第22話 これで終わり

まだ一日が始まったばかりだというのに、ヒースが手紙の束を手にしたまま2階から階段を駆け下り、脱兎のごとくホテルを飛び出すのを見て、ホテルの従業員たちはただならぬ気配を察した。


そして、バイオレットも後を追うように外に飛び出したのを見て、疑惑は確信へと変わった。


「おい、どういうことなんだよ?」


外にいたジョーイが慌ててトーマスのところにやって来て耳打ちした。トーマスは、ロビーのテーブルの拭き掃除をしていたが、起きてはいけない事態に陥ったことを悟り、顔面蒼白になった。


「恐れていたことが、とうとう起きたんだよ」


バイオレットの手紙を持って逃げるヒース、追いかけるバイオレット。そこから得られる結論は一つしかない。なぜヒースが手紙を持ち歩いていたのか分からないが、バイオレットがクラーク氏の手紙を宝物にしているのと同様に、彼も彼女の手紙を肌身離さず持っていたのだろう。


(追いかけるか? いや見つかったらまずい。もしかしたら俺たちのこともバレるかも?)


秘密が暴かれると、平穏な生活に終止符が打たれることになる。トーマスは頭をフル回転させてありとあらゆる想定をしたが、処理が追い付かず棒立ちになったままだった。結局、彼らが戻って来るまでは静観するしかないというありきたりな結論に達した。


ヒースはどこへ行く当てもなく、冬の足音早い平原をひたすら走った。上着も羽織ってないため普通なら肌寒いはずだが、そんなことまで気が回らない。無我夢中で走るうちに、子供の時バイオレットと来たラベンダー畑にたどり着いた。


今の季節花は咲いておらず、寒々しい景色が広がっているだけだ。子供の足だと遠く感じられたが、案外近い場所であることを今更ながら発見した。隣にある樫の木に登ってバイオレットと遊んだ覚えがある。その思い出が蘇ると、いつまでも逃げ続ける自分が急に馬鹿らしくなった。どうせいつかはバレる。それが今日だったんだ。ヒースの心はさーっと冷めてようやく立ち止まった。


しばらくしてバイオレットが息を切らせながら追いついた。息を整えてからヒースの方に目をやると、彼は懐かしそうに樫の木を見上げていた。


「ラベンダー畑は案外近かったんだね。この木で遊んだの覚えてる?」


ヒースは樫の木を見上げたまま、頭を動かさずに言った。


「話を逸らさないで。なぜあなたがクラーク氏宛ての手紙を持っているの? まさか知り合いとか?」


「何でそうなるの。僕が書いたからに決まってるじゃないか。正確には字のきれいな秘書に代筆させたたんだ。こないだウィルという奴が泊りに来たでしょ。そいつだよ」


ヒースはバイオレットの方に向き直り、力なく笑いながら答えた。全てを諦めたようにがっくり肩を落とし、気力という気力が抜けていた。


「じゃあ……クラーク氏はあなただったの?」


「ああ……従業員から報告を受けるだけじゃ満足できなくなって、直接手紙のやり取りをしたくなった。そこでいかにも金持ちの紳士らしいJ.H.クラークという人物を作り上げた。名前は紳士録から適当に選んだ……」


信じられない。人生経験が豊かで機知とユーモアに溢れたあの手紙を書いた人物が今目の前にいるなんて。あんなに会いたいと思っていた人がこんなに身近な人だったなんて。バイオレットは、誰にも相談できないごく私的な悩みをクラーク氏にだけ打ち明けていたのを思い出した。それが全て筒抜けになっていたと知って顔が赤くなった。しかし、気になることがある。従業員から報告? どういう意味?


「今従業員がって言った? ここにスパイがいたってこと? 一体誰が?」


「全員だよ。トーマスも、マーサも、ジョーイも、ジムも全て僕が送り込んだ」


ということは、住み込みの従業員たちはみなヒースの部下ということになる。バイオレットの前ではそんな態度をおくびにも出さず、ただの宿泊客としてヒースと接していたのに。バイオレットは手をぎゅっと握りしめたまま息を整えて乱れる気持ちを抑えた。


「どういうこと? だってトーマスは立派な紹介状を持っていたし、ジョーイやマーサも私が面接して決めたのよ!?」


「紹介状なんていくらでも偽造できるよ。ジョーイやマーサの時だってトーマスと一緒に決めたんでしょ? 知らず知らずのうちにトーマスが誘導するなんて簡単だ。トーマスは、元々はカジノのディーラーだけど、頭が切れて仕事ができるのでホテルマンとして採用した。マーサは、姉のような生き方を嫌って真っ当な生活をしたがっていて、なおかつ優秀だったからここに派遣した。ジョーイは元復員兵でミデオンでホームレスをしていた。戯れに拾ったら実直で案外見込みのある奴だったから登用した。ジムが一流ホテルのシェフだったというのは本当だよ。僕が破格の待遇で引き抜いた」


何ということだ。今まで苦楽を共にした仲間だと思っていた従業員たちのバックグラウンドが全て嘘だったなんて。バイオレットは、当たり前だと思っていた世界ががらがらと崩れていくのを目の当たりにした。


「……さっきからカジノとか真っ当な生活とか言ってるけど、どういう意味なの?」


「ああ……みんな半端者ということだよ。そういう人間ばかり僕のもとに集まって来るんだ。僕が何者か奥様なら知っているから聞いてごらん。本来君の前に姿を現せない人種だ。だからつまらない小細工を弄して直接会わないようにした。クラークの手紙と、従業員たちから定期報告を受けていればそれで満足だった。ずっとそのままでいいと思っていた。なのに……」


ヒースは地面に落ちていた枝を拾ってぽきりと折った。


「夏の嵐があった時、アップルシード村が甚大な被害を受けたとニュースで知った。それを聞いたら君のことが心配で気が気でなかった。無事の知らせを待つこともできなくて、急いでヘイワード・インに飛んだ。それが間違いの始まりだったんだ……」


あの嵐の時をバイオレットは思い出した。転がるようにホテルに入って来たヒース。バイオレットは彼のことを咄嗟に思い出せなかったのに、彼の方はずっと前から彼女を見ていた……


「一度会ったらもう抑えが効かなくなっていた。またすぐに君に会いたくなった。今回だってきっかけは奥様に誘われたからだけど、君に会える理由ができて内心喜んでいた……」


「……あなたはいつから私を見ていたの?」


「……ここがホテルになるって聞いた時から。ミデオンで偶然故郷の人間に会って、ヘイワード家が破産したという話を聞いた。君のことが気になって調べたら、ホテルに改装する噂を聞きつけた。そんなのうまくいきっこない。すぐに頓挫して借金を増やすのがオチだ。下手したら悪徳業者に目を付けられて騙されてもっとひどい目に遭うかもしれない。でもバイオレットがそうしたいと願うのなら、自分の持てる力を注いで援助しようと思った……汚い手を使って得た金なんて何の価値もないと思っていたけど、援助することで贖罪している気分になれた。母を助けたくてどんなことでもやったのに、結局死なせてしまった後だから、使い道なんてなかったし……」


ヒースはすっかり不幸慣れしてしまったのか、辛い出来事のはずなのに淡々と話した。バイオレットはいつの間にか涙が出ていた。どうして泣いているのか自分でも分からない。単純な憐憫や同情ではない、もっと色々な感情がぐちゃぐちゃしていた。


「商売なんて始めたら大なり小なり人間の汚い面を見ることになる。でも君には一切見せたくなかった。温室の中で美しいものだけを見てまっすぐなままでいて欲しかった。だから立ちはだかる障害は全て取り除きたかった。それだけ、本当にそれだけなんだ……」


「私、あなたが思うほどきれいな人間じゃないわよ? 心のきれいな天使様のような人なんていないのよ?」


「分かってる。だからこれは僕のエゴだ。君は幸せにならなくてはいけないという僕のエゴ。だからロナンと一緒になって欲しい。彼なら君の望むものを全てあげられる。素性も調査済みだ」


「なんでそんな話になるの!? 私の人生は私が決めるわ! 何が幸か不幸か、そんな単純なものではないのよ!」


バイオレットはついかっとなって声を上げた。


「やっぱり何も分かってないじゃないの! なんで自分が幸せにするって言えないの? ずっと私のこと見てたんでしょう!」


バイオレットに怒鳴られても、ヒースはうなだれるばかりだった。


「それができればこんな手の込んだことはしない。本来君の前に立てる人間じゃないんだ。それなのに見えないところで君の人生に介入し過ぎた。本当にすまないと思ってる」


どうして謝るのよ? 続けてそう言いたかったが、もう言葉にならなかった。バイオレットは、とうとう声を上げて泣き出し子供のようにしゃくり上げた。こんなに派手に泣くのは子供の時以来だった。それを見てもヒースは何もできず「ごめん」と小さく呟くだけで、彼女を残したままその場からいなくなった。


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