第23話 終わりなんかじゃない

ヒースがいなくなった後も、バイオレットはしばらくその場にとどまり声を上げて泣いていた。幸いこの辺りを通る者はおらず、誰かに見られることはなかった。どのくらいそうしていただろう、声が枯れてきた頃、ようやく上着も羽織らず外に出たことに気が付いた。我に返ってぶるっと武者震いをする。大きなくしゃみを一つした後、よろよろとホテルへ戻る道を歩き出した。


表玄関から入るには余りに恥ずかしい泣き顔を晒していたが、裏まで回る気力もなかった。どうせこの時間帯は客の出入りも少ないだろうと半ば自暴自棄な気持ちも手伝い、バイオレットはそのまま表の扉から中に入った。


ロビーに足を踏み入れると、バイオレットが帰ってくるのを待ち構えていたように、従業員たちが立っていた。みな気づかわしげな表情を浮かべ、バイオレットを見つめている。


「お嬢様、203号室の……クロックフォード様が今しがたお帰りになりました」


マーサが前に進み出ておずおずと切り出したが、バイオレットは静かに首を横に振った。


「いいのよ……もう分かっているから」


それを聞いた従業員たちはやっぱりと言うようにため息をついた。


「あの……今まで黙ってすいません。あなたを騙すつもりはなかったんです」


トーマスが珍しく神妙な面持ちで、重々しく口を開いた。


「ええ……分かってるわ。あなた達は指示されたことをやっただけですもの。ただ突然すぎて理解が追い付いていないだけ……」


「あのっ、ボス……クロックフォードさんはよかれと思ってしただけなんです! いつだってお嬢様とこのホテルのことを最優先に考えて、陰ながら援助してきたんです!」


「援助? どういうこと?」


マーサの言葉に耳を疑った。初めて聞くことだ。まだ言ってないことがあったのだろうか? バイオレットの反応を見たマーサはしまったというように慌てて口を押さえた。代わりにトーマスが説明する。


「まだ俺がここに来る前のことだけど、変な業者に目を付けられて格安でここを取られそうになったでしょう? その時『運よく』相手の業者が手を引いてくれたの覚えてます? そんな都合のいいことが本当にあると思いますか? ボスが……俺たちはそう呼んでます、裏で手を回したんですよ、そこの不正経理を暴いて脅したんです。他にも、途中で金利の安い業者に変えたのもボスの差し金です。本音を言えば、ここの借金を全部肩代わりしたかったはず、それくらいの資産は持ってますから。ただ、それをやるとバレてしまうので次善策を考えたんです。他にも細かいのを挙げればキリがないくらい……最近だと、嵐のあと救援物資が届いたのもそうです。だから彼が来た直後に届いたんです」


これ以上驚くことはないと思っていたのは間違いだった。バイオレットが「幸運の神様」に助けられたと思っていた出来事は全て人為的だったのだ。言われてみれば確かにタイミングがよすぎた。


目の前に困難が立ちはだかったと思ったら、都合よく取り除かれるということが何度もあった。神様のご加護に違いないなんていうのは、虫の良すぎる考えだったのだ。神様が見てくれるからこそ、この仕事を天職としなければいけないと自分を律し、嫌なことも我慢できたのに。


「ハハハ……バカみたい。彼が裏で手を引いていただけなのに、私は何でも自分の努力の成果だと信じていた。ただの世間知らずの小娘なのに、自分がすごいことを成し遂げたと勘違いしていた。何を躍起になっていたんだろう……若さや青春を犠牲にしてホテルを切り盛りすることだけを考えて、それが全部独り相撲だったなんて」


「独り相撲のはずないでしょう! 俺たちがあなたに着いて来たのは、命令されただけと思ってるんですか? 仕える相手があなただったからですよ! お嬢様の理想にみんな共鳴したからこそ着いて来たんです! ボスとは関係ありません!」


「俺はミデオンでホームレスだったのをボスに拾ってもらった身の上だけど、その恩だけならここまで働いてませんよ。今はここに骨を埋めるつもりですが」


「わ、私もミデオンに戻りたいとは思いません! ここに来た頃は都会の生活が懐かしかったけど、今の方が幸せだし、いい仲間に囲まれてるし、お嬢様のことも大好きだし……」


「ボスが俺を起用する時のテストでチェリーパイを課題に出されたんです。何でもお嬢様との思い出の食べ物だそうで。ボスのやったことはすぐには受け入れがたいとは思いますが、真心から出たものということはどうか分かってやってください」


バイオレットは、彼らが次々に言うのを黙って聞いていたが、既に冷静に考える余裕はなかった。たまらなく自分が愚かで惨めで滑稽で仕方ない。これまで築き上げた誇りが砂上の楼閣に過ぎないと認めるなんて余りに残酷ではないか。


「……ごめんなさい。今日は調子悪いから部屋で休んでいるわ。誰にも取り次がないで」


それだけ言うのがやっとだった。バイオレットは、ふらふらした足取りで、従業員室のある棟へと向かった。そのうなだれた背中を見たら、誰も声をかけられなかった。


「そうだ、一つ聞き忘れたことがあった」


ふと、バイオレットが立ち止まり振り返ったので、みなびくっと身体を震わせた。


「ヒースは普段何をしているの? 本当なら私の前に姿を現せる立場じゃないと言っていたけど?」


彼らはお互い顔を見合わせて口ごもっていたが、トーマスが答えた。


「ミデオンで最大級のカジノのオーナーです。5年前、その道の大物に認められて異例の早さで抜擢されたんです。カジノってのは裏社会とのパイプにもなってるからそう言ったんでしょう。実際ボスの主な業務は、ギャンブル依存に陥った客に高金利の借金をさせ、財産を巻き上げることです。人間の醜い部分を散々見てきたはずです。本人も本当は嫌々やっているのでは」


それを聞いたバイオレットは無表情のままだった。そして何も言わず前に向き直り自室へと歩いて行った。


**********


残された従業員たちは、チャーリーとヘレナに事情を説明しなければならなかった。特にヘレナは、突然部屋を訪れたヒースに「やっぱり先に帰らせていただきます。申し訳ありません」と言われたきり何の説明も受けていないので、混乱していた。しかし、事情を聞くと呆れたようにため息をついた。


「なんだ、人を殺して埋めたとかそんなのを想定してたわ。心配して損しちゃった。結局大したことないじゃない。ヒースはバイオレットを陰で援助していた。それがバイオレットにバレた。それだけよ」


「いやいや、ホテルを開業する前から5年もの間何も知らされてなかったら、それなりにショックですよ。自分の力でここまで成し遂げたというのがお嬢様の心の支えだったんだから」


トーマスはバイオレットのフォローに回ったが、ヘレナは鼻で笑った。


「何甘ったれてるのかしら。一人で何でもかんでもできると思う方がおかしいのよ。そんなに世の中うまくいくわけないでしょ、やけに出来過ぎだと疑うべきなのに。バイオレットもまだまだ子供ってことね」


ヘレナの手にかかると、どんな困難も水たまりに足を取られた程度の話になってしまう。おとなしいバイオレットの母親がこんな大物だったとは従業員一同知るよしもなかった。


「バイオレットは、ヒースのことが本当に好きなんだねえ」


それまで黙って話を聞いていたチャーリーが口を開いた。従業員たちはみなはっとしてチャーリーを見た。


「バイオレットがそこまで感情的になるなんてそうないことだよ。好きだからこそ裏切られた気持ちになってしまったんだろう。大丈夫、時間が解決してくれるよ。ロナンの時はこうじゃなかった。最初から気持ちは決まっていたんだろう」


父は何も見ていないようで実は全てお見通しだったのだ。人の悪意に鈍感で騙されやすく、昼行燈のようなチャーリーだが、彼もまた、このホテルに欠かすことのできないスタッフの一員であり、娘を愛する父親だった。


「ヒースの方は子供の時からバイオレットひと筋だものね。ミデオンで散々美人を見てきたはずなのにブレないのはあっぱれね。なあに。バイオレットも今日一晩眠れば、明日には立ち直っているわよ。あとは二人がくっつけばいいだけの話」


しかし、ヘレナのこの見立ては余りにも甘かったと、次の日になって判明した。一夜明け、いつもの時間になってもバイオレットが起きてこないことにみな心配した。そこで彼女の部屋を訪ねたところベッドはもぬけの殻だった。


箪笥に入っていた冬物の衣類は殆どなくなっており、一個しかない旅行鞄も見当たらない。そして机の上には「自分を見つめ直すためしばらく旅に出ます。変な気は起こしませんから心配しないでください」という書置きが残されていた。彼女がしばらくの間ホテルを空けるのは初めてのことだった。


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