第7話
早足になる足を止めることはできなかったが、指定された空き教室の前へ向かうころには、足取りは緩んでいた。我ながら、度胸がない。
何度か深呼吸をして、扉に手をかけた。最後に一度大きく吸ったタイミングで、がらりと扉を引く。威勢良くしようなんて考えてもいなかったが、思った以上に威勢が良すぎて自分でもビックリした。
中で待っていた阿万野はびっくんと身体を震わせて、俺のほうへと視線を向ける。空き教室とはいえ並べられている机のひと組に、阿万野は座っていた。
机の上には教室と同じように本が置かれていたが、閉じられたままだ。恐らく、読めていなかったのだろう。こちらを振り向いた阿万野の怯えたような顔を見れば、それくらいの予想はつく。
「……おまたせ」
「ううん」
他に何を切り出せばいいのか分からない。阿万野もぎくしゃくと首を振るだけだった。
それ以上の展開は俺がさせるべきなのか。でも、呼び出されたのはこっちだしな。と、くるくる考えながら、阿万野の隣の席へと腰を落ち着ける。阿万野はそれをじっと見つめていた。居心地は悪いが、用件があるのだから何も間違ってはいない。
隣り合って、お互い無言で見つめ合う。数十秒以上そうしていたのは、さすがに尻込みし過ぎだった。
しかし、黒にしては少し薄い。灰色のような阿万野の瞳は、視線を外しづらかった。惹きつけるようなきらめきが舞っている。この瞳が、色々なものを観察して素敵な手帳を作り上げているのだという欲目も存分に入っている気がした。
自覚していたつもりだが、自分の推しっぷりを突きつけられる。自分がここまで夢中になっていて、ちょっとしたことで意識が変わって仕方がなくなるとは気がついてもいなかった。しかし、いつまでも見つめ合っているわけにもいかない。
俺はすうっと息を吸い込んだ。
「えっと……」
吸い込んだわりに、出てきたのは意味のない接続詞で不甲斐なさが際立つ。自分がここまで日和るとは知らなかった。
でも、目の前にいるのはいつも動画を見させてもらっているヌルさんなのだ。緊張もするし、その人をビビらせてしまったという目覚めの悪さが舌の滑りを拙くした。
再度……というには、何度目になるかも分からない深呼吸をする。整えようと意識すればするほど、噛み合わせが悪く鼓動がズレていくような気がした。
これなら告白される場面のほうが、よっぽど気楽なのではないか。……言うほど世慣れているつもりはないけれど。
「ごめん」
どうにか切り出せたと思えば、安直で不意打ちになった。
阿万野がぱちくりと瞬きをする。緊張感からか。表情変化が分かりづらくて、何を考えているのか読めない。元からそれほど関係値がないものだから、もうさっぱり分からなくて焦る。
不意打ちにぶつけたのが問題だっただろうか。
そういえば、はっきりと確認したわけではない。いや、条件や状況を考えれば、同一人物であるだろうけれど。けれど、そうした前置きも何もないというのは、問題はあったかもしれない。
冷や汗が溢れてきて、心までもひんやりと冷えていく。
「……あの、どうして?」
こっちも出し抜けだったが、向こうの疑問も出し抜けだった。だが、ここでだけは難なく成立している。阿万野がこのまま進めるのならば、こちらも考えずに突き進むだけだ。今更舵の切り方も分からない。
「しおり」
「へ?」
思い出して鞄の中を漁っていると、間抜けな声が上がる。目を向けると、阿万野は驚きを浮かべていた。何がそんなに、という気持ちになる。そうして、しおりを取り出して手渡そうとしたところで、阿万野のフルネームに思い当たった。
阿万野が驚いていた理由に気がついて、呼び捨てにしてしまったことに焦る。何もかもうまくくいかない。から回っている。今まではもっと自然に話していたというのに。その落差が阿万野に悪い気がして、余計に感情が乱れた。
「ありがとう」
「いや、持って帰って悪かった」
「ううん。落ちたのを拾ってくれたんでしょ? 昨日は、無視して帰ってごめん」
「……昨日は、俺が迂闊だったから」
しおりを受け取ってもらえただけで、気が緩む。口が回り始めれば、会話はちゃんと成り立った。
「しおりだけで、分かったの?」
「だって、クローバー、全部一緒だったから」
「……見てくれてるんだね」
「じゃなきゃ、ヌルさんだって言わないよ」
「口にしないで!」
ばんと切り捨てられて、口を噤む。
激しい口調に機嫌を損ねたかと肝を冷やしたが、どうやら照れくさいらしい。……顔を真っ赤にして怒っているわけでもなければ、だが。だが、その感覚は間違っていなかったようだ。
阿万野は身を縮めると
「恥ずかしいから」
と付け足してきた。
動画を投稿しているのも立派なことだ。自分が夢中になっているものだから、羞恥心を持たれるのも複雑な気持ちになった。だが、クラスメイトに秘めていた趣味の名で呼ばれるのが恥ずかしいのを想像することはできる。
「……でも、マジでそうなんだな」
「確信してたんでしょ?」
「まぁ、逃げられたし。悪いことしたな、と思いつつ」
「だって、すごくビックリして」
「俺もビックリしてたけど」
「だからって、口に出すことないと思う。香具君は口が軽い」
「あれは、ヌ……さんだって気付いて、つい」
俺の中では、理論立っていた。だが、阿万野にしてみれば、何にしたって軽いことに変わりはない。
「誰でもダメだよ?」
ごく自然に注意されて、がくりと肩が落ちる。阿万野は自分のことを推している人間がいるという事実に気がついていないようだ。
「応援してんだよ、俺は」
本当に自覚がないようで、きょとんと首を傾げられる。動画を上げていて、応援にまったく気付いてないってことはないだろう。
ヌルさんの動画には、いつも何らかのコメントがついていたはずだ。他のSNSでも、反応はある。俺だって、複数回ごくありふれたコメントを送ったことはあった。
埋もれてしまうことが前提にコメントしたのは、自意識過剰だからだろう。推してはいるが、認知されるのはなんか違うという面倒な心情だった。そんな殊勝な考えがあったくせに口走っているのだから、信用度はないが。
「だったら余計に言っちゃダメじゃない?」
正論でぶん殴られて、俺は机の上に撃沈した。だらりと上半身を預けて、阿万野を見上げる。阿万野はとことん不思議そうにこちらを見ていた。なんだ、その無感情は。とは思うが、粗末なのはこちらだ。
「本当にごめん。推してるから、思いついてつい……完全に油断してた。悪かったな。ビビらせてごめん」
「……うん」
阿万野は未だに不思議そうにしていたが、こくんと顎を引く。それはつまり、怯えていたということだろう。そう思うと、こんなだらけた姿勢が申し訳なくなって、姿勢を正した。
「怖かっただろ?」
「……」
阿万野は返事をしない。それが答えだろう。俺からすれば、見ているものと見たいた人が合致しただけだった。
だが、阿万野にすれば、顔出しもしていない投稿者としての自分をクラスメイトに特定されたのだ。普通に考えて怖い。しかも、相手は男だ。
俺はどちらかといえばチャラい見た目で、どこでどうはしゃいで漏らすか分からないタイプだと思う。そんな無謀を持ち合わせていないが、前後席の関係だけの阿万野がそれを知っているわけではない。
ハラハラしたはずだ。字幕で声すらいれていない動画である。身バレは避けているのだろうし、それでバレる恐ろしさといったらない。沈黙は金だった。
「本当にごめん」
「もう分かっちゃったことは仕方ないから、だから、誰にも言わないで」
ささやかなお願いの小声っぷりが、自分のやらかした罪の重さを自覚させて押し潰されそうになる。そして、その反省の間は、ここでは悪手だったらしい。
阿万野は顔を歪めて、両手を握り締める。覚悟を決めたような仕草に、嫌な予感が倍増した。
「なんでも、するから」
「ストップ」
もう言わせたようなものだったが、そんなことを言わせたいわけじゃない。何より、覚悟を決めたような顔が、何でもを重大にしている。そんなものを告げられて、平常心でいられる男がいるだろうか。
分かっている。これは下世話な勘繰りでしかないと。阿万野がそうした意味を含めて言っていないことも。
とはいえ、こちらは健全な男子高校生だ。そうしたことを考える馬鹿な年頃といっていい。達観することはできそうにもなくて、手のひらで制するオーバーな反応をしてしまった。
言い切ってしまった阿万野は、不安そうな顔で口を閉じている。俺が何を思って制止させたのか思い至らないのだろう。だから、何が起こっているのか分かっていない。良心がちくちく針で刺される。阿万野の人の良さに倒れてしまいそうだった。
「そこまで言わなくていいから」
「でも、」
「でももだってもない! 阿万野は何もしなくていいから」
「……何もしないのに秘密を守ってくれるほうがよく分かんないんだけど」
でもとだっては言わなかったが、言い分はでもとだってだった。ただ、冷静に世知辛いことを持ち出されてしまって、こちらが制止してしまう。
俺としては、端から言うつもりはなかった。昨日のことは本当にうっかりだ。うっかりでも許されるものではないかもしれないし、信用はないかもしれない。だが、他に言うつもりがないことは確かで、それはもうしっかりと自分に重い枷をかけているつもりだった。
だから、心配はいらないし、何でもするなんて都合の良い文句に聞く耳を持つわけもない。だが、無条件にそれをこなすことは、阿万野にとっては安心できることではないのだろう。
「俺、そんなにひどいやつに見えてんの?」
「……香具君が特別そうだって思ってるわけじゃないよ」
阿万野は眉尻を下げて、ぼそぼそと零す。悪辣な男に分類されていないことにほっとした。迂闊なヌルさん発言に本当はブチ切れている線は、消えたと見ていいだろう。そこまで思われていたとしても文句の言えない失態だった。
「でも、不安だから」
それを体現するかのような気弱な顔つきに、胸が痛む。俺のせいであるのだから、良心が咎めた。
大人しい子を追いつめている。そう思うと、自分がひどく残忍になった気分だ。阿万野はそこまで俺を責めているわけでもないというのに。自分で自分の首を絞めていた。
「それは本当にごめん」
「謝罪はいいよ。でも、どうしたら黙っておいてくれる?」
「何もしなくても黙ってるって言っても、信じてくれないんだよな?」
「……ごめん」
面と向かって、信用できないと断言されているのだ。いくらこちら側の失態による結果だとしてもいい気はしない。阿万野もそれは分かっているから、こんなふうに沈んだ顔をしているのだろう。
ズルいなぁ。これはこちらの受け取り方の問題でしかないだろうけど。でも、やっぱりズルい。
可愛い女の子にそんな顔をされて、一も二もなく邪険にできるものがいるだろうか。しかも、自分が推している動画主なのだ。幾重にもフィルターがかかりまくっていて、正常な判断はできそうになかった。
「本当に何でもいいのか?」
そんなことを言わせるつもりもなかった。聞くつもりもなかった。考えないようにしていたくらいだ。そんな自分に都合の良い夢のような言い分を、おいそれと受け入れられはしない。
そう何重にも防御壁を張っていたつもりだと言うのに、手のひらを返すように確認してしまっていた。自分の堪え性のなさに愕然とする。自分の中で暴れ狂う欲求を飼い慣らせないことにも。
阿万野は堅物な顔で深く頷くばかりだ。
頼むから、そんな覚悟が決まったような顔をしないでくれとすがりたくなる。確認をした俺が言うべきことではないだろうけれど。阿万野がそんな顔をするから、不埒な想像が枚挙に暇がなくなってしまうのだ。責任転嫁もいいところだろう。
「じゃあ、」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます