第10話
甘楽に見つからないように、と気を回したのは昨日のことがあったからだ。
昨日の今日で呼び出されているなんて思われてしまったら、今度こそ追及から逃れられそうにない。昼間にしおりを手渡ししたときにも、不思議な目を向けられたくらいだ。符牒にしても危うい道であるのかもしれない。
俺は放課後の時間を教室で潰してから、特別棟へ向かうことにする。同じように阿万野も残っているのは、奇しくも阿万野がヌルさんだと気付いたときと一緒だった。
甘楽はいつものようにさくっと帰っていて、胸を撫で下ろす。これで粘られていたら大変だったはずだ。想像するだけでも疲れる。
そして、教室に最後まで残ったのは俺と阿万野だけだった。こうなってくると、移動する必要があるのかという疑問が浮かぶ。
だが、阿万野はそのつもりであるようで、人がいなくなったところで荷物をまとめ始めた。集中していればこうまでタイミングよくはないだろうから、本を読みながらも気配に意識を向けていたのだろう。
そうまでして俺の願いを叶えてくれようとしていると思うと、胸が満たされる。飲まれそうになる微笑ましさを飲み込んで、俺も荷物をまとめた。そのまま、お互いに知らん顔をしながら教室を出る。
この偽装はいるのか? という疑問はあるが、阿万野がそうするのであれば俺はそれに従うだけだ。これは俺の願いを叶えるがためにやってもらっていることであるのだから、文句などひとつもない。
俺たちは無言のまま、距離を保って特別棟へ移動した。空き教室は、いつも鍵がかかっていないらしい。扉を開いた阿万野が先に入っていくのを見届けて、後を追うように室内へと入った。
電気はつけなくても、まだ夕方にもならない窓から太陽の光が差し込んでいる。阿万野は窓際の机に座ったので、俺もすぐその後ろの席に着いた。意図したことではなかったが、前後席にしてしまったのは、教室での癖であるかもしれない。
阿万野は椅子に横向きに座って、こちらに身体を捻る。それは向き合うよりもちょうどいい距離感のような気がした。
「一緒に出るの、まずいか?」
出し抜けになってしまうのは、もう考えるだけ無駄だろう。
俺は阿万野と二人になると、どうも会話のペースが掴めない。ヌルさんというフィルターが厚すぎるのだ。必要以上に重ね合わせるのもどうかと思うが、どうしても割り切ることはできなかった。
「香具君のほうがまずいんじゃないの?」
「どうして?」
「甘楽さんに悪いんじゃ?」
「だから、そうじゃねぇって」
「だって、なんか今日心配されてたでしょ?」
「昨日、特別棟に来るの捕まったからな」
「……大丈夫?」
「大丈夫だよ。阿万野のことは言わないし、気付かれてもない」
「香具君が大変じゃなきゃそれでいいけど」
「甘楽、気になるか?」
「仲良いみたいだから」
「席が隣だからな」
「私は前だったけど、そこまでじゃなかった」
「そりゃ、阿万野も俺もそこまで話すほうじゃないからだろ?」
「香具君はそうでもないでしょ?」
「そうか? 騒がしくしてるつもりないけど」
「そうだね。騒がしくはないよ。一人でへっちゃらな人だもんね、香具君って」
「よくお分かりで」
この辺り、同じ属性を持つものはなんとなくシンパシーを感じるものだ。肩を竦めると、阿万野も苦笑した。自分も同じ性質であると伝えているようなものだと自覚があるのだろう。
「でも、香具君が文房具に興味があるのは意外だった」
「やっぱり?」
上っ面だけを見れば、俺はとても文房具を趣味にしているようには見えない。俺自身、意外な沼に落ちた自覚がある。
元々、俺には無節操なところがあった。色んなことに興味を持って、足を出す。出すだけ出して、それなりに楽しんだころには次のことへと渡り歩いた。完全に足を洗うかどうかは、そのときの気分だ。
なので、文房具に限らず見た目からは意外なものもある。それを今取り立てるつもりはない。阿万野の感想は何も間違っておらず、同意するばかりだった。
「きっかけは何だったの?」
俺の願いを聞き入れてくれたのか。阿万野は会話を広げようとしてくれている。なんと律儀なことだろうか。
ヌルさんであることの口止めにしても、律儀すぎて心配になる。騙されたりしないだろうか。それこそ、何でもだなんてみだりに口にして。怖すぎるが、心配よりも回答を優先した。
おもむろに腕を持ち上げて、阿万野を指差す。無作法かもしれないが、きっかけを示すのには一番分かりやすい方法だった。阿万野はきょとんと俺を見つめている。
「ヌルさん」
いつもは心の中でしか呼んでいないし、阿万野に呼びかけたのだって漏れ出た独り言のようなものだった。こうして改めて呼びかけると、口慣れていなくて居心地が悪い。口内に苦味が広がった。
「……わたし?」
難しいことは言っていないはずだ。それだと言うのに、阿万野は漠然とした顔をしている。物分かりの悪い顔は、初めて見る表情だった。端然としている阿万野にも、崩れる表情があることを知る。
「すごく見やすくて、見てて楽しいし、興味が湧いたんだよ。だから、きっかけはヌルさん」
「……あ、ありがとう」
困り眉は歓迎したい顔ではないが、その頬が赤く染まっていれば話は別だ。阿万野は毛先を弄りながら
「なんか、面と向かって言われると、恥ずかしい、ね」
なんて言うものだから、こっちまでむず痒くなる。
推しに言うには、それほど過激な言葉ではない。本音を言えば、動画が好きだとより直截なものを抱えている。それよりも柔い言葉でここまで照れられると、自分の抱えているものの重さに顔が熱くなりそうだった。
「……あんま、言わねぇようにする」
唇を尖らせてしまったのは、照れくさくて仕方がなかったからだ。
阿万野は赤い顔のまま、こくんと頷く。それから、そっと手のひらを胸元に置いた。豊満な胸に目が向きそうな動作はやめてほしいものだが、それにくっついてきた言葉はそれ以上の破壊力を持っていた。
「心臓に悪いから、そうしてくれたら嬉しい」
それはこっちのセリフで、俺はぱたりと机の上に伏せる。
「香具君?」
俺の大仰な反応に、阿万野は不可解な声を出した。当然だろう。俺だって、話し相手に突然こんな態度を取られたら、不可思議に思わずにはいられない。
「なんでもない」
「大丈夫? 調子悪いの?」
「ん、いや、そんなことないから、いいよ」
うつ伏せたまま、手のひらだけを持ち上げてひらひら振る。こんな珍妙な態度を素直に心配されると、何だかどんどん追いつめられていく気がした。自縄自縛が否めない。
やはり、ヌルさんと対面しているという現実が、情緒を不安定にしているのだろうか。このままってわけにはいかない。それは阿万野に失礼だ。しかし、慣れるときはくるのか。一抹の不安は拭えなかった。
「そう? 無理しなくたっていいよ? 今日はもう解散する?」
「……なぁ」
うつ伏せた状態から、机の上に腕を組んで顎を乗せて見上げる。その状態から見上げる阿万野の角度は見慣れぬもので落ち着かなかった。……胸が近い、とは絶対に悟られてはならない。
阿万野は無垢な瞳で首を傾げる。振動から目を反らしてしまった。それはただの身体の揺れでしかないだろうが、邪念があればどんなふうにも見える。
「やっぱ、迷惑だった?」
「どうして?」
「解散とか言うからだろ。交換条件だからって仕方なくなら、別に聞いてくれなくていいぞ」
「交換条件なんだから、反故にしちゃダメじゃない?」
「そこじゃなくて、迷惑かってところで議論してくれよ」
我ながら面倒な絡みをしているな、と思った。迷惑ながらに相手をされるのは嫌だなんて、我が儘だ。阿万野も困ったように眉尻を下げている。気まずくって目を伏せてしまった。
「ねぇ」
さっきの俺が呼びかけたような声音に視線を戻す。阿万野は椅子の背に腕を組んで、こっちを見ていた。目線が合うと、随分近い。光を弾いている虹彩までも視認できてしまいそうだった。
「香具君は文房具の話ができるのが嬉しいんじゃないの?」
「そーだよ」
だから、義務感で付き合って欲しくはない。ここまで情緒不安定が続くとは予想外過ぎた。
「……それって、バレットジャーナルのページ構成に悩んでるとか、シールが可愛くてつい買っちゃうとか、文具店が遠くて悲しいとか、使いきれない文房具を積んでしまう悪癖をどうしたらいいかな? とか、そういうの話せるってことでしょ?」
具体的な話にぴくりと耳が動く。阿万野は悪戯っぽい顔でこちらを見つめていた。真っ直ぐさは純真さであるようで、やっぱりむず痒い。
「違う?」
無言でいる俺に痺れを切らしたのか。阿万野が続けて首を傾げてくる。
「違わない」
「私もそういう話できる人がいるのは嬉しいよ」
「……でも、俺はまだ手帳も手に入れられてないし、ペンもシールもマステもあんまり持ってないから、阿万野の言う話と釣り合いかは分からないけど」
「マステも可愛くてついつい手が伸びちゃうよねぇ。百均にもいっぱいあるんだもん」
「出かけるの大変だろ?」
「だから、出かけたときについでだからって買っちゃうんだよ」
「町の文具店には行かないの?」
「ペンを買いに行ったりはするよ。さすがに取り揃えがあるしね。リングノートも置いてあるのを見ちゃうかなぁ」
「バレットジャーナルに向いてるノートはないじゃん」
「リングノートから始めてもいいと思うけど……やってみたいの?」
「興味ある……っていっても、管理するほど何かやってるかって言われると微妙なんだけど」
「課題をリスト化するとか、習慣をチェックするとか、使い道はあると思うけど。香具君は何かやってる?」
「筋トレはやってる」
「じゃあ、ハビットトラッカーを作ってみてもいいかもしれないね」
「でも、筋トレ以外でチェックするようなことないんだよなぁ」
「それでもいいんじゃない? マンスリーのページにひとつだけくっつけるってのもありだし、腕立てとか腹筋とかランニングとか、種類別に分けるってのもひとつだよ」
「なるほど」
動画を見ていると、ハビットトラッカーのページ、として一ページを使っていることが多かった。そんなにチェックすることがないし、そうなるとページは必要がない。
最低限ではインデックスとフィーチャーログとマンスリー、ウィークリーかデイリーページがあればバレットジャーナルは成り立つと聞いている。だから、ハビットトラッカーはなくても構わないが、俺の場合フィーチャーログが曖昧になりそうだった。
何かを達成しようという目的よりも、書いてみたいという欲求が先行しての手帳活動なのだ。そうなると、ただの普通の手帳で事足りる内容しかない。
それでいいとしても、手帳は時期を外した田舎では手に入りづらかった。だから、試しにバレットジャーナルに挑んでみたい。そう思っていたが、何を採択すればいいのかと迷っていたのだ。
ここに来て、簡単に解決策が出てきたことで前向きになる。威勢良く頷いてしみじみしていた俺に、阿万野が緩々とした笑い声を零した。浸っていたものから引き起こされて、阿万野へと意識を戻す。
阿万野は楽しそうに頬を緩めていた。しょぼんとしているよりよっぽど安心できるのでいいが、融和的になった理由がなんなのかは分からない。
「こんな感じでいいんでしょ?」
そう言われて理由に気がつくと、口端から息が零れ落ちた。空気が漏れるかのような息遣いに、身体の力も抜けたようだ。別に硬くなっていたわけではないけれど、それでも気が抜けたというか。和やかさを手にしていた。
「楽しい」
ふんわりと笑って追加されれば、迷惑なんて杞憂だと分かる。阿万野の笑顔に頷いた。
「思った以上に楽しい」
「迷惑だなんてまったく思わないからね」
念を押されるように言葉にされて、たじたじになる。こちらから言い出すのもおこがましかったと、今になれば分かることだ。面倒なことを言っている自覚はあったが、想像以上であったことを痛感した。
「しつこく聞いてごめん。じゃあ、これからも、相手してくれる?」
「もちろん。私こそ、いっぱい話したいことがあるから、香具君ちゃんとついてきてね」
「暴走されたら振り落とされるよ」
「一緒に走るようにするから」
そこから受け取れる、自分と会話を楽しみたいという思いがくすぐったい。そこに甘えて、居直ることにした。だって、楽しいし、俺が求めたことだ。阿万野がこれでいいと言うのだから、何を遠慮することがあるのか。
ヌルさんと阿万野との感情の違いに折り合いはまだまだつきそうにもないが、後のことは後の俺に任せてしまうことにする。こんなふうに一緒に話そうとしてくれる友人を前にして、それを撥ね除けてしまえるのなんて人でなしか何かだ。
少なくとも、俺は喜びのほうが強くて、余所事に気を割くつもりがなくなってしまった。
「追いすがれるようになるよ」
「文房具とか持ってきて、実際に色々やったりして話そうね」
「あ、それは嬉しい。俺でもできるようになるかな?」
「追いすがってくれるんでしょ?」
「先生にもなってよ」
どうせなら、という欲がちゃっかり漏れ出す。追いすがるような言葉になっていたのは、居直っていたからだろう。
阿万野はぱちくりと瞬きをしてから、表情を綻ばせた。面白そうな空気を醸し出す阿万野は眩しい。身を起こした阿万野は、わざとらしく胸を反らして笑う。
「しょうがないなぁ」
満更でもないような。ふざけたような。そんなふうにはにかむ笑顔が抜群に似合っていて、俺は白旗を上げた。
「これからよろしく、阿万野先生」
「はい。よろしくされました」
先生らしいイメージなのか。敬語でお姉さんのように笑う。存外、ノリがいいらしい。釣られるように笑って、俺たちの密会は正式なスタートを切ったのだった。
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