第20話
いつまでも続けていたい話題ではない。分かりやすい方向転換ではあっただろうが、汐里もそれを指摘せずに乗っかってくれた。
というよりも、向けた水がよかったのだろう。汐里はすぐに商品棚へと意識を戻した。そうして、並んだマステの二つを手に取る。
「こっちの可愛いカフェものと花柄のとで悩んでたの」
「どっちもってのは?」
「う~ん。だって、梯子するんだよ?」
二つを見比べながら、うんうん唸り出す。また集中しかけている気がするが、そうなるほど真剣なのだろうから、掘り返すことはしない。
しばらくそうして見ていたかと思うと、汐里は後ろ髪引かれまくった手つきで、カフェ柄のほうを棚へと戻す。戻した後も、指先はふらふらと宙を彷徨っていた。
いかにも名残惜しいとばかりの動きには、思わず苦笑してしまう。その息遣いに、察するものがあったのだろう。汐里は気まずそうに不貞腐れた。視線が物言いたげにこちらを刺す。苦笑するばかりの俺に、汐里は膨れたままだ。
こういうところは子どもっぽい。何にしても、汐里の魅力が目減りするわけではないから困ってしまうけれど。
俺はふっと唇の端から息を漏らすように笑うと、汐里が諦めたカフェ柄のマステを手に取った。一瞬で、汐里の表情が怪訝に染まり上がる。
「俺が買うよ」
「え、でも、蛍君だって買いたいのあるでしょ?」
「マステも欲しかったし、ちょうどいいじゃん」
「欲しい柄なの? ちゃんと悩まなくていい? 後悔しない? 使わないともったいないよ?」
並べられる質問は尽きない。ずっと考え込んでいたことを吐き出しているのだろう。その考えはよく分かる。俺だって同じだ。
「使ってみたいと思ってたし、気にしない。後でお裾分けしような」
「本当?」
問いかけは慎重であるが、瞳には歓喜が滲んでいた。期待が隠しきれていない。やっぱり微笑ましかった。
「うん。お裾分けなんてのもやってみたかったんだよ」
「次のお店では蛍君が気になっているのも教えてね。お裾分けしよう」
「そういうのだったらな」
「うーん。そうじゃなかったら、何かプレゼントする?」
「そこまでしなくていいから」
期待の色が消えているわけではない。それでも、汐里は納得していないようだった。抑えきれない感情はあれど、人に物を買わせる引け目があるのだろう。逆を想像すれば、気持ちも分かる。
「本当に欲しかったから、気にすんなって。汐里にはファイルとかももらってるし、普段手帳のやり方とか教えてもらってるしな。そのお礼ってことで」
「それを言い出しちゃったら、私だって数学を見てもらった恩があるよ?」
「それこそ俺のほうが多くの教科を見てもらったことになるだろ。いつまでも張り合うなよ」
「蛍君だって好きでやってるって分かってるから、考えるんだよ」
俺がそこまで文房具にこだわっていなければ、自分の趣味の文具を押し付けるのも気にしなかった、ということか。
汐里は俺と趣味のことを、思った以上に大切に扱ってくれているようだ。妙にくすぐったい。日頃、文房具談義をしているときにも、その節々は見え隠れしていた。それがこうして表層に現れて、胸がいっぱいになる。
それだけ心配りをしてくれるのならば、余計に気にすることはひとつもない。
「だから、妥協してるつもりはないよ。俺だって、こういうのに興味があるんだ」
「……ムキになってない?」
「なってない。ほら、もうこれでおしまか? お昼になっちゃうぞ」
「そうやって話を逸らすの分かりやすいって言ったじゃん」
「汐里がしつこいからだろ」
言いながら歩を進めれば、汐里はちょこちょことついてくる。そのままレジへと進んでいると、くいっと服の袖を引かれた。
引き止めるにしたって、それはちょっとズルいんじゃないか。どうしたって抜けない可愛いという意識がちくちくと刺激された。宥めるように背を叩いて、軽く頭を撫でる。
「本当に気にしなくていいよ」
かっこをつけたつもりだ。それがさまになっているかどうかは定かではないが、ポーズがついていればそれでいい。汐里は落とし所が見つかったのか。袖を引くのはやめてくれた。
「汐里」
名を呼ぶと、伏せがちになっていた瞳が上向く。俺はその耳元へと口を寄せた。
「ヌルさんが迷ってたのを手に入れられるなんてファン冥利に尽きるよ」
ばっと耳元が塞がれた。隠された耳朶から頬までが赤くなっている。
「ば、ばかっ」
明らかに口にし慣れていない罵倒の発音は拙い。
何それ、かっわ。
「そ、ういうの、ダメ。恥ずかしいし、なんか、なんか」
クラスメイトなのに、ということだろう。だが、今はそんなことにこだわっているよりも、説得するほうが先だった。
「だって、そうでも言わないと納得してくれないだろ? 汐里、ご褒美ちょうだい」
上目にこちらを窺ってくる瞳が揺らめいてる。濡れた灰色が艶っぽい。
「ズルい言い方」
むっと頬を膨らませて零すのも十分にズルい。至近距離で見つめるその白さは餅のように柔らかそうで、触れたくなってしまう。
そして、どうやら今日は我慢の箍が外れていた。注意を促すためとはいえ、肩を抱いてしまったのもその一端だっただろう。
指の背で、頬を撫でた。本当は摘まんでしまいたかったのだから、これでも自重している。そう考えてもいる自分の図々しさには渋い。
「このために頑張ったんだよ。いいだろ? 汐里」
懇願するような声が出る。便宜上の仕草のはずだったそれに、意気が混ざっていた。だが、どう引けばいいのかも分からないし、ご褒美のためというのは嘘ではない。
至近距離で見つめ合う汐里は、困ったように眉を下げた。左下の泣きぼくろと相俟って、雰囲気が出る。可愛い。このくすぐったくて始末に負えない感情を無視しておくのにも、限界が近いのかもしれない。
友人だと念押しし合ったものに、ここに来てようやく疑問が浮かんだ。何をあんなにムキになっていたのか。
今更と言うべき疑問だっただろう。
「分かったよ。蛍君に、ご褒美あげる」
「ありがとう。嬉しいよ、汐里」
「私へのご褒美でもあるんだからね」
「ああ。もちろん。汐里の求めるものがあるなら、何だってあげるよ」
「何だって、なんて言っちゃっていいの?」
「最初に何でもしてくれるなんて言っちゃったのは、汐里だろ? 同じことだ」
「わたし?」
やっぱり無自覚だったか。それとも数ヶ月前のことを覚えていないのか。俺が善良でなければどうなっていたか分からなかった事案だと言うのに。
撫でていた指が我慢できずにひっくり返る。手のひらで包み込むと、すべすべの肌が吸い付いた。俺の手のひらにすっぽり収まってしまうほどに小さな顔だ。
「言っただろ? 何でもしてくれるって。だから、俺と話すようになってくれた」
「……やっぱり、その条件って成立してないよね?」
「秘密にしてるんだから、いいだろ?」
「私ばっかりに都合がいいよ。マステも」
手に持っているそれを示すかのように、汐里の指が俺の手のひらに触れる。心臓に触れられるような感覚があった。
近い。自分から囁くために寄ったのだから分かっていたが、こういうものは概ね後から気がつくものらしい。シャンプーと汐里本人の香りが鼻腔を満たしていた。
「いいんだよ。君に尽くしたいんだ、俺は」
「ヌルだから?」
唇をほとんど動かさずに、その名を自称する。
思えば、汐里が自らヌルだと口にしたのは初めてだった。こんなときばかり。そう思わずにはいられなかったのは、自分の中にある線引きに気がついたからだ。目を細めて汐里を見下ろした。
「汐里だから」
触れている手のひらがじんわりと熱を帯びる。赤く染まっていく頬から伝わる熱を感じるために、手の腹を擦りつけるように撫でた。しっとりとしたもち肌が気持ちいい。
「あ」
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