第16話
戻ろうとした思考の片隅に、声が飛び込んでくる。顔が上げたのは俺だけだった。
甘楽が呆けた顔で、俺と汐里を見比べている。何をそんなに驚くことがあるのか。茫然自失とさせるほど仲良くしたつもりもない。やっぱり甘楽のことはちっとも分からなかった。
「なんだよ」
感想を口にしているつもりがなかったのか。返事があると思っていなかったのか。甘楽が驚いた顔のまま俺のほうへと視線を向ける。
「蛍ちゃんが教えることなんかあるの?」
「そこかよ!」
ちょっと仲良くしすぎたかもしれないなんて自惚れた反省をしかけた時間を返して欲しい。失礼にもほどがある。
「だって、蛍ちゃんだよ? いつも隣でぼーっとしてて赤点ギリギリだった蛍ちゃんが、成績優秀な阿万野さんに教えてるなんて思わないじゃん。ビックリした」
心底失礼だな。しれず、眉間に皺が寄る。自覚はあるが、かといって驚愕にまで至られると釈然としなかった。
「しかも、すっごいナチュラル。何さっきの。目だけで会話してんじゃん。めっちゃ仲良しじゃん。いつの間にそんなことになってたわけ? 狙ってなくてこれなの?」
「やめろ」
俺だけに狙いだなんだと絡むのは構わない。構うが、被害者は俺だけだし、諦念にたどり着きつつある。ただ、そこに汐里を巻き込んで欲しくはない。しかも、狙うだなんて獲物のような言い草を。
汐里を一瞥したが、計算式と格闘中であるようだった。
「……マジのやつじゃん」
「勝手にあれこれ言われてんの嫌だろ?」
「やっぱり特別扱いしてると思うんだけど、それ。無自覚なの?」
仲を疑うことから、無意識下の感情を疑う方向に切り替えたらしい。威勢が弱まったと喜ぶべきかもしれないが、如何せん言っていることの鋭さには切れ味がある。
俺が汐里を特別扱いしていることは否定できない。気をつけておこうと考えるほどには特別だった。秘密の共有者という意味でもそうだし、その秘密の内容的にもだ。
答えを渋った俺に、甘楽が恨みがましい目を向けてくる。威嚇されたところで、その言い分は分からない。その間に、答えたくないこととして処分されたのか。甘楽はそれ以上、言い募ってくることはなかった。
汐里の前でやめろと言ったのが効いたのかもしれない。これで済むのであれば、これからはいつだって汐里に会話に加わっていて欲しかった。俺と甘楽が話すのは教室が一番多い。休み時間ではあるが、汐里がいてくれることも可能だろう。実践するわけもないが。
俺と甘楽の無言の攻防。測り合い。その隙間に、俺たちのやり取りに気を払っていなかった声がかけられた。ただし、不自然な形で。
「け」
呼びかけにしては面妖だ。
甘楽が難解な顔で汐里を見る。そのときになって、ようやく汐里の顔に焦りのようなものを感じた。もしかすると、それなりに緊張していたのかもしれない。
動画を投稿しているといえど、注目されることを求めている子ではなかった。汐里はひっそりと生きている。甘楽のようにぶつかってこられることにも耐性はないはずだ。
今更ながらの気付きは、遅いと言わざるを得ないだろう。断るように言っておくべきだったのかもしれない。自分の辟易した都合を優先していたことに内省する。
「香具君」
ここに来て、焦っていた理由が分かった。け、に続くのは俺の名前だ。そこまで言い慣れていたのかと思うと、内臓がムズムズする。そこに触れるのには都合が悪いので、極めて平常を装って流した。
「どうした?」
「これで合ってる?」
解き終わったらしい。何の不具合もない通常会話だ。俺は汐里のノートを預かって、計算式を確認していく。
「おっけ。合ってる」
「良かった……難しい」
「何に引っかかったんだ?」
「やっぱり、とっかかり。香具君に聞かなきゃ分からなかったから」
「問題数こなすしかないな」
むぅ、などと口に出すほどあざとくはなかった。だが、ふっくらと尖らせられる唇は十分あざとい。普段は自分しか見ることのないそれが公になっていると思うと、何やらもやっとした。
推しに独占欲なんて抱き始めたら終わりだぞ。
「し、阿万野もそう言って、俺に英文の問題積み重ねただろうが」
自分の独占欲に気を取られていたら、危うく呼び方を違えそうになった。さっきの阿万野を真似たような不自然な一音はいただけない。
汐里も気付いただろうが、流すしかないだろう。
「それはそうだけど……」
と、会話を優先してくれる。ありがたい反面、焦りに突き動かされた。汐里も同じだろうか。
共犯者。もしくは協力者がいるのだから、と気持ちを落ち着かせようとする。思えば、ここまで秘密を秘密として取り扱いながら他人と対峙したのは初めてだった。
「分かってるならよし」
「生意気だよ」
「数学に関しては俺が先生だろ?」
「他の先生はぜーんぶ私なんだけどなぁ」
「生徒は生意気なもんだ」
「身替わりが早いよ」
「ねぇ」
ぽんぽんと続いていたラリーは乱されて、しんと物音が消える。声の主を見る前に重なった汐里の瞳には、ぎくりとした色合いが走っていた。きっと、こっちも同じような瞳をしている。
「け、と、しって何?」
聞いておきながらも、見極めるような瞳の苛烈さは、真相が分かっているようだった。流せていたと思っていたのは、自分たちだけのようだ。むしろ、話のペースを保つことで甘楽を放置してしまい、考える時間を与えてしまっていただけなのかもしれない。
「名前で呼び合ってるの?」
黙っているの数秒だったが、甘楽はその隙すら許さぬとばかりに言葉を重ねてきた。問いかけはただの形だけだろう。頬が引きつりそうになるのを、気合いで引き止めた。代わりに唇を引き結んだ形になったのは、不可抗力だった。
「文房具もお揃いだよね」
次々に投げられて、言葉を返す余裕もない。俺と汐里は操り人形のように、自分たちの手元を見下ろした。
広げられた筆記用具は、確かに似通っている。それは、そうだろう。ヌルさんの動画を参考に集めたものが多い。適当だったものから一新した際に、ほとんど後乗りした。だから、真似っこで、それは即ちお揃いだ。
「意図したわけじゃないぞ」
「だからって、そこまで一緒になる?」
「文房具なんて、だいたい同じようなものになっちゃうよ。文具店も多くないし……」
「ヒメとは違うよ」
この場合の少数派は甘楽になるはずだが、今その論が通るとは思えない。どうしたものか。
ちろりとアイコンタクトを交わそうとした瞬間に、
「ほら!」
と大声に遮られた。
甘楽に視線を戻すと怒りだか不満だかを混ぜ合わせた顔をしている。その機微を悟るのは、俺には不可能な所業だった。
「仲良しじゃん! 本当に付き合ってないわけ!?」
情け容赦ない一閃が轟く。他に誰もいない教室で、その言葉は俺たちを痺れさせて、ぐわんと反響を残した。
「だから、違うって言っただろ。阿万野を困らせるなって」
「いつもみたいに名前で呼んであげれば?」
「どういう感情だよ、お前は」
怒ったようなニュアンスで、名前呼びを促してくる。同意すらしていないというのに。支離滅裂さに当惑した。
しかし、甘楽自身も自分の感情の手綱を取れていないのか。ありどころが分かっていないのか。ぐぬぬと呻きを喉に溜めて、とても女子が世間に晒すべきでないような顔つきになっていた。
野生動物の感情を理解することなど到底できっこない。ハンターでもなければ、ブリーダーでもないのだ。術をなくした現場は膠着する。その場を大幅に溶かしたのは、意外なことに汐里だった。
「ダメかな?」
出し抜けだ。何を言うつもりなのかと焦る。俺たちの密会は、主に汐里の秘密を守るためのものだ。今となっては、俺だって大切にしたい秘め事になっているけれど、元を辿れば汐里の身の振り方いかんでどうにでもなる。
だが、それは汐里の身を削ることで、そんなことをして欲しくはなかった。危機感を募らせる俺とは対照的に、甘楽はきょとんとした顔で汐里を見ている。何の是非を聞かれているのか分からないのだろう。場の主導権は、汐里の手の内に収まっていた。
「私、異性の友達なんてできたことないから、蛍君がいいっていうのに甘えてて……」
実情であり真実であるのだろう。多様な要素が付随しているのであれこれ考えてしまうが、端的に言えば異性の友人で間違いない。うまい言い回しだな、というのは斜めに見すぎだろう。
「友達から見て、不快だった?」
俺は事情を知ってしまっているから、その問いが本音か甘楽への対抗手段かと、うがった見方をしてしまう。けれど、その儚いなりから零れ落ちてくる言葉の威力は、俺相手でなくてもあったらしい。
なまじっか、頭ごなしに言い募っていただけに抜群であったようだ。威嚇顔が見る間に悔しげな顔へと歪んでいく。ただでさえお見せできる顔とは言いがたかったが、今や泣き顔だった。情緒ぐっちゃぐちゃか。
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