第8話

 もったいぶったつもりはなかった。ただ、躊躇が生まれたのは本当だ。何でも、なんて言われて浮かび上がる候補から適切なものを取り出すまでの時差だったかもしれない。

 阿万野は真っ直ぐに俺を見つめている。


「俺に手帳とか、そういうの教えてくれ」

「え?」

「文房具談義もしてみたい」


 踏み込んだつもりだった。周りにそういう人間がいなさ過ぎて、飢餓感が芽生えていたころだったのだ。

 ヌルさんであることを考えれば、何とも贅沢な申し出だろう。だが、語り合える相手なんて、この機を逃したら出会えるかどうか分からない。阿万野が何でもいいと言ったのだから、これくらいの我が儘は許されるはずだ。

 そうして思いきったのに、阿万野の反応は芳しくない。やはり、おこがましかっただろうか。


「……ダメか?」


 期待していた分、ダメージが重い。

 だって、何でもという注釈がついていたじゃないか。それが、実際に何でもいいという意味でないことも分かっているけれど。けれど、阿万野があんまり真剣な顔で言うものだから、真面目に取り合ってくれると希望を持ってしまった。

 虚脱して、机に身体を預ける。阿万野はそんな俺の一挙手一投足を見つめていた。それほど奇っ怪な目線を寄越さなくてもいいだろうに。俺はもう起き上がって言葉を重ねる気力もなくて、そのまま項垂れていた。


「香具君」


 間を置いて呼ばれた名に、小さく目線を投げる。阿万野は困惑した顔で俺を見ていた。どういう感情なのか分からない。何でも、を真に受けた痛い視聴者だろうか。だって、どこまで距離を詰めていいのか分からなかった。

 確かにヌルさんで、動画投稿主だ。でも、だって前席の阿万野でもある。同級生。クラスメイト。そうした甘えが出た。返事をする余力はどこにもない。


「そんなことでいいの?」


 ダメだと決めつけて消沈していたものだから、一瞬何を言われたのか分からなかった。口を開いてしまう。そんなこと、ってほど、無価値なものではないはずだ。

 そりゃ、クラスメイトだけに限って言えば、雑談しようというだけのものかもしれない。だが、ヌルさんという付加価値で、その希少性は変わってくる。そんなこと、で片付けていいものではない。少なくとも、俺にとっては勇気を出さねばならぬものだった。

 それを、そんなこと。

 ぽかんとしっぱなしの俺に、阿万野は眉尻を下げた。元々垂れ目なものだから、泣きぼくろと相俟って困惑度が強い。その表情に、なだらかに意識が戻ってくる。


「香具君?」


 そこに名を投げられて、ようやく意識が繋がった。


「いいの?」

「いいのって……今だって、お話しするよね?」

「それはそうだけど! 趣味の話をしたいの、俺は」


 うちに溜まっていたものが溢れる。自分でも想像以上だった。


「……それはどれくらい?」

「どれくらい?」


 頻度か、程度か。その他か。首を傾げる俺に、阿万野は困ったように髪の毛先を弄る。


「動画の話もしたいってこと?」


 即答できることではなかった。

 裏話やこだわっていること、そうしたことを聞けるのならば聞いてみたい。しかし、そうでなくとも文房具について語れるだけでも嬉しいものだ。贅沢を言っていいものか、という逡巡が生まれた。

 返事を待ってくれる阿万野からは、それを過剰な要求だと考えているのかどうかまるで分からない。それが躊躇いに拍車をかけて、もごもごと口の中で言葉を転がしてしまう。

 しかし、どれだけ感情を抑え込もうとしても、好奇心が消えることはない。


「……できるなら」


 我ながら、弱々しい要望だった。阿万野はやっぱり困った顔になる。どう考えたって、我が儘を言っているだろう。最初の何でも、に追加注文したようなものだ。


「いや、分かってる。我が儘だな、これは! 動画の話はいい、いや、聞けるなら嬉しいけど、それはそれとして、文房具のことを話せる相手がいれば嬉しいから、それで……」


 上擦った感情のままに、思考がだらだらと滑り落ちる。願望もまとまっておらず、はすっぱにお願いを繰り返しているだけのような様相だ。勢いを失墜させた俺に、阿万野は瞬きを繰り返している。その姿を見ていると、語尾は消失してしまった。


「お、落ち着いて、香具君」


 そういう阿万野の声も大概慌てていて、少しだけ気持ちが落ち着く。相手の動転で落ち着くというのも何だが、二人して慌てふためいていても仕方がない。そうした冷静さがじわりと機能した。


「あのね、お話しするのはいいの。でもね、あの、できれば秘密にしてほしいから……内緒ならいいよ」

「内緒なら……」


 阿万野は奇妙な提案をしているわけではない。

 しかし、内緒という秘密の共有を持ちかけてくることが、心に引っかかる。何でも、の威力がどこかに引っかかったまま離れていなかったのかもしれない。言葉を意味深に受け取るアンテナが立っているようだった。


「えっと、こことか。場所指定して話す? 感じなら……」


 阿万野は妥協案を出してくれる。叶えてやるほうであるのだから、堂々としていればいい。それなのに、どこか慎ましやかな言い方で、こっちまで恐る恐るになってしまう。


「無理してない?」

「何が?」


 きょとんとされて、噛み合っていないのをひしひしと感じた。これは何も今に始まったことじゃない。多分、最初から何もかも噛み合っていない。阿万野が何でも、と言ったところに乗るべきではなかったと思うほどに。


「いや、なんかいちいち場所指定して待ち合わせするなんて面倒なことしたくないだろうし」

「それはこっちのセリフだけど……香具君は雑談にそこまで手間暇かけるの面倒じゃないの? そこまでは思ってないかなぁって思って」

「思ってるけど!?」


 前傾姿勢でかぶりついてしまった俺に、阿万野が背を反らす。その頬に淡い桃色が滲んでいくのを目視して、慌てて身を離した。

 何をやっているんだ。思わず額を押さえて、前髪を掻き乱す。


「悪い」


 気まずいやら気恥ずかしいやらで、胸中がぐちゃぐちゃだ。


「ううん。ビックリしただけだよ」


 小さく俯いた顔が、毛先を弄っている。

 本当に何をやっているんだろうか。漂っている甘酸っぱい雰囲気に馴染むことはできない。すわり心地が悪くて、何とも言えない状況をどうにかしなければ、と気が急く。


「なんか、焦って……ごめん。情緒不安定だな。でも、内緒でもいいから話したいと思ってるのはマジ……です」


 本音を曝け出すのは面映ゆい。敬語で締めくくってしまった自分の甲斐性のなさに、萎れたくなる。言葉に嘘偽りなく、情緒不安定だった。感情が乱高下している。恐らく、これは興奮も混ざっているだろう。ヌルさんと会話しているという現実に、地に足が着かない。


「面倒じゃない? 香具君ってバイトもしてるし、色々な人たちと付き合いあるでしょ?」

「面倒じゃないよ。阿万野と話したい」

「……動画主だからでしょ?」

「それは否めないけど、話すのは阿万野だろ」


 それは切り離せないことだ。同一人物であるのだから、間違いなく切り離せない。ヌルさんと話せるという高揚が半分を占めていることも否定できないだろう。だが、それは阿万野と話すことと同一だ。

 文房具好きな子と話したいという点で言えば、阿万野と話すということで変わりはない。とても伝えづらいうえに、まるで屁理屈でも捏ねているようなものだが。

 案の定、うまく伝わっていないのだろう。阿万野は要領を得ない顔をしていた。どうすれば通じるのか。考えてみても分からなくて、阿万野と話したいという主張のままにしておいた。

 阿万野はしばらく固まっていたが、毛先を弄りながらそろそろとこちらを見上げてくる。


「それって交換条件として成り立ってる?」


 ことりと首を傾げられて、こちらまで首を傾げてしまった。

 何でも叶えてくれる。俺はそれに従ってお願いをしていたはずだ。成り立っていなければ、端から議題に上がっていない。怪訝に溺れる俺を前にして、阿万野は心底困ったような顔になる。ずっと同じように困らせているのが申し訳ない。


「だって、それってなんか……私と話せるんだから、秘密を守ってくれるよね? ってことにならない? すごく自意識過剰だよ」


 困惑と不服。感情が絡み合ったような顔が俺を見る。それは多少睨むような態度で、へこんだ顔をされ続けるよりはずっといいと思ってしまう俺は、結構重症だった。


「俺がそうして欲しいんだから、いいだろ?」

「本当に、いいの? 何でもいいんだよ?」

「じゃあ、買い物とかそういうのも付き合ってくれない? 手作りアレンジとか、一緒にしてくれたらすげぇ嬉しいけど」

「やっぱり、どれもこれも私、自意識過剰」


 むぅと唇を尖らすと、一気に幼くなる。元より、童顔寄りで可愛らしい顔立ちをしているものだから、胸にぎゅんときた。

 阿万野ってこんな感じだっけ?

 今まではただの前席の彼女、でしかなかった。記号で見るほど遠くもないが、それでも距離感は確かにあったのだ。表情もそれなりにしか見てこなかった。こうして新たな顔に直面すると距離が縮まったことを自覚して、胸の中が痒くなる。

 湧き上がるのは、庇護欲だろうか。


「阿万野」


 呼べば、自意識と向き合っていたのだろう目がこちらを向く。しっかりと向き合って居住まいを正したのは、これが本心であるからだ。

 決して、阿万野の価値がどうのって話ではない。それが少しでも通じれば、という願いが態度に出た。好意にも等しい態度を取るのは、照れくさい。だが、せっかくのチャンスをふいにしたくはない。

 そのときの俺は、文房具のことに気を取られていて、積極的なアプローチができていた。


「俺と付き合ってよ」


 その瞬間、阿万野の顔が真っ赤になる。自身でも、あれ? と疑問が浮かんだ。だが、それを深く考える前に、阿万野が頷いてくれる。そのことに意識が取られた。


「やった。サンキュ、阿万野。俺はちゃんと黙ってるから、それは安心してくれ」


 赤い顔のままこくこくと頷く。恥ずかしいのだろうか? 動画のことはあまり持ち出さないほうがいいのかもしれない。


「場所はここでいいか?」


 阿万野はもはや、首を上下させるからくり人形のようになっている。


「放課後がいいかな? 昼は忙しないよな?」


 阿万野が否定しないのをいいことに、俺は一方的に約束を取り付けていた。一直線になっている。制御装置が発動していたならば、もっと早い段階で止まっていただろう。発車してしまった後では手遅れだった。


「じゃあ、連絡先、交換してもいい?」


 こくこく頷くだけだった阿万野が、はっとして鞄からスマホを取り出してくる。

 木目調のスマホカバーにはクローバーで飾られていて、シックでオシャレだ。シンプル過ぎない装飾のある俺の琴線に触れるデザインは、アレンジされたものだとすぐに分かった。

 胸がくすぐられる。阿万野と接するということは、こうしたセンスに寄り添うことになるのだ。そう思うと、自分が取り付けた約束がとても素晴らしいものになった気がした。現実味が追いついてきたのだろうが、何ともげんきんだ。


「じゃあ、明日から早速いいか?」

「……香具君、バイトは? 大丈夫なの?」


 阿万野はようやく我を取り戻したのか。頷いてもらえずに質問が投げかけられた。俺はシフト表を思い出す。


「明日は大丈夫だけど、明後日は無理……連絡取り合おう? それくらいなら教室でもいい?」

「いいの?」

「何か確認されないといけないことあるか?」


 俺のほうに問題はない。文房具好きを秘めているわけでもないし、阿万野と会話するのは日常の一コマだろう。確認される意味が分からなくて、首を傾げてしまった。

 お互いに、お互いの理解力がないのがよく分かる応酬ばかりを繰り広げている。


「甘楽さんに勘違いされない?」

「甘楽?」


 何故ここで甘楽の名が出てくるのか。輪をかけてよく分からなくなってしまった。


「仲良さそうだったから、そうなのかなって思ってた」

「まったくだけど」

「そっか。香具君が困らないなら、少しくらいなら平気」

「……符牒でも決めるか?」

「本当に秘め事みたいだね」


 くすりと笑われて、胸が和む。ずっと困惑顔を続けさせていたことから抜け出せたことに、ほっとした。


「悪くないだろ?」

「お茶目」


 調子に乗ると、クスクスと笑ってくれる。こうして和やかな会話をしていけたらいいな、と欲がもたげた。


「符牒、どうする?」

「香具君が大丈夫なことを伝えてくれると嬉しい。私もOKだったら、っていう形にしたいな」


 交換条件として話すよりも、ノリがよくなる。一足飛びに距離が縮まった気がした。


「じゃあ、しおりは?」

「私が渡すの?」

「あ、でも使ってるよな」


 返事をする前に、しおりはそういうふうに使うものじゃないなと思いとどまる。勝手に納得した俺に、阿万野は苦笑しながら俺がさっき返したばかりのしおりを顔の横に持ち上げた。見慣れた白魚のような指先に、見覚えのあるしおりが握られている。

 改めて眼前にすると、ヌルさんであるという実感に襲われた。きっと、これから何度だって同じことを思うのだろう。この身近な感激は、しばらく抜けそうになかった。


「これなら、大丈夫」

「でも、それ」

「昨日、置いて帰っちゃったから、その後別の使ってる。今なら使い道がないから、符牒のアイテムにすることもできるよ」

「じゃあ、今俺が預かる」

「そして?」

「教室で返すから、ダメだったら受け取らないで。良かったら受け取って? そんで、またここで預からせてもらうってループ。ダメか?」

「いいよ。それじゃあ、お預けします」


 両手で小さく持たれたしおりが差し出される。言ってしまえば、ただのしおりだ。何だったら、俺は昨日から今日までそれを手にしていた。今になって、受け取ることに緊張を覚えるなんて今更である。

 それでも、落としたものを拾うのと、ヌルさん本人からそれを手渡されるのとでは、月とすっぽんだった。人が月にたどり着くなんて、相当なことだ。


「お預かりします」


 阿万野の言い方に釣られただけじゃない。厳かな気持ちで、両手でしおりを受け取る。俺のごつい指先じゃ、両手で受け取るなんていかにも気合いが入ってますって感じでくすぐったい。阿万野の指の細さが浮き彫りになった。


「じゃあ、明日からよろしく。何かあったら連絡するな」

「あ、うん。よろしくね」


 最後はこくんと頷くばかりの阿万野に戻る。そうして、俺たちの秘密のお付き合いが始まったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る