第4話

 午後からも眠さをこらえながら、どうにか一日を終えたころには逆に眠気も落ち着いてきていた。読経のような講義が眠気を誘っていただけかもしれない。教師にそんな罪をおっかぶせながら、のんびりと鞄に教科書を突っ込んでいた。


香具こうぐ


 そこにかけられた声に目を向けると、南野がいた。こうして話しかけられているのが上位とは昼間の甘楽の意見だが、だからってこのあからさまな声を無視することは難しい。それこそ何様って感じだ。


「俺たちカラオケ行くけど、一緒行かね?」

「あー、遠慮しとくわ」

「用事?」

「そんなとこ」


 このくらいは方便で流して欲しい。

 今日はバイトもないし、用事もなかった。だが、昼間にあれだけのことを言われてのこのこついていく印象を周囲に残すほど、俺はカーストに組み込まれることを望んでいない。悪いが断らせてもらう。

 南野は俺の断りを聞くと、さらりと流して爽やかに帰って行った。男女混合の陽キャ集団は、賑やかで楽しげだ。そこに混ざることを毛嫌いしているわけではない。気のいいやつらであることも分かっているし、はしゃぐのが楽しいことも知っている。

 俺だって、楽しいことは好きだ。だが、今の俺にとって、楽しいと思えることがあいつらとは違っているという話だった。

 趣味で付き合う人間を変えようだなんて、そんな驕慢なことをするつもりはない。むしろそれを避けようとすれば、一人でいることが楽な道として残ったということだ。

 南野を見送った俺は、のろのろと帰り支度をする。その間に、他の生徒も甘楽もいなくなっていた。

 甘楽の帰りはいつも早い。バイトでもしているのかもしれない。楽しいことにしか興味のなさそうな甘楽に労働はあまり似合わないが、不釣り合いを理由に断じられるほどに甘楽のことを知らなかった。

 向こうは俺のことに何かと足を突っ込んでくるところがある。隣人のよしみなのか何なのか。少なくとも、屋上の踊り場なんてひとけのない場所にいても声をかけてくれるほどにはよく思ってくれているようだった。

 ここまで懐かれた理由に心当たりがないのは不気味だが。だが、仲良くしてくれようとする子を邪険にするつもりもない。ありがたいことでもある。想い人に勘違いされなきゃいいな、とは思っていた。

 そして、どうか巻き込まれませんように、とも。人の色恋沙汰に巻き込まれるほど面倒なことはない。趣味に当てる時間もなくなるし、いいことはなかった。俺はどっちにも気持ちを割けるほど器用ではない。今は文房具のほうに天秤が傾いていた。

 ただの学用品と呼ぶノートや筆箱の中身も、少しずつ気に入ったものが揃えられてきている。だから、取り出して扱うたびに心が満たされていた。

 この片田舎でも、使いやすい有名ブランドのシャーペンくらいは取り扱いがある。それを買い求めたのはたったの三日前のことだ。それから、こうして筆箱を取るだけでも気持ちの持ちようが違う。そのまま勉強欲には波及しなかったが、筆箱は気に入っていた。

 今もまた、それを手元で弄びながら鞄の中にしまっていく。その間に、教室はすっからかんになりつつあった。すっからかんと言い切れないのは、俺の存在。そして、前席に座ったままでいる阿万野の存在があるからだった。

 阿万野はさっきからほとんど動いていない。時折上下する肩の動きから予測するに、本を読んでいるのだろう。

 阿万野は底知れぬ集中力を発揮することがあった。教室が騒然としていても、無関係に本を捲っているほどだ。その集中力があれば、人のいない放課後であればいくらだって集中できることだろう。周囲の様子など、欠片も気にしていなさそうだ。

 放っておいてよいものか。そう浮かんだのは、このままにしておくと阿万野はいつまでもここに居続けるのでは? と思い至ったからだ。

 阿万野がそれを分かっているのならば、口を出す問題じゃない。邪魔してしまうだけだ。そう思うと、放置が正しいような気がする。俺と阿万野の距離感からしても、声をかけるかかけないか漠とした間合いだ。

 恐らく、阿万野も今日の昼間、同じようなことを悩んだのだろう。気持ちを思い知らされながら、刻々と進んでいく時計の音を聞いていた。

 阿万野は一定の時間で腕を動かすばかりで、他には微塵も動かない。背筋すらもブレないものだから、つらくないのだろうかと思えてきた。色んな考えが煮立っていく。そこには当然、声をかけるかかけないか、の懊悩も含まれていた。

 そうこうしているうちに、阿万野の肘が動く。ページを捲るための定期的な動きに釣られて、何かが床に落ちた。その細長い形状は、しおりだ。

 阿万野は気がついていない。絶賛読書中であるから、しおりの出番はないのだろう。周囲の状況にも揺るがない阿万野は、紙ペラ一枚が落っこちたことに気がつくことはなさそうだ。

 俺はそっと立ち上がる。阿万野はやっぱり、俺の物音に反応を示さなかった。ここまでの集中力は尊敬するし、同時に不安にもなる。

 教室だからいい。いや、究極、今は俺だからいい……いいのかは分からない。だが、とにかく俺は何かをするつもりはないから問題がないだけだ。何か悪意を持った人間。悪意とまでは言わずとも悪戯心を持った人間がいれば、何でもできてしまうのではないかと不安になる。

 俺は阿万野の横に腰を屈めてしおりを手に取った。シンプルな白い漆喰のような色味のラミカ風のしおり。それは裏側だったのだろう。表を見ると、クローバーがいくつも飾り付けられていた。そこからすぐにヌルさんへ思考を広げるほどには、俺はどっぷり浸かっている。

 そして、そうよぎると、自分が手に取っているものがはっきりと記憶と重なった。クローバーのマステや、シール、包装紙からの切り抜き。そういうものを自分好みに配置して、ラミネート加工する動画。

 俺がそれを見たのは、昨日のことだ。見間違えるわけもない。目を凝らしてみても、変化することなく俺の手の中にある。これはどう見たって、ヌルさんが手作りしていたものだ。

 動画を見て自分で手作りしようとする人間もいるだろう。自分だって、そちら側にいる。だからこそ、分かることがあった。

 どれだけ似せようとしたって、そっくりそのままってことはない。用意できる材料も変わってくる。それこそ、包装紙の切り抜きまで合わせるなんてことは容易ではない。

 それに、ヌルさんは包装紙について紹介していなかった。それを探し当てるなんて、砂の中から金を見つけるようなものだろう。そのうえ、昨日の今日だ。どうやったって、そっくりそのままを作ってみたファンというには無理があった。

 しおりから目を逸らして、阿万野を見下ろす。本を読むために投げ出されている整えられた手のひら。細く白い指に、切り揃えられた清潔な丸っこい爪。手元動画で見てきたそれが、目の前にある。

 気がついたときには


「ヌルさん……?」


 と、声が漏れていた。

 瞬間、今の今まで化石のように動いていなかった阿万野の肩がびくんと揺れる。薄い灰色の瞳が見開かれ、それから顔色が失われていった。はくっと開かれた唇から言葉が紡がれることはない。

 手に握られたしおりと俺を一往復した瞳が本に落ちた。寸暇の躊躇いの後、しおりもないままに本が閉じられる。それから本と鞄を胸に抱きかかえた阿万野は、嵐のように席を立って逃げ出した。

 普段は優雅、というかおしとやかな阿万野からは想像もしない素早さと激しさに面食らう。立ち去った後もけたたましい足音が教室にまで響いてきていた。

 俺はそれを馬鹿みたいに棒立ちして聞いていることしかできなかった。とんでもないことをしでかした、ということがじわじわと身体中に巡っていく。滲んでいく脂汗が止まらなかった。

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