第26話 生き馬の目を抜くミデオン
バイオレットは首都ミデオンの喧騒に飲まれそうになりながら、自分を見失わずに地面に足を着けて歩くのが精いっぱいだった。人の多さも、騒音も、車の量も、建物の密集具合も、何から何までアップルシード村とは違う。最寄りの大きな町とも段違いだった。高度に発達した文明の最先端の場であるミデオンは、田舎から出て来た世間知らずの娘にとっては異世界も同様だった。
(こんな場所が本当にあるんだ……お母様もヒースもこんなところに住んでいるの? 人が多すぎて息が詰まらないのかしら?)
電車で数時間のところにこんな別世界があったなんて知らなかった。何で今まで知ろうとしなかったのだろう。若者なら誰でも刺激の多い世界に行きたがるのではないのか。バイオレットは、自分の精神が老人のように凝り固まっていたことを、ここに来て認めざるを得なかった。
(今ならロナンの言っていたことが分かる……私は仕事を口実にして、安全な場所から出たくなかっただけだったんだ。新しい世界が怖いから、自分を偽っていただけ……)
本当は、きれいにお化粧をして、流行のドレスを着て、大人気のお芝居を見て、誰かに給仕されながら雰囲気のいいレストランでゆっくり食事をしたかった。自分にはそんな贅沢をする余裕はないから、羨ましいと思う気持ちを封印するため、仕事に没頭する振りをしていたのだ。そうすれば惨めな自分を直視せずに済むから。仕事が忙しいから仕方ないのだと自分に言い聞かせることができる。そこへたまたま幸運が積み重なって、「私は幸運の神様に愛されている」と思い込みが補強されたのだ。
全て種が分かってしまえば実につまらないことだった。一皮むけば、何も持っていない小娘が精いっぱい虚勢を張っていただけだった。他人に助けてもらってやっと何とかなっていたのに、傲慢にも自分の努力の結果だと勘違いしていたのだ。こんな気持ちのままヘイワード・インに帰ることはできない。外の世界はどんな場所なのか一通り見て、少しでも自分の見識を深めておきたかった。
(お母様のアパートは……ここでいいの? 住所が複雑で分からない。本当に郵便が届くのかしら?)
バイオレットは大通りから一本入った道にあるアパートの前に立っていた。単身者が暮らすにはやや広そうな、立派な作りのアパートだった。バイオレットは意を決して玄関の扉を開けた。ロビーに足を踏み入れると管理人に一瞥され、一言挨拶しないと駄目なのかしらと迷ったがそのまま進むことにした。
確か母の部屋は4階……階段を上ろうとしたらエレベーターがあることに気付いた。エレベーターまで設置してあるアパートは、この頃まだ珍しい。バイオレットは少しドキドキしながらエレベーターの扉をガラガラと開け、4階へ向かった。
自分が来ることは母に伝えてなかった。もしかしたら留守かもしれない。そしたらどうしよう。やはりあらかじめ知らせるべきだったのかも、彼女はこんなところでも自分の世間知らずさを痛感した。
幸いヘレナは在宅だった。バイオレットを見ても驚きもせず「前もって連絡くらいして来なさいよ。こんなところまで私に似なくてもいいのよ」とだけ言った。
母に頼るつもりはなかったのだが、実際に生き馬の目を抜く都会に足を踏み入れたら自分一人で手に負えるものではないと早々に諦めた。大人にもなって迷子になるくらいなら頼れるものは頼った方がいい。変な意地を張るのはやめた。
ヘレナの部屋は、豪奢な調度品にあふれているのに、奇跡的なバランスでギリギリ下品になっていないところが流石としか言いようなかった。美術品も時代がバラバラなのにテーマが統一されている。このセンスはぜひホテル経営にも生かしてほしい、何とか手伝ってもらえないかと、今は仕事のことを考えたくないバイオレットでもつい考えてしまった。
「あなたはここに来るの初めてだっけ? お父様は何度か来ているのよ。家政婦を一人雇っているのだけど、買い物中でね。待ってね、今お茶入れるから」
ヘレナはきびきびと動きながら紅茶とお菓子を用意した。バイオレットは出された紅茶に口を付けてほっと一息ついた。初めての土地を一人で歩いて気が張っていたのだ。
「それで、ロナンとどうしたって?」
ヘレナもソファに腰かけ、足を組んでティーカップを手にした。
「ここに来る前に別れを切り出したの……最後まで紳士的な人だった」
バイオレットはため息をつきながら事の次第を説明した。自分の中でもまだよく受け止め切れない。それを言うなら、その前段階の、ヒースが暴露したことについても心の整理がついてなかった。
ヘレナは紅茶をすすりながら黙って聞いていたが、バイオレットが話し終わると口を挟んだ。
「で、あなたはどうしたいの?」
私はどうしたい? バイオレットは言葉に詰まった。ミデオンにやって来た一番の目的は、ヒースに会うことだった。でもその後どうするのだろう? 何のために話し合うのだろう? 彼からどんな言葉を期待しているのだろう?
「お母様……ヒースはミデオンのどこにいるんですか? 知ってるんでしょう?」
「ああ……それね……」
ヘレナは目を泳がせた。
「残念ながら既に向こうの手が回っていて、教えてくれるなと釘を刺されているのよ。別に守らなきゃいけない義理もないんだけど、向こうも必死だからさ!」
ぺろっと舌を出しながら言うヘレナをバイオレットはぽかんとした顔で見つめた。
「……そこまで私に会いたくないの? 何か嫌われるようなことした?」
「逆なんじゃないの? ヒースも相当こじらせてるから自分でも訳分からなくなっているのかもよ。大きなカジノのオーナーであることは分かっているんでしょう? それなら自分で調べてみなさいよ。本当に会いたいのならそれくらいできるわよね、私の力を借りなくても」
結局ヘレナは、自力で探し出してみろと言っているのだ。安易にヒントをあげたらつまらないとでも思っているようだ。実に母らしい発想だ。そしてバイオレットは結局彼女の娘だった。自分のふがいなさに散々打ちのめされているので、ここで母の力を借りるのは潔しとしなかった。トーマスが言っていた「最大級のカジノのオーナー」という言葉で大分絞られる気がする。翌日から自分の足で調べてみることにした。
翌朝宣言通り、バイオレットは朝食を食べてから一人で街に繰り出した。途中本屋でミデオンの旅行ガイドを買った。お上りさん丸出しで恥ずかしかったが、実際そうなのだから仕方ない。地図がなければ街を歩くこともできない。
ふとバイオレットは立ち止まり、ショーウィンドウに写った自分の姿を眺めた。あずき色のもっさりした時代遅れのコートを着た自分は、とてつもなく田舎くさく見えた。街を歩く若い女性は、髪をボブカットにして帽子を被り、くびれのないワンピースに身を包み、足を露わにしてかかとの高い靴をカツカツ言わせながら街を闊歩している。次に、自分のくたびれたブーツを見下ろした。何から何まで違う。
途端に、自分が裸で外を歩いているような羞恥心に襲われた。前にマーサが選んでくれたワンピースは夏用なので冬に着ることはできない。ミデオンの街で着られるような服を持ち合わせていないことに、彼女は気が付いた。
こういう時はブティックにでも行けばいいのだろうか。それとも全身ぴかぴかに磨いてくれるサロンでもあるのだろうか。ふらふら歩くうちにそれらしい店構えの建物が目についた。オーダーメイドのドレスを作ってくれるところらしい。
外から中を覗くと、お針子たちがせわしなく働いていた。ショーウィンドウには刺繍とビジューがたくさん縫い込まれたふんわりしたドレスが飾られている。バイオレットはその美しさにしばし見とれていた。こんな素敵なドレスを着るのはどんな人なんだろう。しばらくその場に立っていると、店の中から店員が顔を出した。
「あの、すいません。ご予約の方ですか?」
「いえ、違うんですけど、ここで服を作ってもらうことは可能ですか?」
「もちろんできますけど、予約制なので今すぐにというわけにはいきません」
それもそうだとバイオレットは思い直した。邪魔になっては悪いと、相手に一礼してから店の前を去って行った。
結局午前中は何もできなかった。情報量の多さに圧倒され手も足も出ない。そのままお昼になり、カフェのテラス席でサンドイッチを頬張っていた。鞄を地面の上に置き、先ほど買ったガイドブックでカジノの場所を調べていた。
(さすがミデオンにはカジノがたくさんあるのね……行ったことないけどどんな場所なのかしら? 最大級のカジノってトーマスが言ってたからこの本にも載ってる店よね)
「おや、お嬢さん。カジノに興味をお持ちで?」
呼ばれてふと顔を上げると、隣の席にいた恰幅のいい老紳士がこちらを見てにこにこしていた。
「え、ええ。友人がカジノで働いているもので」
杖を突いたまま座っている老紳士からは裕福そうな印象を受けた。お付きの者は見当たらないから、一人で近所を散歩しているのだろうか。どうやらバイオレットの話に興味を持ったようだ。
「どこのカジノかご存じですか?」
「それがどこか分からないんです。かなり大きなところらしいんですが、ちゃんと聞いておけばよかったわ」
バイオレットはその老紳士に聞かれるがままに自分のことを説明した。どこから来たとかいつからミデオンにいるかなど。見知らぬ人に囲まれ不安が大きくなっていたバイオレットは、老紳士が自分に興味を持ち好意的に接してくれることに癒され、ついつい自分の身の上話をしていた。
向こうにしてみれば、孫ほどの娘が単身ミデオンにいる姿が心もとなく感じられたのだろうか。そちらに気を取られているうちに、地面に置いた鞄に注意を払わなくなっていた。だから狙われたのだろう。突然何者かがバイオレットの鞄をさっと奪って脱兎のごとく走り去った。
「あ! 私の鞄! 待って!」
バイオレットはすぐに立ち上がりその者を追いかけようとしたが、ちょうどその時老紳士が突然胸を押さえうめき声を上げながら地面に崩れ落ちた。鞄か老紳士か。彼女は一度に緊急事態が2つ起きたことに頭がパニックになったが、ここは人命を優先せねば。鞄を追いかけたい気持ちをぐっと抑え、老人に駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか!? 誰か、救急車を!」
店の者も駆け付け、誰かが救急車を呼んだ。店員はバイオレットを老紳士の関係者だと思ったらしく、救急車が着くとバイオレットに同乗を頼んだ。バイオレットも乗り掛かった舟で断れず、老紳士に付き添うことになった。ヒースを探すはずがとんでもないことに巻き込まれてしまったが、どうしようもなかった。
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