第2話

 くわりと欠伸を零しながら、窓の外を眺める。

 動画は週に二回の更新で追いついているので、動画だけでは夜更かしにもならない。それでも、何かと過去動画を見返してみたり、止めてイラストを練習してみたり、ついでに違う動画に迷い込んだりしているうちに、日付が変わっていた。

 くわりと本日何度目か分からない欠伸がまたぞろ零れる。


けいちゃん、欠伸し過ぎじゃない?」


 隣から声をかけられて、続けざまに出そうになる欠伸を噛み殺した。

 隣の甘楽つづらは机に腕を組んで乗り上げた状態で、こちらを覗き込むように見てくる。ツインテールの内側。インナーカラーの赤がよく見えた。


「寝不足?」

「ん、ちょっと」

「そんなに毎晩何やってんの?」

「特に何も」

「……眠れない人なの?」

「そんな深刻なことはひとっつもないな」


 片肘を突いてまったりと答えると、甘楽は首を傾げる。


「じゃあ、何やってんの?」


 もっともなループだった。

 だが、甘楽はオシャレ大好きな女の子だ。文房具の性能に気を払う様子がないのは、机の上を見ていれば分かる。甘楽はよく分からないキャラ物のペンを使っていた。

 それだけで判別できるわけではないだろう。でも、やっぱり適当なのは、ノートの取り方を見ても一目瞭然だった。ヌルさんが上げていたノートの作り方に引っ張られ過ぎている点は否めない。

 否めないが、とにかく甘楽は文房具がどうのと話せるタイプには見えなかった。興味のない話をするつもりはない。


「テキトーに」

「ヤラシイやつってこと?」


 にまにまと笑う甘楽の紫苑の瞳が輝く。下ネタと言うまでひどくはない。それとない匂わせを軽々寄越す。冗談交じりの会話は気軽で悪くない。俺は苦笑で肩を竦めた。


「だとしたら、聞きたいか?」

「ヒメ、聞いても分かんないもーん」


 ふざけ尽くした言いざまに、今度は本当の苦笑が零れる。

 甘楽姫凪つづらひめなは時々、一人称が自称になる子だ。可愛らしさで人目を惹いている。先輩にまで声をかけられていると聞いた。しかし、想い人がいるとかで、一途だという噂もある。

 一ヶ月と少しでそういう噂が回るほどには、注目の人物ということだ。隣席ということでもなければ、こんなふうに会話する仲になっていたかは分からない。

 まぁ、こっちも金髪とピアスが目立っているらしいが、それとこれとはまた違うものだろう。


「都合がいい」

「都合良くないとしんどくない?」

「気楽そうで何よりだよ」

「え~、蛍ちゃんやっぱり悩みでもあって眠れないんじゃないの?」

「俺にそんな大層な背景はない」

「なんかガード堅くない?」


 唇を尖らせる甘楽のアヒル口は、さまになっていた。こういうところが、甘楽の人気の要因なのだろう。

 しかし、それを俺に使ってもなぁ。想い人に使っておけばいいのに。


「やわやわしてるから欠伸も出るんだろ」


 言葉と同時に噛み殺していた欠伸が漏れる。

 説得力は強いだろうに、甘楽は何やら不満そうだった。まだ何かを話したい様子はあったが、十分休みはあっという間だ。鳴ったチャイムと教師の入室に、甘楽は諦めたように前を向いた。わずかに視線がこちらに残っているような気もしたが、相手にせずに向き直る。

 そうして前を向くと、凛と伸びた背筋と黒髪が視界の中央を占めた。艶のある黒ダイヤのような髪は、乱れのないストレートを静かに揺らしている。いつも静かに教室の隅にいる彼女は、自分よりも頭の位置がひとつ以上低い位置にあった。

 阿万野汐里あまのしおりさん。阿万野は甘楽とは違うタイプの女子で、とても物静かだが、大和撫子のような美しさを持っている子だった。

 その美しさがあまり気付かれていないのは、自己主張しないからだろう。窓際の席で本を読んでいるような子だ。

 その髪の毛がふわりと揺れて、こちらを振り向く。変に考えてその背を見ていたために、がちりと視線がぶつかった。不意を突かれて身体を固めた俺に、阿万野は不思議そうにしながらプリントを差し出す。


「……香具君?」

「あ、ごめん。ありがと」

「どういたしまして?」


 授業のプリントを回してきただけだ。ありがたいことではあるが、いつもはお礼してはいない。間を埋めるように零してしまった俺に、阿万野はきょとんとしながら返事をくれた。

 適切な挨拶であっただろう。だが、いつもなら無言でするはずのやり取りの逸脱に妙な空気が流れた。


「ぼーっとしてた」


 耐えきれずに言い訳を捏ねると、阿万野の表情が緩まる。


「ダメだよ、香具君」


 柔らかい言い方は、忠告にしては肩透かし。効果はてんでないようなものだ。

 垂れ目がちの表情は、緩むととっても和やかになる。左目の下にある泣きぼくろも、ふんわりとした印象を重ねた。華奢で小さな体躯も。叱られているというよりも窘められている。どこか癒やされるような心地になった。


「うん。気をつけるよ」


 ふふっと笑った阿万野はすぐに前へと向き直る。無駄口は叩かない。それが少し惜しい。そう思わされるほど、阿万野の雰囲気にはリラックスできるものがあった。

 阿万野が持つ柔らかいものに引きずられるように、心が柔軟になる。欠伸というよりも、吐息が漏れた。

 阿万野の残り香に浸っていたら、無視していたはずの隣の視線が復活した。今度もスルーしさくろうと思ったが、その視線はなかなか剥がれていかない。居心地の悪さに耐えきれなくなって、一瞥を向ける。

 甘楽は不満げな顔でこちらを見ていた。


「……なんだよ」

「阿万野さんに優しくない?」

「甘楽と違ってからかってこないのに、引っかかる理由がないだろ」

「ふ~ん」


 授業中だ。甘楽もそれ以上言い募るつもりはないらしい。曖昧な相槌で会話を閉じた。腑に落ちている様子はないが、俺だってそこに拘泥するつもりはない。

 甘楽と阿万野で態度が違うのも、仕方がないだろう。甘楽とは隣席になってからいくつも会話を交わしているが、阿万野とはそれほど仲良くしているわけじゃない。違う反応が返ってくる相手に、同じ対応をするわけもなかった。

 阿万野は癒やしだし。その後ろ姿を見ながら、気がついたら意識が遠ざかっていた。




「……ぐ君。香具君」


 小さく肩を揺らされて、目を開いた。頬杖を突いたまま眠りに落ちていたらしい。ぱちぱちと目を瞬きながら、呼びかける声に顔を上げる。眼前にいたのは阿万野で、どうにもしっくりこなくてまだぼんやりとしていた。


「あまの?」

「もう授業終わっちゃったよ? ご飯食べなくていいの?」

「あ」


 丁寧に説明されて、ようやく意識が繋がる。いつ眠ったのかも覚えていなかったし、今が何時なのかも思い出した。


「大丈夫?」


 ことりと首を傾げるのに釣られて、黒髪が肩から垂れる。その流れが胸元に落ちていくのを追いそうになる視線を止めた。巨乳に意識が取られるのは許して欲しいところだ。口にしない領分も、目を向けない制御心もあるのだから。


「ああ、うん。大丈夫」

「眠れてないの?」

「どうして?」


 授業中にうたた寝するのは異質じゃない。俺以外にだって、そんな生徒はいくらだっているだろう。改めて聞かれたことに首を傾げてしまった。まだ少し頭が重い。


「……甘楽さんと、話してたでしょ?」

「何もしてないからな」


 甘楽なら性的な匂わせをされたところで、ジョークで流してしまえる。だが、阿万野にそんな思い違いをされるのは嫌だった。清廉な阿万野に聞かせるのすら悪い気がする。


「そんなふうに思ってないよ」


 それこそ清廉に返されてしまって、苦くなった。不埒なことは露とも考えていない阿万野と、匂わせる甘楽で態度が変わるのもやはりやむを得ないだろう。


「ちょっと動画見てただけだよ」

「そっか。ほどほどにしなくっちゃダメだよ?」


 本日二度目の柔らかい態度に、胸が温まる。


「気をつけるよ。阿万野にも迷惑かけるしな」

「迷惑?」


 再び首が傾げられた。さらさらの髪の毛は、再び振動に揺れる。どうしたってその流れの先に向きそうになる意識を無理やりに捻じ伏せた。

 聞かせるのを躊躇する相手に、下世話なことをぶつけることなんてしたくはない。自分の下劣さが露呈して後ろめたくなる。


「手間をかけさせてるだろ? 阿万野もお昼行かないと食いっぱぐれるぞ」

「私はお弁当だから、急がなくても平気。香具君は食堂でしょ? いっぱいだって聞いたよ?」


 阿万野は一度も食堂に行ったことがないのだろう。伝聞調のそれに苦笑しつつも、食堂の満員具合にも苦々しくなった。

 うちの高校の食堂は人気だ。いつだって大盛況している。一年生にとっては、きまりが悪いことも多い。出遅れると席を見つけるのも大変だった。

 昼休みに入って十分は経っている。このくらいが一番、食堂に入りづらい時間帯だった。集合し始めるころは席取りが佳境なのだ。


「今日は売店で済ませるか……」

「ごめんね。もっと早く声をかければよかったね」

「阿万野のせいじゃないだろ」


 眠っていたのは俺だ。

 阿万野はコミュニケーションに積極的ではない。声をかけるまでに、いくらか葛藤があったのだろう。その末だと分かるので、ありがたさ以外生まれようもなかった。


「声かけてくれて助かったよ」

「なら、よかった」


 ほっと胸が上下する。

 俺の睡眠を邪魔したのではないだろうか。人を勝手に起こしていいものだろうか。俺が起きたいのか。眠ったままでいたいのか。昼休みをどう過ごすつもりでいるのか。そうした疑問に迷ったのが十分ほどの出遅れであるのだろう。そして、今になってやっと気が抜けた。

 推測できる心境の流れには、どこか微笑ましさを抱く。阿万野には人をそういう気持ちにさせるところがあった。


「じゃ、俺は昼行ってくる」

「うん。行ってらっしゃい」


 報告するまでもないことだっただろう。だが、無言で立ち去るのも悪い気がして、声をかけた。戻ってきた挨拶はくすぐったい。手を振ってくれる見送りもだ。俺はそれに小さく手を上げて応えてから教室を出た。

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