第14話

「せめて、蛍君だよね」


 つらっと呼ばれて心臓が止まった。

 フリーズした俺に気がつかずに、阿万野はしっくりした呼び方を見つけたとばかりの顔をしている。何もおかしくない。阿万野が呼ぶことにも違和感がない。それでも、不慣れさはあって、それが心臓の鼓動をおかしくする。


「……ダメだった?」

「いや」


 どうにか返せたのは、否定か肯定か分かりづらいもので、阿万野は困り顔になっていた。ふぅーっと息を吐いて、どうにか鼓動の沈静化を試みる。ちっともうまくいく気がしないが、しないよりはマシだった。


「ちょっとビックリした」

「蛍君は普通でしょ」

「そうだけど。阿万野に呼ばれると思ってないから」

「変かな?」

「慣れないだけだよ、汐里ちゃん」


 仕返しはうまくいったようで、阿万野の口がぴたりと閉じられる。それから、むずむずと唇が蠢いた。潤いのある唇から何が飛び出すのか。やり込めた達成感に満ちあふれていた。

 まさか、ここで爆撃が返ってくるとは予期しない。窮鼠猫を噛む、というやつだったのかもしれない。


「呼び捨てでいいよ」

「ぅわ」


 反撃に悲鳴になりきれない声が零れ落ちた。

 名前ひとつだ。ちゃん付けだの君付けだの呼び捨てだの、そこまでこだわることでもない。そう分かっていても、どうしても親密度と関連しているような気がしていけなかった。

 こうして密会している時間を考えれば、今一番長い時間を一緒過ごしている相手は阿万野に違いない。呼び捨てをする距離感にあってもいい。

 だが、それを向こうから許される破壊力というのは計り知れなかった。だから、自分の影響力を自覚しろと。思わず、額を押さえて呻いてしまうことになった俺に、阿万野が焦った声を出す。


「え、何か変なこと言った? 図々しい??」


 阿万野だって、呼び捨てに親密度を抱く感性を持っているのが、その一言で分かる。分かっていて、容認する心情は分からなかった。


「蛍君?」


 返事を待つように再度親しく呼ばれて、吐息が零れ落ちた。

 顔を上げると、阿万野はひどく不安そうな顔をしている。だから、影響力を考えて欲しい。阿万野に弱々しい顔をされると、どうにかしてやらなければ。すぐに答えなければ、と心が急かされてしまう。


「変じゃないよ」

「図々しくは……?」


 大事なところはそっちか、と微笑ましさが滲んだ。阿万野との距離の縮め方には、こういうところがある。ひとつひとつ確かめるような慎重さだ。ちょっとは煩わしく思いそうなものだった。

 甘楽にこうされると、多分面倒に思う。だが、阿万野の確実な懐き方には、歩み寄ってきてくれていることが目に見えた。趣味の合う女の子が、自分の意思でそうしてくれている。これで喜ばない男がいたら、それは情緒がぶっ壊れているに違いない。


「そんなこと思うわけないだろ。嬉しいよ、汐里」


 言い出したくせに、俺が本当に呼ぶとは思っていなかったような。そんな顔になって、むずがるようにくしゃりと笑った。初めて見る可愛さに、ぎゅうと心臓が絞られる。

 舌で転がした阿万野の名前……汐里の音が、ずっと残っていた。


「すごく仲良くなったみたいで嬉しい」


 この子は、このまま世間に出しても大丈夫だろうか。

 そんな素っ頓狂な感情が膨れ上がる。余計なお世話極まりないだろう。だが、こんなに可愛く漏らされてしまったら、勘違い男は簡単に舞い上がってしまうはずだ。妙なことに巻き込まれる確率が上がる。もう少し世慣れたほうがいいのでは。

 そう思いながらも、この邪念に等しい思考を汐里に差し向けるのを憚る自分がいた。慣れて欲しくはあるが、慣れさせるためにあたふたさせたいとは思わない。交錯する感情は行き場をなくして、頭の中でこんがらがる。

 ぐしゃりと髪の毛を掻き乱したのは、そうしていれば少しは中身がどうにかなるかもしれないとでも思ったからだろうか。


「……教室では呼ばないからな」

「甘楽さんに勘違いされるもんね」

「バレたくないんだろ?」

「うん。だから、私もみんなの前では呼ばないようにするね。この密会だけ」


 自分から言い出したことだ。現在の甘楽を鑑みれば、どうしたって勘違いは免れないし、執拗に絡まれるのも分かっている。だから、教室を避けようと自然に考えた。

 だが、こうして密会だけという区切りを持ち出されると、胸がふわふわした。

 呼び捨てだけでも、十二分かそれ以上。増えていく二人だけの秘密がどれだけ貴重なものなのか。汐里は初手で最大の秘密のカードを切っているからか。その認識が甘いようだった。そして、俺はその汐里の大らかな態度に甘い。


「ああ。ここだけな」


 繰り返した内容に甘ったるさを覚えているのは俺だけなのか。確かめてみたい気持ちも、責め立ててみたい気持ちもある。同時に、噛み締めて嚥下して、自分の胸の中に大事に大事にしまいこんでおきたい気持ちもあった。

 汐里はほわりと笑う。俺たちの密会に更なる一手が加わった瞬間だった。




「え、何それ」


 汐里との秘密が進展してから三日。劇的な進展があったかと言われると、まるでない。文房具談義としては、後退していると言ってもいいだろう。俺たちは勉強漬けになっていた。

 そうしてやり始めると、あれもこれもしなければならなくて、案外時間がないことに気がつく。根を詰める必要はないだろうと軽く考えていた自分の楽観視が身に沁みた。

 汐里が尻を叩いてくれてよかっただろう。何よりも、ご褒美の効果は絶大だ。やる気に溢れた結果、休み時間に単語帳を捲るくらいにはなった。

 そして、そうなった当日。俺の行動を見るや否や、甘楽が零した言葉がこれだ。そこまで自学自習することが稀有か。胡乱な目を向けると、甘楽は仰天していた。


「いや、だって赤点ギリギリだったのに、答え合わせのときだってボーッとしてたし、授業中だっていっつも眠そうにボーッとしてるじゃん」


 一時は寝不足が重なっていた。

 この始まりとなる汐里とのことがあって数日は、精神が安定を取り戻すまでにはボーッとしていただろう。汐里の背中に気を取られていた。だが、今となっては過剰に反応することもなくなっている。精神が安定したのかどうかは怪しいが、強烈な波は少なくなったほうだ。

 ……三日前の敬称騒動で、また少しブレているような気もするが、それは見て見ぬ振りをしている。

 密会の間だけの呼び名は、それほど連呼されるものではない。話しかける相手は限られているのだから、呼びかける機会は少なかった。おかげで、呼びかけられるたびに心臓がざわめいている。

 とはいえ、教室でボーッとしているってほどのことはないはずだ。だが、どうやら外側の印象は違うらしい。甘楽は目を細めて異議を唱えた。


「……だとしても、試験前に勉強くらいするわ」

「中間はしてなかったじゃん」

「だから、補習したくなくて頑張ってるんだろ?」

「意外」


 今度こそ、明言される。まさか補習になったって構わないほど、勉強が嫌いだと思われているとは思っていなかった。そこまで不勉強だと?


「……入れ知恵?」

「は?」


 甘楽の抱く印象に一言文句をつけてやらねば気が済まない。そう考えていたところに投げ入れられた憶測は、脈絡がなかった。甘楽のことは分からないことばかりだが、ここまで道筋が読めないこともそうない。

 唖然とする俺に、甘楽は目を眇めて答えを待っている。俺が自分の発言を理解していると思い込んでいるらしい。何の信用なのか。甘楽の俺への印象がちぐはぐになって散らばっていく。


「どういうことだよ?」

「誰かに何かを言われたのかなぁ、とか」


 その視線の流れの先を見極める必要はなかった。今は空席だが、またいつもの論調だ。間違っているとは言い切れないので、勘は良いのだろう。

 だが、いつだって恋愛事と結びついているので、微妙に間違い続けていた。そして、煩わしさを拗らせている。いい加減辟易もしてくるが、甘楽に言わせればいい加減認めろというところであるのかもしれない。

 ただ、どんなに粘着したところで、恋愛事が掘り出されることはない。せいぜいが、ヌルさんという秘密事項しかなかった。もちろん、それは汐里の許可なく口に出すことはできないので、どれだけアタックされても蓋を開けるつもりはないが。


「……仮にそうだとして、それがどうなんだよ」

「本当に?」

「か・り・に」


 認めたつもりはないと主張しても、聞き入れられている気がしない。

 汐里の席を見る視線が鋭くなった。そんなところを観察したところで出てくるものは何もないぞ、と言ったら拗れるだろうことが分かるから、ため息になる。そのバイタリティは想い人に向けておけよ。


「阿万野とそういう話になったりはしたよ」


 下手にだんまりを決め込むより、ある程度差し出したほうがいい。それは前回の汐里のやり方に学んだものだった。


「それでやる気になったの?」

「補習で脅されたらそれなりに」

「……阿万野さん、脅しなんてするの?」

「真実を言うだけで十分脅しになることはある」

「それはそう。阿万野さんのお手柄」


 甘楽も俺の成績を危ぶんでいたのか。しごく真面目に頷かれて苦笑が零れた。


「だいたい、甘楽は人のこと言ってる場合なのか?」

「うぐ」


 勉強ができないわけではないはずだ。だが、好きかどうかは別物だろう。分かりやすく嫌気を呻いて、焦点が遠のいた。


「頑張れよ」

「他人事!」

「俺はやってるからな」

 

 手元の単語帳を振ってみせると不貞腐れる。


「それって、阿万野さんの手作りとか言わないよね」

「俺がどれだけ阿万野に任せっきりにしてると思ってんの?」


 そりゃ、何にしたって教わる立場だ。文房具についても、数学以外の勉強についても。だが、俺だって数学を教えることができるし、一方的ということはない。……均衡の傾きはあるが。


「阿万野さんならそれくらいやってくれそうかなって」

「……阿万野のことなんだと思ってるんだ?」


 俺との仲を疑う相手。軽く問いかけたが、わりと切実に気になった。何かとくっつけたがるに値する何かがあるのか。そういう点で言えば、俺の印象もどうなっているのか気になるが。

 甘楽は、うーんと首を傾げる。これだけ言い寄っておいて、印象が何もないってことはないだろう。


「なんか人がよさそうっていうか。真面目そうだから、それくらいの世話は焼いてくれるのかなって。勉強教えてもらったりしてるのかなって」

「……まぁ、人は良いよな」


 やっぱり、勘は良いのかもしれない。それとも、邪推すればそうなるというだけなのだろうか。


「やっぱり、教えてもらってるんでしょ」


 あえて答えなかったところを切り取られる。気をつけなければ、という部分はより強く意識すべきなのかもしれない。というよりは、甘楽が粘り強く雑多な部分を削り取っているだけのような気がした。執拗さの結果として、真実に近いものが詳らかになっている。


「ちょっとだけな」

「……教室でやってないよね?」

「残ってるだけ」

「それはちょっとって言わなくない? ちゃんと時間合わせてやってるわけだし、阿万野さんもそれに付き合ってくれてるんでしょ?」

「阿万野が残って勉強してるから、それに便乗してるだけだ」

「付き合ってないよね?」


 今まではどれだけ探りを入れてきても、その決め球を寄越すことはなかった。どういう心境の変化、というか運びなのか。好奇心はあるかもしれないが、からかっているだけという感じではない。

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