第13話

 特別棟に行く時間は、阿万野が先になることが多い。こちらには甘楽の目があるので、相手してから向かうこともある。時間がもったいないと思うこともあるが、甘楽と話すことを拒絶したいわけではない。

 今日も今日とて、俺は甘楽の話し相手になってから、阿万野の待つ特別棟に向かった。阿万野は既に文房具を広げている。最近は、俺の待ち時間を手帳時間に使ったりしていた。だから、文房具を机の上に広げているのはいつも通りだ。

 だが、その手元をちらと見やったところで、ぴきりと血管が強ばった。


「勉強」


 ぽつりと漏らすと、阿万野の顔が持ち上がる。恐らく、嫌な顔をしているはずだ。視線が合った阿万野は、呆れた顔を隠さなかった。


「もうすぐ期末でしょ?」

「……ソーダナ」

「中間、あんまりよくなかったって言ってなかったっけ?」

「英語がギリ」

「ちゃんと勉強しなきゃ夏休み補習だよ?」

「阿万野だって、数学苦手じゃん。ここ、間違ってんぞ」


 道すがら見つけた間違いに指を這わせると、阿万野がまじまじとそこを見下ろす。そこから、しばらく身動きを止めて、そろそろとこちらを見上げてきた。泣き出しそうな上目遣いは、胸を締め付けるような威力がある。


「おしえてくれない?」


 声はたどたどしい。垂れ下がった眉が、小動物の嘆きのようで痛々しかった。


「そんな顔すんなよ。ちゃんと教えてやるから」


 後ろに回ると、阿万野が荷物を移動させなければならない。俺はいつもと違って阿万野の前の席へ腰を下ろした。


「何で数学はできるの?」

「失敬だな」

「だって、他は赤点ギリなんじゃん」

「阿万野も言うようになったよな。甘楽のこと言えない」

「甘楽さんとは違うよ」

「分かってるよ。阿万野だって、甘楽とのことを疑ってたのは同じだと思うけど」

「だって、甘楽さんがあんな感じなんだもん」


 あんな感じ、に心当たりしかなくて苦笑してしまう。いい的にされているだけではあるが、外側から見れば懐かれているのは瞭然だ。


「ほら、勉強するぞ」

「都合が悪くなると目の前のことに向かわせようとするの癖だよね、香具君。お昼もそうだった」

「……」


 無自覚な癖を指摘されるはバツが悪い。視線を逸らすと、阿万野はクスクスと笑いを零した。俺に慣れてくれたことは嬉しい。だが、バツの悪さを大歓迎するほど、俺は自己犠牲に溢れていなかった。


「じゃあ、昨日の動画の話でもすればいいか?」


 やり返すと、唇を尖らせてこちらを睨んできた。

 都合が悪くなると、意外にはっきり表情に出る。悪くないと思えてしまう自分の性格の悪さを疑うが、やはり慣れてくれた証左のようで悪くはない。


「意地悪だよ」

「失礼なことをするのも友達甲斐なんだろ?」

「甘楽さんとのことを羨ましいなんて言った覚えないもん」

「でも、友達だろ?」


 友達だと甘楽に言ったのは阿万野だ。俺は心置きなく開き直る。阿万野は鼻を鳴らして顔を逸らしてしまった。

 自分からは動画の話をするくせに、俺が上がった動画の感想を口にするのは嫌がる。照れくさいのだろうけど、ここまで意地を張らずともいいだろうに。しかし、微笑ましくて何度かやらかしていた。悪趣味だろう。


「よかったよ、動画」

「だから、意地悪だって」

「試験期間はまた休むの?」

「うん。勉強優先だから」

「真面目だなぁ」

「だって、困るもん」


 返事は手堅い。数学はてんでダメだが、他はそれほど悪くないはずだ。というより、かなりいいほうだろう。それでも、油断しない。堅実な性格が出ている。この堅実さで週に三回動画を上げているのだから、こちらとしてはありがたい性格だった。


「だから、しばらくは勉強だよ」

「文房具談義はおあずけ?」

「教えてくれるんでしょ?」


 中間の間は談義がおあずけどころか、密会すらもおあずけだった。今回は勉強会になるらしい。阿万野は困ったように首を傾げるが、どこかで俺の返事を予測できているような気がした。その信頼はくすぐったい。


「分かんないんだろ?」

「お願いします」

「お任せください」


 ぺこりと頭を下げる義理堅さを撥ね除けられるわけもなかった。頷くと、ぱっと笑顔が零れる。勉強の許諾にこれほど元気になれるのは純粋にすごい。こっちはあまり乗り気ではないけれど。そうも言っていられなかった。


「香具君もやるんだからね?」

「……マジ?」


 俺は阿万野に教えるだけで場を濁すつもりだった。その思考が透けていたのか。きっちり釘を刺されて、頬が引きつる。阿万野は純朴な瞳でこちらを見ていた。まったくもって譲る気がなさそうだ。


「なんで、自分だけしなくていいと思ったの……?」

「……どうにかなるかな、と」

「補習は嫌でしょ?」

「それはそうだけど」


 だからって、モチベーションが上がるかどうかは別問題だ。困るのは自分だって分かっていたって、マイナス要素は回避の原動力になるもんじゃない。

 ぐだぐだと絡むように漏らすと、阿万野は少し考えるようにペンの頭を顎に押し当てた。ちょっとした間が開く。このまま諦めてくれないか。そう思いながらも、どこかでその方向を諦めている。阿万野はやると決めたらやるのだ。行動力はある。

 その勢いで俺とのコンタクトも躊躇わなかったのだから、お墨付きだ。


「ご褒美があれば頑張れる?」


 下から見上げられるように首を傾げられる。

 何でも、と囁いた声が蘇ったのは、俺の願望が反映されているのか。阿万野の優しさというか、危なさというか、甘さというか。そういうものに毒されている。


「そりゃ、そんなものがあれば」


 阿万野なら俺が喜ぶものを簡単に用意できてしまうので、全面同意は避けた。卑怯というか惰弱というか。

 でも、阿万野が自作したものを鼻先に吊り下げられて、馬車馬のようにがむしゃらになる自分の姿が想像できるのだ。チョロさを自覚しているからこその一歩引いた姿勢だった。


「隣町に行かない?」

「隣町……?」


 出てくるだろうご褒美の候補から外れた問いかけを復唱してしまう。頷く阿万野の瞳は期待に輝くようで謎が深まる。俺のご褒美の話で、阿万野が楽しそうにする理由が分からない。

 こちらの困惑などお構いなしで、阿万野はペンを置いて胸の前で両手を重ね合わせた。祈るような仕草で、何を祈っているのか。やっぱり、俺には想像できなかった。


「大きな文具屋さんがいくつかあるでしょ? 遊びに行かない?」


 目の前が一変に開ける。阿万野の表情が腑に落ちたこともあるが、それよりも提案の魅力に視界の輝度が上がった。


「試験終わり?」

「うん。ご褒美にならないかな?」

「なる。なります」


 諸手を挙げて降参だ。これ以上ないほど完璧なご褒美案だった。息せき切って返事をした俺に、阿万野はへらりと笑う。あまり見ないだらしのない顔だった。


「私も楽しみがあれば頑張れるから」

「……自分が行きたいだけでは?」

「いいじゃん。私だってご褒美欲しいから、一緒に頑張ろう?」


 そう言われてしまったら、退路などないも同然だ。ご褒美だけでも逃げ出す気をなくす。そのうえで、一緒になんて励まされて何も感じないほど無情ではない。

 何より、相手は阿万野だ。文房具を一緒に見に行ってくれる相手として、これほど心強いものはいない。お店のご褒美に付加価値を添えられていることに、阿万野は気がついているのだろうか。俺に抗う術はなかった。豪勢っぷりにため息が出てしまう。

 それをどう受け取ったのか。阿万野は瞳を曇らせる。どうしてそれほど悲観的なのだろう。自分が俺に与える影響力にもっと自覚を持って欲しいものだ。


「じゃあ、勉強会だな」

「やる気になった?」

「大いに」

「香具君、本当に文房具好きなんだねぇ」


 ヌルさんも好きなんだよ、とはさすがの俺でも言いづらい。

 どれだけ動画の感想を口に乗せられても、好きだなんだってのは気恥ずかしいものだ。存在が不透明の投稿主ではなく、確定しているクラスメイト相手であるのだから、たまったもんじゃない。そこに恋愛事が絡んでいなくたって、口にできない年頃だった。

 ……甘楽があんまりにも俺と阿万野を疑うから、変な意識が心の底にはびこっているのかもしれない。


「阿万野だってそうだろ?」

「だから、ご褒美になるんじゃん」

「楽しみだな」

「うん。購入品の動画もできるなぁ」

「ネタバレやめてくれよ、本当に」

「予告だもん。VLOG風にしたいから、時々動画回してもいい?」

「俺が映像に入るわけじゃないし、そこはヌルさんの判断に任せます」

「だから、ヌルさん呼びはやめてよ」

「動画の話されるとついそうなるって」


 相談や悩みに答えるとき。ふとしたときにヌルさんと呼びかけてしまうことがある。阿万野も観念すればいいのに、ずっと慣れないままらしい。懲りずに抵抗を見せていた。


「阿万野でいいでしょ」

「そりゃ、阿万野は阿万野だけど」

「香具君だって私に他の呼び方されたら慣れないと思うけど」

「俺に他の呼び方も何もないけど」


 ハンドルネームと呼ぶのか。そうした別の名を持っているわけじゃない。活動をしているわけでもないので、別人格とも言える区分もなかった。

 だから、まさかそこに対する音があったとは、思いもしなかったのだ。


「蛍ちゃん?」


 んぐと喉を詰めて、げほげほと咳き込む。阿万野はしてやったりな顔をしていた。じろりと睨んでも、自慢げな顔をしている。そんなに俺を嵌められたことが面白いのか。

 存外、良い性格をしているよな。


「やめろ、それは」

「甘楽さんは呼んでるじゃん」

「阿万野に呼ばれるのは変な感じがする」

「そういうのと同じ」

「分かったから」


 どうにもすわりが悪い。甘楽に初めてそう呼ばれたときも、気持ち悪さがあった。柄じゃない。

 これでも一七〇センチを越えた男で、金髪にピアス。蛍ちゃんなんてほのぼのした呼び名とはギャップがある。そりゃ、見た目によって呼び方を決めるなんて偏見になりかねないだろう。

 だが、似合わない意識が抜けきらない。甘楽にも最初は抵抗したが、譲らなかったのだ。恋バナでもしつこいが、呼び方も決めてしまったら最後、変える気のない頑固さがあった。


「そんなに?」

「阿万野が言うか?」

「私はまったく違う名前じゃん。音にして呼ばれる予定じゃないし。香具君は自分の名前でしょ?」


 阿万野が同列に並べたので同列に語ったが、確かにその差はある。そう思えば、俺の反応は大仰であるのかもしれない。それでも、阿万野に呼ばれると違和感がある。口をへの字に曲げると、阿万野は考えるような顔になった。


「でも、確かに……ちゃんって感じじゃないよね。あだ名だから関係ないのかもしれないけど、もっと男の子って感じだし」


 その辺は固定観念や先入観だろう。ただ、俺の感覚と阿万野の感覚は近い。まさしく、そういった理由ですわりが悪いのだ。

 ちゃん付けで呼ぶあだ名があってもいいと思うが、それは名前の一部を取るものじゃないかと思ってしまう。渡辺をナベちゃんと呼ぶような。蛍はそのまま名前だ。それをちゃんづけされると、らしくなさが先立った。

 実際、廊下で甘楽に呼びかけられると、ぎょっとされることが度々ある。甘楽が呼ぶと、女子を呼んでいるような軽やかさがあるから余計にだろう。それでも、甘楽が呼ぶことに関してはもう諦めていた。だが、できれば広まって欲しくはない呼ばれ方だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る