第31話

 オールグリーン。すべて解決。なんてことはない。汐里と姫凪は追及のときのことには決着を付けたが、他の部分で張り合ってわちゃわちゃしていたし、出回っている噂が息絶えるにまだ七十五日くらいはいる。

 だから、翌日だって、取り巻く空気が違うかもしれないのは予測済みだった。

 それは、俺と汐里の交際の噂かもしれないし、汐里がヌルさんだという噂かもしれない。もしかすると、他クラスの女子と一触即発だったという新しい噂であるかもしれない。まぁ、とにかく、どんな形であれ、一切合切から解放されるとは思っていなかった。

 だが、状況は思ったよりもよくなかったらしい。まずもって、彼女たちが口にしない、と信用していたことも人が良かったのだろう。

 いや、実際彼女たちが流布して回ったから、それが確定したのかは分からない。昨日、一瞬たりとも中庭を覗いた人がいなかったとは言い切れないのだから。

 それに、噂の内容も、汐里がヌルさんというところに焦点が合っていた。俺のことが除外されがちであるから、元からあるものが広がった公算のほうが大きくて、彼女たちを責めることはできそうにもない。そんな状況だった。

 ……ようだ。

 というのも、俺は正確に状況を把握していなかった。朝の時点で、昨日のことが尾を引いているのだろうと楽観的に判断してしまっていたのだ。遠巻きにされるのも、噂の人物としてあまり異様ではない。

 だから、そのまま時間をするすると通り過ぎてしまって、明らかな変貌に気がついたのは昼休みになることだった。とはいえ、気がついていたのは俺ではなく、汐里だっただろう。

 休みになると同時にこちらを振り返ってきた汐里の行動が妙で、一拍の疑問に反応が出遅れた。そのけっつまづいたのが、違和感となって引っかかりになる。そして、顔を見合わせた瞬間に、不安が広がった。

 確認作業のように姫凪のほうを見ると、思いきりこちらを見ている。ここに来て、ようやく俺が理解していないことが起こっていることに気がついた。

 姫凪は把握しているだろうが、引っかけて面倒なことになりたくはない。ちらりと汐里へ視線を戻して、顎で特別棟のほうをしゃくった。汐里は頷くような俯くようなニュアンスで顎を引くと、弁当を手に立ち上がる。それを見送りきるより前に、こちらもコンビニ弁当の袋を片手に後を追った。

 後ろから強い視線が注がれていたが取り合わない。後で顛末を話すくらいの譲歩はあるが、今すぐというのは優先順位が違う。迷わずに、汐里の背中を追った。

 いつもよりも、距離が近い。だから、気がつけるのだろうか。ついてくる視線の動きがよく分かる。それは汐里をまず認識し、それから俺を見て、俺たちの間にある微妙な空間を訳知り顔で見るのだ。

 どういう噂が流れているのか。違ったものがある、と気付きはしたが、亜種くらい。もしくは、尾ひれがついたくらいのものだろうと思っていた。だが、それにしては異様に気遣う気配もある。

 気持ちの悪い違和感を覚えながら、その距離を保ったままに特別棟のいつもの空き教室へと入室した。その瞬間、どっと力が抜ける。何かをしたわけではない。視線に晒されているだけで緊張していたようだ。


「なんか知ってるか?」


 言いながら、いつもの席につく。思えば、昼ご飯を一緒に食べるのは初めてだと思いながらも、汐里もいつも通りに腰を下ろした。


「ぼんやりとだけど……」

「なに?」


 弁当を取り出して、食事の準備を始めながら尋ねると、汐里は困り顔になる。手を動かすことで、時間を稼いでいるかのようだった。そうして、お互いの弁当からそれぞれの香りが広がり始めるころ、汐里はようよう息を吸い込んだ。


「なんかね、甘楽さんと三角関係だって」

「あー」


 瞬間、徒労感が襲ってきた。肘をついて、頭を抱える。感嘆と一緒にはぁと吐息まで零れ落ちた。


「心当たりある?」

「昨日のだろ? 中庭でごちゃごちゃやってたの。やっぱり、誰かに見られたかな」

「そうだった?」


 気がついていたの? というニュアンスに首を左右に振る。


「なんか、汐里とヌルさんの噂だけって気がしなかったから」

「蛍君と組んでるっていうのは流れてないよね?」

「それもちょっとはあるんじゃないか? ていうか、昨日彼女たちが来たときに教室にいた連中が何か勘繰ってるのかもな」

「何を?」

「さぁ? 妄想逞しくすればいくらだって捻れるだろ。俺がハーレムとか?」


 やけくそ、というよりは突飛なことで気分を紛らわせた。噂の内容なんて真剣に考えるだけ無駄だ。汐里は瞬き繰り返していたかと思うと、ふっと噴き出した。


「ハーレム?」

「なんだよ、その反応は」


 割り箸を割って、弁当を口に含みながら半眼を向ける。笑うほど素っ頓狂なことを言ったか。

 その表現が的確とは言えないかもしれない。けれど、女子に囲まれた一人の男なのだから、なんとなくそうした発想力はあるだろう。それともこれは、いかにも男の願望めいた発想だろうか。

 汐里はクスクスと引き続き笑いを滲ませている。何がそんなに面白いのか。咀嚼しながら、じとっと見る。汐里はこほんと咳払いをして、どうにか笑いを収めようとしたようだ。


「蛍君ってそんなに遊んでるって感じじゃないよ」

「そうか? 見た目だけで見れば、そんなに誠実そうでもないだろ」

「それは見た目だけの話じゃん」


 さらりと言われて、腹の底が撫でられた。ごく自然に、内面を考慮して発言される。理解されている。それが何よりくすぐったい。外見の印象がズレていないうえでそう言われることが、感情を格別に煽った。


「でも、同じような揉め事って思われたんじゃないのか?」

「そういうことって現実的にありえる?」

「ねぇよなぁ」


 まったくもって、その通りだ。少なくとも、日本の高校生の中でハーレムを築くなんてのは、物語の中の話だ。

 苦笑して収めると、汐里は口を動かす。もそもそと咀嚼しながら、噂について考えているようであった。ゆったりと嚥下してから、空を眺め、これもまたのっそりと口を開く。全体的に緩慢とした態度だった。


「ハーレムは分からないけどね。甘楽さんと蛍君って仲良いでしょ? 周囲から見ると、私より甘楽さんのほうが仲の良い友達って思われてるから、奪略愛? とか言われてるんだって。昨日のあれも、甘楽さんの呼び出しだったんじゃないかって言われてたみたい」

「略奪も何も……だいたい、姫凪には誰か好きな人がいたはずだぞ」


 これは知らなかったかも。そう思って汐里を見ると、目を丸くしていた。


「そんな意外そうな顔しなくても」

「あ、うん。いや? ちょっとビックリしただけだよ」


 相槌にしては歯切れが悪い。疑問に首を傾げたが、汐里はそれ以上感想を重ねることはなかった。疑わしさは拭えない。だが、話を進められてしまえば、乗り遅れないようにする他なかった。

 自分たちの話だ。他人事ってわけにはいかないだろう。気にしなければいいだけかもしれない。実際のところ、自分のこととしてはそこまで気にしていなかった。

 だが、汐里のこと、と思うと話は変わってくる。自分でもどうなんだと思うが、他人を思いやれるのだからいいことだろうと棚上げにしておいた。


「動画のほうはどうなってるか知ってるか?」

「今のところはあんまり。蛍君のことと絡んでるって感じもないと思う……でも、やっぱり視線を感じるから、私がヌルだって噂は流れ続けてるって感じじゃないかな?」

「そうか……どうする?」

「どうするって?」


 首を傾げられて、こちらも考え込む。気がつけば、食べている時間が思考の時間になっていた。無言が気まずくならないのは良いことだし、昼休みの使い方としては効率的だろう。そんなことに思考が散っているのは、半ば現実逃避であったかもしれない。

 集中力がまったくなく、気がつけば弁当の唐揚げを味わっていた。汐里も静かに弁当を頬張っている。


「……作ってんだっけ?」


 不意に零れたのはその弁当に対する感想で、突拍子もなかった。汐里も一瞬、何を言われたのか分からなかったようだ。わずかな間を置いてから、回路が繋がったかのように頷く。


「冷凍食品も多いけどね。一応、一人で作ってるよ」

「すごいな」

「まだまだだよ。キャラ弁とか作る人はもっとすごいもん」

「まぁ、そりゃキャラ弁はすごいけどさ。毎日弁当作るのもすごいじゃん。大変だろ? 俺はできないし、やる気ないし」

「料理はまったくしないの?」

「汐里はクッキーとかカップケーキとか作るんだもんな」


 ヌルさんの動画を思い出したように告げると、汐里はむず痒そうに目を細めた。相変わらず、動画のことを引っ張り出されるのは気恥ずかしいようだ。ご褒美の件で話題にしたことすらあったというのに。


「あれはレシピ通りだから」

「それでも十分だよ」

「それは蛍君がやらないから、そう思うだけだよ」

「それは言いっこなしだろ? それを言われちゃ、否定も何もできないじゃん」


 むくれるように零すと、汐里はしれっとした顔で箸を進める。喋るのを回避するために食事するのが、この数分で定番になりつつあった。


「それより、どうするの?」


 このインターバルで話題が切り替えられるというのは無理がある。話は本線に戻された。俺が脱線させたのだから、文句を言えた義理ではない。


「汐里はいいのか? ヌルさんの件は」

「そう思われちゃってる分には、もういいかなって。まだ怖いけど、別に不特定多数に肯定することはないし……昨日も、特に否定はされなかったから。そっとしておけばいいのかなって」

「……昨日みたいに質問攻めにあったらどうする?」


 状況を思い出したのか。渋い顔になって黙り込んでしまった。沈黙を埋めるための食事もすっかり忘れ去ってしまっている。


「俺がいつだっているとは限らないし、そのたびに心臓に悪い思いをするんじゃないか」

「……でも、自信を持ってもいいって言ってくれたのは蛍君だよ」

「……そうだな」


 確かに、否定して欲しくなかった。だが、いざ知れ渡っていると思うと、どうも胸に靄がかかったようなわだかまりがある。それを言い出すことはできなくて、下手な相槌を打つだけになってしまった。

 今度こそ、気まずい沈黙が流れる。無言で箸を進めてしまったのは、ここまでの条件反射だった。そうして、向こうも同じような状況になると、今度は再開するタイミングが分からなくなる。

 今までどうしていたのか。刹那に足元が崩れてしまったような気がした。

 そのまま弁当の中が空になるまで、沈黙が続く。ゴミを袋にぶち込むだけのこちらと、二段弁当を綺麗にしまいこむ汐里とで、片付けに時間差が生まれて、待ち時間がために沈黙が浮き彫りになった。

 吐きそうになってしまうため息を、昼食と同じように腹の中に収める。


「蛍君」


 作業を終えた汐里が、静かに名を呼んだ。往生際悪く袋の結び目を弄っていた手を止めて、汐里のほうを見た。

 こちらを見ている眉尻は下がっていたが、瞳は凪いでいる。

 随分、距離は近付いた。姫凪が言ったように仲良くしていた。それ以上に惹きつけられている自覚もしたほどだ。けれど、だからといって、考えが読めるようになるわけじゃない。何を言われるのか。緊張に気道が塞がる。


「……あのね、」


 緊張しているらしい、と気がついたのは、躊躇いの間が出てきてようやくだった。

 はくりと唇を震わせる汐里は、怖いと言っていたときと同じだ。俺を前にして、その仕草をすることがダメージになる。そんな気持ちはもう二度とさせたくはないと思っていたのに。


「私は別に、肯定するつもりはないよ」

「放置?」

「うん。それでいいって思ってる」

「それは、姫凪と修羅場を迎えてるっていうのもか?」

「動画のことと関係あるかな?」

「醜聞として扱われれば、それなりに面倒じゃないか」

「ヌルにそこまでの話題性はないよ」

「まぁ、それは置いておくとしても、三角関係を観察されるのは勘弁だぞ」

「本当は何角形にもなってないのにねぇ」


 呑気な感想には苦笑いが零れる。カップルだと認めてしまったのはこちらだ。


「それなのに、放置するか?」

「蛍君はどうなの?」


 切り返されて、間が開いた。

 何ひとつ、否定するポイントはない。むしろ、自分からその発案をしてしまった立場だ。それも許可を取らずに先走った形で。問いかけられる必要があるだろうか。


「……今更だろ」


 本心の動揺が、にわかに返事をおかしくした。汐里がぱちくりと目を瞬く。


「蛍君が気にしないなら、蛍君と付き合っているのはいい」

「姫凪のことは?」

「……よくはないよね。気持ちいい話じゃないし」


 カップルの噂は猛烈な勢いで過ぎ去るだろう。特に害も何もない。好奇心を満たすためだけのものだ。三角関係だって、他人事であるから、所詮は好奇心でしかないかもしれない。けれど、知名度がなかろうとも醜聞は醜聞だ。

 たったひとつのそれで立場がどうだのと言うつもりもないが、実際そういうのはそれこそ姫凪よりもしつこくはびこったりする。狭い世界の評判は、過ごしやすさに直結しているのだ。逃げられない。汐里をそんな立場に貶めるつもりはなかった。


「方法がないわけじゃない」

「どっちの?」

「どっちも」


 都合の良い目論見だ。それは、噂を退けられるからではなく、俺にとって。ただ、こうなってしまった。というよりも、自分で状況を作ったも同然の今となっては、他に手段がない。……考える思考が働いていないのかもしれないが。

 さすがの汐里も疑り深い目になった。だろうな、と思うと失笑が零れる。悪徳商法や詐欺を連想させるようなものだ。俺だって、こんな都合の良いことを持ちかけられたら疑う。

 それでも、人差し指をくいっと動かして汐里に耳を貸すように持ちかけた。この仕草も大概胡散臭い。しかし、汐里は疑っていたのが嘘のように、顔を寄せてきた。

 大丈夫か、と何度も思ったチョロさへの心配が心を覆う。それでも、注意はせずに耳元へ口を寄せた。

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