第5話

 気持ちが上滑りして落ち着かない。そんな一夜を過ごして、寝不足もいいところだった。

 ヌルさんのSNSが更新されることはなく、俺は阿万野の連絡先を知らない。どうしようもない緊張感で、翌朝を迎えて登校した。胃が痛くて息がしづらい。これで別のクラスならいくらか気は楽だったかもしれないが、前席だ。とても避け続けることはできないし、そんな対応でいいわけもない。

 自分の趣味を知らぬ間に知られていて、動画主として身バレしてしまっているのだ。しかも、阿万野は女子で、それを突き止めたのは男の俺だ。ストーカーのようなものに捉えられても仕方のない恐怖を与えているだろう。

 昨日の血の気をなくした阿万野の顔が瞼の裏に焼きついて離れない。心臓が干上がっていくような感覚に手足が冷える。教室に入るのがこれほど恐ろしく思えたのは初めてのことだった。

 前席には、既に登校している阿万野がこちらに背を向けて座っている。いつも通りだ。だが、その背は意図して身動ぎしていないように思えて、こちらの筋肉も強ばる。開いた唇からは、情けない息だけが零れ落ちた。


「おはよう」

「お、はよう」


 俺たちの無言の攻防など露も知らぬ甘楽の挨拶に、口内に張り付こうとする舌をどうにか回す。甘楽は特に疑問を抱かずにいてくれたようだが、前席の肩が小さく揺れた。ビビっているのが、その背筋から分かる。

 俺がいつ昨日のことを言い出すのか。そもそも、言い出すのか。ここでか。違う場所でか。そういったところだろうか。俺ですら、さまざまに思い浮かぶ。それをすべて考えて金縛りにあっているのだろう。

 こっちだって、どれをどう切り出せば許されるのか。そのことばかりに支配されて、他のことを考える余白などミリも残っていない。ただ、ここで切り出すべきではないことだけは確かで、緊張感に苛まれたまま座っていることしかできなかった。

 阿万野だって同じだろう。様子を窺うこともできない分、あちらのほうが恐ろしいかもしれない。こっちもこっちで阿万野の緊張感が目に見えて、胃酸が競り上がってきそうだが。

 それでも、上辺だけはいつも通りだった。俺も阿万野も、挨拶しない日もある。だから、こうしているのも別段珍しいことではなかった。

 綱渡りしているような緊迫感が張り詰めていることなど、周囲には分からないだろう。異変を悟られないことはいいが、内心がちっとも片付かない。

 昼休みか放課後か。狙い目はそのころになるだろう。それまでは、この心臓の悪さと付き合っていくしかない。俺がしでかしたのだから、どこかで憂さ晴らしもできなかった。

 そんなに緊張しなくてもいい、なんて阿万野に言えるわけもない。俺のせいでこんな態度にさせているのだから、責められる立場だ。たった数分で逃げ出したくなりながら、それだけを理由にサボるほどの胆力はなかった。

 いや、そうして逃げ惑ったところで、逃げ切れない。阿万野が前席なのは、しばらく不変であるのだから、ずっと逃げられるわけもなかった。

 それに、早く対応してしまわなければ、阿万野をずっと怯えさせることになる。俺は特定してやろうなんて気はなかったのだ。気がついたら口に出してしまっていた。失態の重さがどろりとまとわりついている。

 自分でも早く外してしまいたいし、阿万野を怯えさせておくのは不本意でしかなかった。それでも機会がやってくるまで、黙々と過ごすしかない。

 零れそうになるため息を喉の奥にしまいこみながら、手を動かす。教科書とノートを引き出しに突っ込もうとして、何かが引っかかった。

 プリントでも押し込んでしまっていたか。手を突っ込んで引き出すと、白い封筒が出てきた。折り目正しく用意されているその手紙の封は、クローバーのシールで留まっている。それだけで、差出人はすぐに分かった。

 目の前で背中が緊張しているもうひとつの理由に気付く。この手紙に気がつくのか、という点もあったのだろう。無遠慮に取り出してしまったことを悔やむが、誰にも見られずに済んでいた。

 息を吐いて、手紙を引き出す。中には規則正しく見やすい文字が並んでいた。見慣れている、というのも変な話だが、見慣れた文字だ。俺はそれまで阿万野の文字を認識していなかったというのに、一度気がついてしまえばもうヌルさんの文字にしか見えない。

 ちょっとドキッとしてしまう自分の単純さに呆れた。けれど、推しからの手紙であるのだ。下手をするとただのラブレターよりも価値があるのでは? そう気がついてしまうと、一息に読むのが憚られる。

 ヌルさんの文字で、香具君へと書かれていることに眩暈がした。一度手紙を折り直して、ふーっと息を整える。自分で自分の緊張感をブーストしている気がした。アホか。

 しかし、間を置くことで、罵倒や悪感情が書き連ねられているかもしれないともたげて、一度閉じたものを開くことに逡巡してしまう。

 それでも、見ないわけにはいかない。俺はおずおずと手紙を開き直した。そこに並ぶ文字をゆっくりと読み込んでいく。

 香具君、から始まる中身は端的だった。放課後、特別棟の一階奥。空き教室で待っています。という呼び出しだ。用件は言うまでもないということだろう。実に分かりやすいものだが、だからって光が差すわけではない。

 俺は貴重な手紙を丁重に封へとしまい直した。読む前と同じように戻した手紙は、折れないようにファイルに挟んで保管する。ファイルの上から指を滑らせると、心の奥底がざわめいた。

 それは阿万野に対して緊張していることだけが原因だったか。どうしたって、推しとしての好意を持て余していた。

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