第12話 魅了の魔法
ウィルと呼ばれた青年は、トーマスに凄まれても何ら動揺することなく、ゆっくりとコートを脱ぎ傍らの椅子にかけると、上から見下ろすようにトーマスを一瞥した。
「それが客に対する態度ですか? 田舎のホテルだけあって従業員教育がなっていませんね」
「おい、ふざけるなよ。ボス一人で手一杯なのに、これ以上登場人物が増えたら収集がつかなくなるんだよ」
トーマスに詰め寄られると、ウィルはさっと身をかわし椅子に腰かけ足を組んだ。
「俺だってこんなド田舎に来たくなかったよ。ボスが多忙で手を離せないから、代わりにあの娘の恋人候補の身辺調査を頼まれた。それでちょっと遠いけどここを拠点にしようと思ったの」
「それにしても、その格好はなんだよ。お嬢様は世間知らずだからただのビジネスマンと思ったかもしれないけど、カタギの男が着るスーツじゃないぞ。この辺でそんな格好してたら浮くからな。ボスだって普通のくたびれた格好にしてるのに。煙草だって吸わない」
トーマスは、ウィルの着てきたスーツをじろじろ見ながら言った。黒地に光沢のある紫の糸が織り込まれた生地で、光の加減によって紫が強く出ることがある。確かにそんなスーツを普通の真面目なビジネスマンが選ぶとは思えなかった。
「出発までに時間がなかったんだから仕方ないだろ。調査に行くときは目立たない服に着替えるから大丈夫だよ」
ウィルは懐から煙草を取り出して火をつけると、ぷかぷか吸い出した。
「ボスもなんでお前を選んだわけ? 他に適任者がいなかったの?」
「俺が手紙の代筆をやっているからだろうな。秘密を共有する人間を増やしたくないんだろう」
「ああ。あれお前が書いてんだ?」
トーマスは、あの美しく流麗な文字を今目の前にいる小憎らしい男が書いたとはにわかに信じられなかった。
「ボスは悪筆だから俺がやれって。秘書の仕事以外に代筆業もやるとは思わなかった。ボスの考えた文章を決まった便箋に書いて1ヶ月に1回送る。質問は禁止。他言無用。それだけだ。相手はどんな娘だろうと思ってたが、あんなションベンくさい小娘だったとは。ボスの好みも分からんな」
ウィルは煙草の煙を吐きながらせせら笑った。
「見た目はションベンくさくても行き遅れとされる年齢なんだよあれでも。今いい家のお坊ちゃんにアプローチされてるけど」
「ああ、そういうことか。手紙にも同じようなことが書いてあったな。ほら」
ウィルは、鞄から一通の手紙を取り出してトーマスに渡した。それはバイオレットがクラーク氏に宛てた手紙だった。トーマスは中身を読むと頭を抱えた。
「本当に最近のボスはどうかしてる。こんな手紙に心を乱されてお前を派遣するなんて。第一自分は陰に徹すると言ってんだから、お嬢様が誰と結婚しようが関係ないだろうが。なんですぱっと割り切れないんだろう?」
「そのお嬢様とやらに接近してる男がちゃんとした人間か調査しろ、というのが俺の任務。家柄がよくて一見上品そうに見えても中身は変態なんてザラにいるからな。探偵稼業のためにこの世界に入ったわけじゃないんだけど。それ言ったらお前なんか今じゃ立派なホテルマンか。ミデオンに戻りたいとは思わないの?」
「まあ、俺は今の仕事それなりに気に入ってるからいいよ。かつて鳴らした腕も迷惑客対策には役立ってるし」
そう言うトーマスを見て、ウィルは鼻で笑った。
「もうすっかりナマクラになって元の現場には戻れんな。どうせそのつもりなんだろうけど」
「お前だってインテリヤクザだから血生臭い現場は苦手なくせに。強がるなよ」
「ヤクザも今じゃ頭を使うの。きょうび野蛮な喧嘩なんて流行んねーんだよ。だから俺みたいのが重宝されるんだ」
ウィルは、神経質そうな手つきで煙草の燃えカスを灰皿に払い落とした。
「そろそろ雑談は終わりだ。お前も持ち場に戻らないと疑われるぞ」
「その前にチップがまだですが。お客様?」
口の端を上げてにやっと笑うトーマスを見て、ウィルは舌打ちしつつも財布からお金を取り出してぞんざいに投げつけた。
「ありがとうございます。どうぞごゆっくりお過ごしください。従業員一同、心からおもてなしさせていただきます!」
トーマスは、最高の営業スマイルでウィルの部屋から出て行った。
**********
「よう、マーサちゃん、久しぶり。アネッサがよろしくって言ってたよ」
夕食の時間になり、食事のため降りて来たウィルは、バイオレットには気づかれないタイミングを見計らって、気安くマーサに声をかけた。マーサは口をへの字にしながらウィルに一瞬目を向けたが、無視して通り過ぎた。冷たくあしらわれたにも関わらず、ウィルはマーサを目で追ったままニヤニヤしていた。
「なんなの、秘書が来るなんて聞いてないわよ?」
マーサは給仕の手伝いをしていたトーマスに耳打ちした。
「なんでもロナンの身辺調査をおおせつかったらしいよ。その間ここに滞在するんだと」
「あいついけ好かなくて苦手なのよ。いつも胸と尻ばかり見てるし」
「まあ男なんてそんなもんだろ」
「さすが、モテる男は言うことが違うわね」
無意識に呟いた一言をマーサが聞き逃すはずがなく、彼女にすねを蹴飛ばされ、トーマスは持っていた皿を危うく落としそうになった。トーマスがウィルの方をこっそり観察すると、今度は食堂に入って来たバイオレットに声をかけているのが見えた。
(あいつ、また余計なこと言い出さないだろうな)
トーマスが内心ハラハラしながら観察するのもお構いなく、ウィルは、フォークで皿を指し示して、軽い調子でバイオレットに話しかけた。
「この料理はとてもソースが繊細かつ濃厚で、お肉とよく絡みますね。失礼を承知で言わせてもらえば、田舎のホテルでこんなに洗練された料理をいただけるとは思わなかった。さぞかし腕のいいコックがいるんでしょう。どこか有名どころで働いてた方なんですか?」
「まあ! ジムが聞いたらきっと喜ぶわ! ええ、実はミデオンの5つ星ホテルで働いていたんです。腕はいいのに田舎でのんびり働きたいと言ってうちに来てくれたんです」
バイオレットは、ウィルの言葉の意味するところなど考えもせず、素直に目を輝かせて喜んだ。
「そうだったんですか。他の料理もうまいし、ただ者ではないなと思いました。以前に同じようなことを指摘した人がいませんでしたか?」
それを聞いたバイオレットはきょとんとした。確か、つい最近ヒースが似たようなことを言っていた気がする。
「え? ええ……言われてみれば、他にも……もしかしてジムって本来うちにいるような人ではないのかしら……?」
バイオレットは指摘されるまで意識することのなかった可能性に初めて気が付いてそわそわし出した。二人の会話を聞いていたトーマスは嫌な予感がして、ウィルに気付かれないようにじりじりと近くににじり寄った。
「お気になさらず。そういうこともありますよ。ただ料理だけでなく、他の従業員たちもサービスや配慮が洗練されていたので、このホテルは都会からスタッフを引き抜いたのかなと思って……」
ウィルはいい人アピールでもするかのように相好を崩して言った。それがやけに癇に障ったトーマスは二人の間に割って入った。
「お客様、お済みのお皿はございますか?」
「ああ、トーマスごめんなさい。私ったら話に夢中で仕事を忘れていて」
バイオレットは褒められたのは嬉しいがどこか不思議な気分だったのを、トーマスが割って入ったことで自分でも気づかないうちに気持ちが他のことに逸れた。
「いいよ、こっちはやっとくから、お嬢様は自分の持ち場に戻って」
トーマスは首尾よくバイオレットをウィルから離すのに成功した。そして今度は、胡乱な目でウィルをにらみつけた。
「お嬢様に何を吹き込む気だ? ボスの命令にはないだろ」
「ボスに逆らうわけじゃないよ。かわいいお嬢さんをからかいたくなっただけ」
ウィルは薄い唇でにやっと笑いながら平然と答えた。
「何にも知りませんって顔してるから、少しヒントをあげようと思ったの」
「お前の世話は俺がやるから、明日になったらとっとと出ていけ」
「言われなくてもそうするよ。明日は男の家の近くまで行って調査してくる。トーマスが心配することは何もないから大丈夫だって」
宣言通り、翌朝ウィルは早くに出発してロナンの素行調査に出かけた。ヘイワード・インからロナンの居住地までは1時間ほどかかる。そして夕方になったらホテルに戻って来ることになっていたが、この日は午後から天気が崩れだした。朝はすっきり晴れていたので、ウィルは傘を持って行かなかったようだ。夕方になり雨が降り出し、歩いてる途中に降られたウィルがずぶぬれになってホテルに戻って来た。
「まあ、お客様! このままでは風邪を引いてしまいます。体を拭いてすぐに着替えてください。トーマス! お湯の準備を!」
バイオレットは髪の毛からも水が滴っているウィルを見てびっくりした。そして濡れたコートを預かり洗濯室へ持って行った。名前を呼ばれたトーマスは内心自業自得だとほくそ笑んだが、表向きは粛々とバイオレットの指示に従ってウィルの世話をした。一通りのことが終わり、ウィルが乾いた衣類に袖を通したころ、バイオレットが部屋を訪れた。
「失礼します。お客様、お身体の方は大丈夫ですか? 暖炉に火を入れましょうか?」
「別に寒くはないのでこのままで結構です。お気遣いありがとうございます」
ウィルは慇懃な態度を崩さずにお礼を言った。
「旅先で調子を崩されたら大変なので、おせっかいかもしれませんが、体を温める飲み物をご用意しました。お口に合いましたら温かいうちにお飲みください」
バイオレットはそう言うと、机の上に湯気の立ったマグカップを置いた。それは、はちみつ漬けのレモンをお湯割りしたものだった。ウィルは不思議な心地でそれを受け取った。
その後もバイオレットはウィルの様子が気になるようで何度も訪室して彼の様子を聞きに来た。食事も消化のいいものを特別に用意して部屋に持ってきてくれた。
幸いウィルは風邪を引くことなくぴんぴんした状態で、翌朝また出かけた。しかし前日と異なり様子がおかしい。体調は悪くないはずなのに、どこか上の空で魂が抜けた感じだ。トーマスは彼の変貌ぶりが気味悪かった。
トーマスはその日の夕方ホテルに帰って来たウィルをつかまえてそっと尋ねた。
「おい、昨日と比べて様子が変だが、何かあったのか?」
「いや……何もない……ただ……」
「ただ?」
「今ならボスの気持ちが分かる……バイオレットは天使だ……」
はあっ!? トーマスは思わず大声を上げてしまった。なんてこった。バイオレットの何が男たちを狂わせるのか? ああ見えて実は魔性の女なのか?
「お嬢様は仕事で面倒見ただけだぞ。みんな同じようにやってるんだ。勘違いするな」
「そんなの分かってる。でもあんな風に気を使われたことがないんだ。親からも……」
トーマスは慌ててウィルを説得したが効果なかった。そうだ、忘れてた。ヒースだけでなく、彼のもとに集まる男たちは愛情に飢えた者が多かった。一見育ちがよさそうなウィルもまた、家族から顧みられない生活を送ってきた。だから、少し優しくされたくらいでころっと参ってしまうのだ。トーマスはしまったと後悔したが時すでに遅しだった。
「他意はないって分かってるよ。でもそれで構わない。彼女は俺が何者でも変わらず接してくれる。それがたまらなく嬉しい」
「あのなあ、お前ボスに消されるぞ。彼女に手出したら——」
「そんなことするわけないじゃないか! ボスにとっては初恋の人だろうけど、俺のこの気持ちは崇拝だ。護衛騎士が姫に忠誠を誓うのと同じだ。だからこの気持ちはずっと胸にしまっておく。大丈夫だ」
なにが大丈夫なもんか。つい最近も似たようなことを言ってあっさり撃沈した男がいたばかりなのに。崇拝だろうが恋だろうが、バイオレットに男を狂わせる要素があったなんて思いも寄らなかった。彼女自身も気づいてないだろう。もうどうなっても知らねーぞ。トーマスは全てを投げ出してここから逃げ出したくなった。
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