第30話 初めてのデート

ミデオンに来てからというもの、心のどこかに余裕がなくてこの大都会を心から楽しむことができなかった。情報と物の多さに圧倒され、自分より洗練された人間に囲まれ、自分を保つのにひたすら必死になっていた。


けれど今は違う。一人でないというだけでここまで違うものなのか。いや相手にもよるだろう。バイオレットは一番信頼できる人と一緒にいるだけで、こんなに気持ちが変わるものだとは思わなかった。今は看板の一つ一つを見るだけで胸がワクワクする。路地の一つ一つにも可能性が詰まっている気がする。ミデオンで初めて目を開かされる思いがした。


バイオレットの傍らにはヒースがいた。彼女を眩しそうに眺めながら歩いていたが、曇りがちの天気だったので、太陽のせいではないだろう。彼の数歩先で、バイオレットは目を輝かせがながらミデオンの空気を肺いっぱいに吸い込んで歩いていた。


「そろそろお昼だね。混みやすい店だから今のうちに入ってしまおう。お腹空いてる?」


ヒースに声をかけられ、バイオレットは首を縦に振った。一気に気が緩んだら空腹を覚えやすくなっていた。今まで気が張っていて食欲も失せていたことにやっと気が付いた。


ガラス張りの壁に囲まれ白とグレーを基調にした近代的な内装の店内は、先進性と機能美が際立っていた。バイオレットは店の中に足を踏み入れた途端緊張してしまったが、ヒースの方は通い慣れているらしく、店員に促されるがまま、ずいずいと歩みを進める。彼女は黙って彼の背中を見て着いて行った。


バイオレットにとっては何から何まで初めてなので、メニューもヒースに決めてもらった。出てきた食事はどれも都会らしいセンスに溢れていて、食材も田舎では手に入らないものがあった。ヒースは自分の皿には碌に手を付けず、どれもおいしいと言って食べるバイオレットを見つめていた。


「どうしたの? もしかしてお腹空いてなかった?」


食事を楽しんでいたバイオレットだったが、ヒースの皿が殆ど減っていないことに気が付いた。


「いつもこうだから気にしないで。元々胃腸が弱いからそんなに食べないんだ。バイオレットが食べるのを見ている方が楽しい」


女性を喜ばせるためにそんなことを言う人間ではないので、つい本心が出たのだろう。彼自身、キザなことを言ってしまったことに気付き顔を赤くした。


「そ、それなら私と一緒だと食が進むと思って食べて。ヘイワード・インにいた時はもっとおいしそうに食べてたじゃない」


バイオレットも顔から火が出そうになりながら、柄にもないことを口にした。


「あれはジムの料理がよかったから……」


ヒースは言い訳めいたことを呟きながらフォークを手にして食事を口に運んだ。彼と一緒に食事をするのは子供の時以来である。バイオレットもまた、ヒースの食べる姿を見ていたが、ふと目が合うと恥ずかしそうに顔を背けた。


「これからどうする? 映画とかお芝居とか娯楽なら何でもあるよ」


ヒースも眼を逸らしたまま、恥ずかしさをごまかすように別の話題を出した。映画、お芝居、確かにそれも魅力的だが、バイオレットにはまずやりたいことがあった。


「それなら美容サロンみたいなところはない? 今どきのファッションに生まれ変わりたいの。アネッサみたいな」


バイオレットは、先ほど見たアネッサの艶やかな姿が目に焼き付いて離れなかった。ずっとおしゃれとは無縁だったバイオレットだが、これでも少女時代まではきれいなものに囲まれて過ごしてきたのだ。憧れないと言ったら噓になる。特に、ミデオンで今流行っている女性の新しいファッションに惹かれた。髪を短く切り、腰を締め付けず、ひざ下を露わにする開放的なファッションは随分先進的に映った。


「そ、そのままでも十分きれいだよ! でも……バイオレットがそうしたいと言うのならアネッサに聞いてみる……」


ヒースは店の電話を借りてアネッサに連絡を取ったようだ。そして、レストランを出るとアネッサ行きつけの美容サロンに向かった。バイオレット一人では敷居も跨げないような立派な店で、自分から切り出したものの気後れしてしまった。いかにも一見さんお断りというような店構えだ。


店長の女性は既に事情を把握しているらしく、バイオレットを見た途端「どうぞこちらへ」とにこやかに店の奥に案内した。


「バイオレットはアネッサとは違うんだから、彼女に合ったものにしてくれ。彼女の長所である清楚さと可憐さを引き立てるデザインで。肌はなるべく隠すように。今は寒いから」


ヒースは恥ずかしさを隠すように早口で注文を付けた。「今は寒いから」ともっともらしい理由を付けるなんて彼らしいとバイオレットはおかしく思った。


女性の身だしなみは時間がかかると言うが、ヒースは貧乏ゆすりをしながら今か今かと待ち構えていた。バイオレットの着飾った姿が美しくないわけがない。バイオレットならどんな格好でもヒースは頓着しなかったが、美しさがより引き立てばどこまで素晴らしくなるのか想像もできなかった。


2時間近く経過してやっと生まれ変わったバイオレットが現れた。それを見てヒースは思わず立ち上がった。


肩まで伸びた髪はボブカットに切り揃えられ、薄紫色のローウェストのワンピースはすみれ色の目に合わせたのだろう。3重になった淡水パールのネックレスはカジュアルさと上品さを兼ね備えている。化粧もアネッサほどけばけばしくなく、子供ぽかった彼女を大人の女性へと変化させた。貴族出身で所作も上品だから、今までより露出の多い服装になっても品位が失われることはなかった。


「どうかな……これ……変じゃない?」


バイオレットは恥ずかしそうに上目遣いにヒースを見た。店長が「とんでもない! とてもお美しいですよ!」と褒めるのも構わず、ヒースは彼女の手をぐいと取り「今すぐ写真館へ行こう」と言い出した。


「ど、どうしたの? 急に!?」


「今この瞬間を写真に収めておかなきゃ。バイオレットの美しさを閉じ込めておきたい。写真なら永遠に残すことができるから」


ヒースはサロンへの支払いを手早く済ますと、バイオレットを連れて今度は写真館へと急いだ。プレイボーイでもそう言わないような言葉を吐いていることに彼自身気付いてないようだ。


写真館に着くと、バイオレットを被写体にして何枚も写真を撮らせた。バイオレットはしばらく彼の言いなりになっていたが、とうとう我慢できずに口を開いた。


「私一人で写ってばかりなのは嫌。一緒に撮りましょう」


それを聞いたヒースはぎょっとして思わずたじろいだ。


「えっ!? 僕なんかいない方がいいよ。写真嫌いだもの」


「私はあなたと一緒がいい。自分が嫌いなことを人にさせないで」


仕方なくヒースはバイオレットの隣に立って一緒に被写体になった。写真館を出る頃には夕方近くになっていた。


「ねえ、腕を組んでもいい? この格好ならあなたと一緒に並んでも見劣りしないでしょ」


それまで少し離れて歩いていたバイオレットは思い切って尋ねてみた。


「もしかしてそんなこと気にしてたの!? どんな格好でもきれいだって言ったじゃないか……むしろ自分なんかと並んで歩きたいと思ってるの?」


ヒースは信じられないと言うようにバイオレットを見つめた。


「あなた『自分なんか』ってよく言うけど、言うほど悪くないわよ。何なら少し格好いいと思っちゃった……さっきサロンでも手慣れた様子だったけど、別の女の人連れて行ったことあるの?」


バイオレットがぷいっとそっぽを向くと、ヒースはたじたじとなって目を泳がせた。


「そんなわけないじゃないか……こんな奴金目当て以外で近づく女性なんていないよ本当に……」


「だってあなたお金も持ってるでしょう?」


「僕はバイオレットひと筋だよ! 5年間ずっと見て来たんだから!」


ヒースは思わず声を上げた。そして言ってしまった後ではっとして背筋を丸めて身を縮こませた。


「冗談よ。別に過去に誰と付き合ってきたかとか興味ないもの。でも、私ひと筋なら腕くらい組んだっていいでしょう?」


笑いながら言うバイオレットを見て、ヒースは彼女には適わないと悟った。そして観念したように腕を差し出すと、バイオレットは自分の手を絡めて来た。


(童貞か……俺は……)


経験だけなら一通り済ませているはずなのに、相手がバイオレットだと全てが空回りになって振り回されてばかりだ。まるで初恋のようだと彼は思った。確かに初恋であることには違いないが。


「ねえこの後どこに行くの?」


「この時間ならお芝居やってるよ。バイオレット何か見たいのある?」


「ヒースはお芝居見に行くことあるの?」


「付き合い以外ではないかな……でもバイオレットと一緒なら見てみたい」


学のないヒースは、出世しても何かと馬鹿にされないように一般教養を独学で身につけなければならなかった。大学を出ている者なら普通に知っている文学や芸術の素養が彼には欠けていた。いくら裏稼業とはいえ、教養がないことがバレてしまうと馬鹿にされる場面があった。そういった話題に着いて行くために大人になってから見えないところで猛勉強したのだ。


だから鑑賞するという態度にはなれなかった。喜劇を見ても「現実ならこんなにうまくいくわけない」と思ったし、悲劇だと「悲惨なのは現実だけで十分だ」としか考えられなかった。


だから、バイオレットと一緒に見た芝居も、肝心の内容よりキラキラ目を輝かせながら舞台を見つめる彼女を眺める方が楽しかった。それだけで劇場に来てよかったと思えた。


「こんな大きな舞台見たの初めてだわ! すごくよかった、ありがとう!」


芝居を見た後、二人はレストランでディナーを摂っていた。昼に行ったレストランとはまた違う、伝統的な風格があって落ち着いた雰囲気の店だ。


「喜んでくれてよかった。僕もお芝居久しぶりだったから楽しかった」


ヒースは、バイオレットに合わせて適当な感想を言った。彼女と一緒にいられて楽しかったのは事実なのだから別に構わないのだ。


「いいお店知っているのね。お昼のレストランもよかったわ」


「会合兼ねたランチとか、そういう時しか行かないよ。普段は執務室でデリのサンドイッチを食べながら仕事していることが多い」


それもまたよさそうだ。今度は彼の執務室で一緒にサンドイッチを食べてみたいと思った。ヒースと一緒ならどんなことでも楽しめそうだ。


「今日は本当に初めてのことばかりで夢のようだった。あなたとデートしたのも初めてだし、都会を満喫したのも。あっという間に時間が過ぎたわ」


バイオレットはうっとりとした表情でヒースに微笑みかけた。ヒースも夢見心地だったが、そろそろ別れの時が近づいていた。ディナーが終わったらそれぞれの家とホテルに戻るだけだ。


「夜道は危ないからホテルまで送るよ」


ホテルはレストランから歩ける距離のところにあった。なるべく彼女といられる時間を延ばしたいヒースは、ホテルまで一緒に歩こうと提案した。腕を組んで歩く二人は他人から見たら恋人にしか見えないだろう。ずっとこのまま時が止まればいいのにと考えていた。


ホテルの前まで着くと、バイオレットはヒースに向き合い、花のような笑みを向けた。


「今日は本当にありがとう。一生忘れない宝物になったわ」


ヒースはうん……と小声で答えた。


「あっ、あなたに会えたら渡そうと思っていたものがあるの。ちょっと重いから、悪いけど部屋の前まで来てくれない?」


ヒースは戸惑った表情を浮かべたが、バイオレットに懇願されて着いて行くしかなかった。バイオレットは、ヒースの腕をつかんだまま部屋へ向かい、ドアのカギを開けると彼を部屋に押し込んだ。


「ちょっ……? バイオレット!?」


バイオレットはドアの鍵を閉めると、ヒースに抱き着いた。


「……このまま離れるなんて嫌。今夜はずっと一緒にいたい」


顔を見られないように身体ごと強く押し付ける彼女の声は震えていた。よく見えないが耳まで赤くなっているに違いない。ヒースは頭が真っ白になって一瞬何が起きたか把握できなかった。


「それって……もう後戻りはできないよ」


ヒースがかすれた声で囁くと、バイオレットは返事の代わりに回す腕に力を込めた。しかしそれだけでは物足りず言葉でも伝えた。


「いいの、それで」


それが引き金だった。ヒースはバイオレットの顔を自分の方に向けると、角度を変えながらついばむようなキスを始めた。それまで抑えに抑えていた感情が爆発するともう抑えは効かなかった。ずっとずっと夢に見た、しかしまかりならぬと己に律していたことだ。そして、そのまま彼女を抱き上げベッドに下ろすと自分も上に折り重なった。

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