ろした。
いつのころからか、この教室では俺のほうが前へ座ることが常態化している。汐里が振り返ってくれるのではなく、俺から歩み寄るようになった。
俯いている汐里を見下ろす。ぴくりとも動かない。憔悴しきっているのが見ていられなくて、そっと頭を撫でた。あれほど尻込みしていたのに、いざとなったら考えなしに動いてしまう。昨日、触れることを反省したのはなんだったのか。
手を繋いで過ごしたことが記憶に残っていた。昨日と今日は紛れもなく地続きで、反省も高揚もパッケージにされて保存されている。今、取り出されたのが後者であっただけに過ぎない。
そして、その選択肢は間違いとは言えなかった。これが本当に力になるのか。そんなことは頭の中を覗き込める超能力者でもなければ分からない。だから、かもしれないとしか言いようがないけれど、汐里は手を払いのけることはなく、顔を持ち上げてくれた。
ただ、驚いただけであっても。本当は嫌であっただけだったとしても。アクションが返ってきただけでよかった。
汐里にしてみれば、良い迷惑であったかもしれないけれど。けれど、ここで一切の反応がなければ、俺は本当に何もできない。それでもここにいるつもりではいるが、それではあまりにも腰砕け過ぎる。
顔を見せてくれたからって即座に何ができるわけではない。けれど、顔が見えるのと見えないのとでは、心の軽さが違った。ただ、これはあくまでも俺の都合だ。汐里の気持ちを蔑ろにしている行動でもある。そう思うと、対処に滞った。
互いに相手を視界に留めながら、まんじりともしない。刻々と過ぎていく時間をもったいないとは思わなかった。それで汐里が落ち着くのであれば、俺はいくらだって待つつもりだ。
「蛍君」
さほど時間を待たずに、汐里がそろそろと口を開いた。囁くような音は、これほど静かでなければ消えてしまっていたかもしれない。
「……授業は?」
ホームルームから一限までの時間は十分以内。チャイムが鳴ろうか鳴るまいかというタイミングだったようで、汐里が尋ねると同時にチャイムが鳴った。
「いいよ、もう鳴った」
「ダメだよ」
「だったら、汐里だってダメだろ」
「……」
分が悪いのは分かっているだろう。汐里は口を閉じた。
特別棟のどこかで授業が行われているらしい。がたがたと椅子を引く音が聞こえてくる。それが消えるころを待つように、しっとりと沈黙に落ちた。すぐに戻ってきた静けさに、お互いの気配だけが匂い立つ。
「……大丈夫か」
散々ためを作っておいて、出てきた言葉の普遍性に脱力しそうになる。だからといって、慰める度量も技術も覚醒したりしない。無様であったけれど、枕は必要で、でも多分それは汐里も同じだった。
「……分かんない」
「ビックリした?」
「うーん」
「恥ずかしい?」
「そういう感じじゃない」
「……怖い?」
一度口火を切ると、少しずつ質問が零れる。ぽつりぽつりと答えてくれるのを確認しながら探っていき、汐里はすんと音を消した。
肯定なのかと思ったが、表情は煮え切らない。当人も掴みきれていないのだろう。衝動的な行動であっただろうことは間違いない。
俺だって勢いだけで行動したし、あの瞬間は至大に動揺した。ただ秘密を共有しているだけでそうなのだから、汐里の心情は察するにあまりある。
そうして、俺がヌルさんと呟いたとき。どれほど汐里を恐慌へ陥れたのだろうかと思うと、ぞっとした。甘楽のやり方を横暴とすら思ったが、自分だって同じようなことをしたようなものだ。
何が、大丈夫? だろうか。俺が聞けたものではない。そう思うと、またそわそわしてしまう。
「身バレは、やっぱり怖いけど、それより、私だって分かっている人に評価されるのが怖い」
「興味がなきゃ評価もないだろうけど、興味があればためになるし、楽しいし、悪いことはひとつもないよ」
これだけは、はっきりと答えられる。推しのことだ。直接言うのが気恥ずかしいなんて、この場に限ってそんな情緒は顔を出さなかった。
「蛍君のそれは贔屓だもん」
「譲る気はない」
贔屓はしている。だが、視聴者の意見であるのだから、間違っていないはずだ。言い張ると、汐里は少しだけ表情を緩めた。
たとえそれが呆れから来るものであろうとも、笑ってくれるなら構わない。そうして、緩んだものが、汐里の何かを緩めてくれたのか。ふっと口を開かせた。
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