第21話 あなただったの?

ヒースは夜空を眺めるのが好きだ。晩秋の空は澄み切っていて心が洗われるようだ。昔ヘレナがくれたバイオレットの兄の本の中に、子供向けに書かれた星座の本があった。ヒースは暗記するまでその本を何度も何度も読み返した。こうして大人になった今も、夜空を眺めるだけで本を読んだ時の興奮がよみがえる。


いつの間にか、嫌なことがあると夜空を眺めるのが習慣となっている。しかし今は、かき乱された心を少しでも鎮めるために空に目を凝らしていても、なかなか思うようにはいかなかった。


「この空だと明日も晴れるわね」


いつの間にか外で煙草を吸いに来たヘレナが隣にいた。彼女は、薄手のカーディガンを肩にかけ、婦人用にデザインされた華奢な形のキセル煙草を持っていた。


「さっきね、ロナンとみんなで食事をしたの。彼爽やかでいい人ね~。バイオレットとお似合いだと思うわ」


ヘレナが煙を吐きながらそう言っても、ヒースはうつむいたまま「そうですね」と低い声で答えるのみだった。


「あら、あなた何とも思わないの? わざと反応しそうなこと言ったのに?」


ヘレナは意地悪そうに口の端を上げてにやっと笑ったが、それでもヒースは無反応だった。


「なんだ、つまんないの。私の見立てでは、子供の頃からバイオレットに夢中だと踏んでいたけど、当てが外れたのかしら?」


わざとらしく大げさな言い方をしてみたものの、ヒースが乗って来る気配はなかった。ヘレナも諦めかけた頃、ふいに「おくさ……ヘイワードさん」と呼ばれた。


「さっき、ロナンと会いました。大抵の人間、上流階級は特に、自分を見ると嘲ったり、馬鹿にするような態度をとることが多いですが、彼は違いました。礼儀正しかったし、途中で態度を変えることもなかった。本物の紳士だと思います」


「だから何? バイオレットとお似合いとでも言うの?」


ヘレナは、つい今しがた自分が言った内容と同じことを疑問形にしてぶつけてきた。


「彼なら絶対失敗しない。バイオレットは堅実な幸せを得られると思います」


ヒースは絞り出すような声で言ったが、それを聞いたヘレナはフンと鼻を鳴らした。


「堅実な幸せ、ねえ。バイオレットがそんなものを望んでいると本当に思ってるの? ああ見えて私の娘よ? 私でさえ反対したのに、自宅をホテルに変えた変人よ? ちょっと見誤っていると思うわ」


「じゃあ、カジノの高利貸しに何を期待してるんですか!?」


ヒースはかっとなって思わず大きな声を出した。


「あなたも見たでしょう、非情で冷徹な高利貸しの姿を。普段の俺はああなんです。華やかなカジノの支配人なんて柄じゃない、金の取り立てをしている時の方が本当の姿なんです。人間の憎悪と欲望にまみれて裏社会でのし上がって来た……誰に恨まれてもおかしくない職業だから、普段から余計な物を持たず身軽でいるようにしています。バイオレットの存在は一番の弱みになります。その弱みを突かれて彼女に万が一のことがあったら正気じゃいられない……こんなヤクザな人間そばにいちゃいけないんです……」


ヒースはそう言うと、両手で顔を覆い、指の隙間からフーッと苦しそうに息を漏らした。


「自己評価が低いのは昔からね。普通ミデオンで一番大きいカジノのオーナーになったらもっと胸を張ってもいいのに。確かにきれいな仕事ばかりじゃないかもしれないけど、馬鹿には務まらない職業よ」


ヘレナはあっけらかんと言ったが、それでもヒースが顔を上げないので、小さい子供にするように彼の背中を優しくさすってあげた。


「バイオレットはこのこと知ってるの?」


「まさか、適当なことを言ってごまかしています。言ったら失望するだろうし……」


「ほらまた勝手に想像して自爆してる。私の娘はそんなヤワじゃないって言ったでしょ。もう少しバイオレットを信じてあげれば?」


「信じる……信じたい……です。でも俺は他にも隠していることがある。それが知られたら絶対に軽蔑されます。それだけは嫌なんです……」


ヘレナは何のことか分からず首をひねった。これだけはヘレナにも打ち明けることはできない。ヒースは暗い瞳で闇に染まった景色を見つめていた。


**********


ロナンは一泊した後帰った。早めの朝食を摂り、ロビーが慌ただしくならないうちに帰り支度を済ませた。バイオレットは彼にたくさんのお土産を持たせたが、その時「今度は婚約指輪を持ってきてもいいでしょうか」と言われて思わず固まってしまった。


「ええ……ええ。でもちょっと急ぎすぎじゃないかしら? あなたのご家族にもう一度会っておかないと」


「結婚は二人の間でするものですから、家族の同意は必要ありません。母も姉も結婚自体には反対しないはずです」


バイオレットには断る理由がなかった。昨日の晩さん会でもロナンは好青年ぶりを発揮した。父と母からも好感触だった。ホテルの仕事だって賛成してくれている。これ以上何を望むと言うのか。


「分かったわ……ではまた会える日を楽しみにしています」


バイオレットの反応を見たロナンは弱々しく笑い、「ではまた」と手を振り去って行った。


一人残されたバイオレットは、ロナンが見えなくなるまでしばらくその場に立ち尽くしていたが、はっと我に返って大事なことを忘れたと気付いた。


(そういえば、昨日からヒースと話をしてないわ。部屋から出てきた様子もないし。何かあったのかしら?)


バイオレットは、先日作った栄養ドリンクをまた持ってあげようと思った。そのため厨房に向かったところ、ちょうどマーサが盆に朝食の皿を載せているところだった。


「あら、ルームサービス?」


「ええ。203号室のお客様がお部屋でお召し上がりとのことなので運ぶところです」


「あら、ヒースの部屋じゃない。いいわ。私が持っていくから」


バイオレットは、マーサが止める間もなく、盆を彼女から取り上げてしまった。マーサがやけに焦った顔をしていたのが解せないが、自分が持っていけば、喜ぶだろうと単純に考えていた。


203号室のドアをノックして声をかける。ドアが開いた先にいたヒースは、少し見ない間にひどくやつれ、バイオレットの顔を見ると明らかに動揺していた。


「あ、あれ……バイオレットどうしたの?」


「ルームサービスに来ただけよ。あなたこそどうしたの? げっそりしてるじゃない。風邪でも引いたの?」


バイオレットは食事の乗った盆を持ったまま、ずかずかと部屋に入り込み、テーブルに手際よく並べ始めた。ヒースはその様子を黙って見ていたが、やがてぽつりとつぶやくように口を開いた。


「……いつもそうやって客の部屋に入ってるの?」


「え? 当り前じゃない。だって仕事だもの」


「そうじゃなくて、男が泊っている部屋にもバイオレットが一人で入るのかって聞いてるんだよ」


「変なこと想像しないでよ。今まで何もなかったんだから大丈夫よ」


今日のヒースは何だか様子がおかしい。本当に体調がよくないのかも、そうバイオレットが考えていると、ふいに腕をつかまれた。


「バイオレット、ごめん」


「ちょ、どうしたの?」


しかし、バイオレットが何かを言う前にそのまま体ごと引きずられ、ベッドに放り投げられてしまった。慌てて抗議の声を上げようとしたが、彼が馬乗りになる形で腰を押さえつけられ、両手も万歳の形のままマットレスに固定されてしまった。痩せぎすの彼にどこにそんな力が隠されていたのかと見くびっていた。まだ子供の頃のひ弱なイメージが残っていたバイオレットにとっては、天地がひっくり返るような衝撃だった。


「君をねじ伏せるなんて赤子の手をひねるくらい簡単なんだよ。いくら仕事とはいえ隙を見せたら危ない。君の身に何かあったら……僕は……」


声はひどく苦しそうなのに、手を押さえつける力は強く、飢えた狼のような血走った目をしていた。こんな彼の表情を見たのは初めてだ。いつも目を合わせると逸らされてしまい、たまに見せるはにかむような笑顔のイメージしかない。バイオレットは何が起きたのか分からず、痛いのと怖いのとで、頭がぼうっとして目に涙がにじんでくる。それを見たヒースは、はっと我に返って飛びのいた。


「ごめん。僕は何をしていたんだ」


咄嗟に謝ったが、彼自身頭の処理が追い付かないようだった。


「ごめんごめんごめんごめん、自分はどうかしている。こんなひどいことをするなんて。許して許して許して許して」


ヒースは壁に何度も頭を打ち付けながらうわごとのように謝った。


「あなたはただ心配してくれただけなのよね。大丈夫、分かってるわ」


バイオレットはびっくりして慌てて止めようとしたが、彼の動揺は治まるところを知らなかった。


「頭がおかしくなったとしか思えない。何で君を怖がらせるようなこと…… やっぱり駄目だ、ここにいちゃいけない」


「急に出ていくなんてやめてよ。その方が寂しくて嫌よ。確かにあなたの言う通り、今まで気にしない方がおかしかった」


バイオレットがどんなに言葉を尽くしてもヒースは頭をがっくり垂れ体を震わせたままだった。途方に暮れたバイオレットは、部屋一帯をぐるりと見まわした。部屋の片隅に、スーツケースが開かれ中身が散乱している。とりあえず外に出ているものだけ中に入れようと手を取った。すると、手紙の束がするっと床に落ちた。


「何かしら、これ?」


バイオレットが何の気なしに宛名を見ると、余りに見覚えのある筆跡を目にした。封筒には「J.H.クラーク様」と書いてあって裏には自分の名前が署名されている。自分がクラーク氏へ宛てた手紙だった。でもなぜヒースが持っているのだろうか。


「ヒース……これ……」


バイオレットに言われて目を向けたヒースもまた、顔が真っ青になった。二人とも顔面蒼白になり沈黙したまま立ち尽くしていたが、ヒースが先に手紙の束をひったくり、そのまま部屋を飛び出した。


「ヒース!」


バイオレットは頭が真っ白になった状態で、ゴミ箱にけつまづきながらも彼の後を追いかけた。

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