第9話
その日の動画は、手帳時間の動画だった。
その手帳が完全なプライベートで運用されているのかは分からない。世界に発信するには困る事柄もあるだろうから、ある程度は見せる用ではあるのだろう。それでも、日々起こったことを書き出していることに違いない。
それの今日の日付のもの。そこには、クラスメイトと文房具談義をすることになった。という一文があった。それはメモのようなさりげなさで書き記されている。素っ気ない。
だが、俺にはその文字列がひどく輝いて見えた。ヌルさんと阿万野の輪郭がくっきりと重なっている。近いかなぁなんて浅慮に考えていたのが、現実に重なることになるとは予想外甚だしい。
俺は鞄の中から手紙としおりを引き出した。そこに並ぶ阿万野の文字と、素っ気なく書かれているヌルさんの手帳の文字は、どこをどう切り取っても同じだ。はぁ、と零したため息には喜色が含まれていた。
だって、そうだろ。俺がこの趣味にぬるっと落ちてしまった原因がヌルさんだったのだ。そんな相手と接点を持ってしまった。しおりも、まじまじと見てしまう。昨日は恐れ多くて、というよりは恐怖に慄いていて、検分するような心境にはならなかった。
今だって、恐れ多い。でも、これからこれが俺と阿万野の間を行き来して繋いでくれるのだ。そう思うと、価値は一段と高まる。
やべぇな。
自分の浮かれっぷりに頭を抱えそうになる。今日のあれこれが思い出されて、気持ちの手綱を締めなければと呻きそうになった。
破天荒な態度を取ったのではないのだろうか。阿万野は面倒や迷惑に思っていないだろうか。流されてしまって、何でもなんて発言したことを後悔してはいないだろうか。考え始めたら、阿万野への心配が積み上がっていく。
強引に押し進めたような気がしないでもない。いくら、阿万野が受け入れていたからと言って、厚かましいにもほどがあったのではないか。自室に戻ってきて頭を冷やすと、胸苦しい。放っておくと呻き声が漏れそうで、喉仏を鳴らして飲み込んだ。
手紙は引き出しの中にしまって、しおりはファイルの中に挟んでおく。慎重に片付けているいじましさには、我ながらむず痒くて仕方がない。だが、大切なものだ。
ヌルさんから、という付加価値を無視することは難しい。阿万野から、と考えても、やっぱり貴重なものではあるけれど。けれど、ヌルさんはヌルさんだ。
そう思うと、俺のお願いは強欲だったのでは? と考えが戻ってくる。滑車のように回る思考は、絶え間なく続いた。だが、前日も緊張でよく眠れない一夜を過ごしていたのだ。考えているうちに思考は薄らいで、意識を手放していた。
そうして寝落ちした翌日の目覚めはよろしくない。昨日に引き続き、妙な緊張感を携えたまま、談義ができる高揚感までも加わって、言葉にできない朝を迎えた。
一晩煮詰まってしまったそれは、ますます厄介な塊となって腹中に居座っているような気もする。どう考えても昨日のテンションはおかしかった。
ヌルさんだということを言いふらす気もないのに、何でもという条件に乗っかるなんて調子に乗っている。頭が痛いのは寝不足だけが理由ではないはずだ。その頭を振りながら、登校する。
そんなふうに頭のすべてを占拠してくれる相手というのは、こういうときに限って出会うものであるらしい。これが恋なら、そう簡単に会えることもなかったのかもしれないが。どうしようもない感情を噛み砕けずにいる相手となると、変に遭遇する。
……そうでなくとも、クラスに行けば否が応でも顔を合わせるが。
「おはよう」
「おう」
阿万野は昨日一日中携えていた緊張感をなくしてしまったのか。自然体で挨拶を寄越す。答えた自分のぶっきらぼうさに、頭を抱えたくなってしまった。
何をやっているんだ。
昨日から幾度となく浮かぶ言葉が、またしても脳内に鎮座した。廊下でかち合ってしまったために、そのまま教室へ入る。それとなく視線が寄せられたが、それもすぐに散っていった。
甘楽は俺をトップカーストに分類していたが、こういうときの注目度のなさからはそんな様子は見受けられない。無論、ありがたいのでこのままでいい。俺たちは普通に席に着いた。
だが、しかし、どうやら分類がバグっている少女は、俺のことをスルーしてはくれないようだ。
「どうしたの?」
と、ごく自然に不自然さを嗅ぎ取ったらしい。
昨日は気付かなかったくせに。と思うが、放課後のあれこれが引っかかっていれば、何かあったのかと勘繰ってもおかしくはないかと思い直す。
昨日、阿万野に勘違いされたことが蘇った。思うところがあるらしい。阿万野の勘は侮れないようだった。符牒を決めておいて正解だったかもしれない。
「何かおかしなところでも?」
「昨日、呼び出しを食らっておいて、今日くたびれてるのを見て何もなかったと思うほうがおかしいと思うけど」
阿万野も含んだ疑問ではなく、俺個人の様子から導き出したものであったようだ。その事実に、心底ほっとした。
阿万野とのことは秘密だ。ヌルさんのことを抜きにして伝えることは難しい。結果として、すべてを伏せたほうが早かった。それに、秘密にしておきたい。せっかく符牒を決めたヌルさんとの秘め事なのだ。いくら気さくな甘楽であっても、伝える気は更々なかった。
「まぁ、ちょっと自分のやりようが気になってるだけだよ。何かあったわけじゃない」
「十分、どうかしてるくない?」
確かにどうにかはしている。自分でもよく分かっていて、昨日は本当にどうかしていた。だから、甘楽にそう言われるのも仕方がないのだろう。
だからって伝えるわけにはいかないので俺は肩を竦めるだけだ。
「問題ないよ」
「……悪いこと?」
俺の口が重たいことを察したのか。それとも、一時撤退なのか。甘楽の気楽な踏み込み具合は読めないが、問いが緩くなったことはありがたい。内容を詳しく答えることはできないが、良し悪しくらいならば問題はないだろう。
「とってもいいこと」
「告白じゃん」
「なんで決定事項だよ」
半眼で責めるように零されて、こちらのほうが胡乱になった。
男子高校生のいいことを色恋沙汰に直結させるのをやめてくれ。甘楽に想い人がいるから、そういう発想になるのか。それは自由だが、俺にそれを適用させなくていい。
恋ともまた違うのだ、これは。
多分。
「違うの? いいこと??」
「他にも色々あるだろ?」
「そうかなぁ」
阿万野との関係をつぶさに伝える事態を回避できたことはいいが、恋愛事にされるのは煩わしかった。
恋愛事を忌避しようってんじゃない。俺だって、彼女が欲しいと薄ぼんやり思うくらいはある。だからって、出来事すべてを逐一連想ゲームされてはたまったものじゃなかった。
「とにかく、告白とか彼女とかそういうんじゃないって。いくら自分がそうだからって、俺にも適用すんなよ」
「はぁ!? なんで!」
ぶわっと音量を上げた甘楽に、クラスメイトの目が集まる。そのひとつには阿万野のものもあった。ついでとばかりにこちらを撫でたので、何か勘違いをさせたのではという気がしないでもない。
甘楽はすぐに我に返って口元を押さえ、周囲にヘラヘラ笑顔を見せて場を収めた。聞き耳のほうを収められたかは疑問だが、まぁ視線が散っただけいいのだろう。甘楽はそれでよしとしたようだった。
「なんで私がそうだって、知ってるの?」
きょろきょろとうろつく視線が、戸惑いを写す。そんなことはみんな知ってんじゃないか、とはさすがに可哀想で言い出せなかった。
「まぁ、ちょっと小耳に挟んだっていうか?」
これ、結局言っているのと同じかと思ったが、甘楽はそんな大局的なことには気がつかなかったようだ。
「え、な、なんで?」
甘楽は大層混乱しているようで、同じことを繰り返す。なんで、と言われても、甘楽がそうして男子を振ったのだ、と噂になるほどに甘楽が人気のある女生徒というだけの話だった。
「何でも何も聞いちゃったものは聞いちゃったっていうか……ごめんな?」
「い、いいけど?! 仕方ないけど?!」
全然、そんなふうには見えない。語尾が跳ねてしまっている。そうして、緩く瞼を伏せて頬を赤くした。
甘楽でも照れるのか、と見当違いなことを思う。ハツラツとしているし、想い人の話でもあっけらかんとしているのかと思っていた。初めて見る顔だ。
「……誰か、とか聞いた?」
ぽそりと零されて、照れる理由に気がつく。そりゃ、想い人の名前まで知られていたら、いたたまれないだろう。名が知られているのといないのとでは、天と地ほどの差があるはずだ。
「知らないよ」
「そっか」
はっきりと答えると、甘楽はどっと肩の力を抜いた。やはり、その心配をしていたらしい。ため息まで吐く甘楽を思うと、軽率に知っていると答えたことが申し訳なくなる。
とはいえ、しらを切ったところで知っていることには変わりはないわけで、黙っていてもどうしようもない。ただ、甘楽は自分の想い人が知られていないことに気を取られて、そこまでの話を流し去ってくれたようだ。
会話に一段落がついて、ついでにチャイムが鳴ってくれたおかげで、俺と阿万野の秘密は守られた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます