第35話 終わりにしたくない

バイオレットは、再びエルドラドの前に立っていた。まだネオンサインが点灯する時間ではなく、夜の煌びやかな喧騒は鳴りをひそめている。昼間の観光客が店の前の通りをガイドブック片手にのんびりと歩く時間帯だ。入り口では、従業員が掃き掃除をしており、眠らない夜に向けて着々と準備が進められていた。あんなに心弾ませながら通っていた日々が嘘のようだ。最初にここに来た時、いやそれ以上に彼女の心は重く沈んでいた。


(どんな結果になっても受け入れよう。そのためには言うべきことはきちんと言っておかなくては)


バイオレットは、エルドラドのシンボルとなっている金髪美女のネオンサインを睨みつけながら自分に言い聞かせた。もうここへ足を踏み入れることはないだろう。今日会って話をしたらヘイワード・インへ帰るのだ。


以前バイオレットをつまみだそうとした警備員が同じ場所にいたが、今度はバイオレットを認めると丁重に挨拶をしてきた。ヒースの愛人ということは今や殆どの従業員が知っていた。


「あ、あのオー……アネッサさんを呼んでいただけますか?」


いきなりヒースと顔を合わせるのは憚られた。多忙を極めるオーナーを直接呼びつけるのも無礼だし、まずはアネッサに会って少し話がしたかった。


アネッサはすぐに小走りでやって来た。そしてバイオレットを見つけるとほっとした表情になって抱き着いて来た。


「よかった! もう来ないんじゃないかと思った! 心配したのよ! さあ中に入って」


アネッサは、泣き腫らしてやつれたバイオレットを痛ましげに見つめ優しく背中をなでた。そして応接室へと案内した。


「あれからボスはすっかり黙りこくっちゃって、表向きは何ともない振りしてるけどあれは相当無理してるわね。見てて痛々しいわ。でもあなたが戻ってくれば万事解決ね」


「待って、アネッサ。私戻って来たんじゃないの。ヒースと話を付けたら故郷へ帰ろうと思う」


アネッサは紅茶を入れる手をぴたっと止めた。バイオレットはこのままミデオンに残ると完全に信じていたのだ。


「何言ってるのよ。そんなこと本当にできると思ってるの? あなただってボスと一緒にいたいでしょう?」


「でも、私たちは余りにも長く離れすぎた。その間に二人とも大きく変わってしまった。それぞれ大事な居場所を見つけたの。どちらかが犠牲を払って一緒になってもきっとうまくいかないと思う。それに……」


バイオレットはためらうように下を向いた。自分が潔癖すぎなのかとも考えた。しかし、これは譲れない一線だった。心の奥底に黒い疑惑を抱えたまま幸せにはなれないと思う。そしてヒースが好きなのは、そんな真面目で融通の利かないバイオレットなのだ。


「ボスの過去が気になるのね。あれは単なる噂で私は信じてないわよ? だってあの人怖そうに見えるけど、虫一匹殺せやしないもの。なあに、私の4番目の恋人なんて今塀の中よ? この世界にいればそう珍しいことじゃないのよ」


アネッサはあっけらかんと言ったが、バイオレットの心は晴れなかった。


「姐さん。ボスがバイオレットさんにお会いになると言っています」


ウィルが顔を出してヒースの伝言を届けに来た。いつも底意地悪そうな笑みを浮かべているウィルも、この時ばかりは心配している表情を隠せなかった。バイオレットは覚悟を決めてすくっと立ち上がり、ウィルの後に着いてヒースの執務室へと向かった。これで最後だ。これで決着をつけるのだ。


ウィルが執務室のドアをノックした。ドアを開けるとヒースはこちらに背中を向ける形で立っていて、窓の景色を眺めていた。ウィルが「バイオレットさんをお連れしました」と告げると「ありがとう。二人だけにしてくれ」と落ち着いた声で言った。


ウィルがドアを閉め、部屋の中は二人きりになった。この前と同じだ。バイオレットが口を開こうとしたら、ヒースがこちらを向き、つかつかとバイオレットに近づいた。


「よかった……無事だった……あれから君のことばかり考えて気が変になりそうだった。自分にそんな資格はないのに、君を不幸にさせてばかりなのに、本当にごめん……」


そう言うとこらえきれずにバイオレットをひしと抱きしめた。駄目だ。今日こそは我慢しようと思ったのにまた涙が出てしまう。何度否定しても彼を嫌いになるなんてできない。幸せになんかならなくていい。二人で地獄に落ちても構わない。彼と一緒なら何があっても怖くない。バイオレットもぎゅっと彼を抱きしめ、声を上げて泣いた。


「あなたが何者でもいいの。好き。ずっと好き。他の誰かなんて考えられない。幸せにしてくれなくてもいいから」


決別の言葉を言いに来たのに実際に口から出てくるのは反対の内容だった。ヒースのことも、ヘイワード・インも諦めきれない。どっちを取るかなんてできない。ヘイワード・インはバイオレット一人の力で成し遂げたのではなく、ヒースの力添えがなくては成功しなかったからだ。既に彼の存在と分かちがたいものになっていた。


「バイオレットは幸せにならなくちゃいけない。でもそれは僕では無理だ。これからも君に悲しい思いをさせてしまう。人並みの幸せは望めない」


「あなたがいなければどんな幸せも色あせてしまう。お願い、そばにいてと言って。それが私の一番の望みなの」


しかし、ヒースは体を震わせ歯を食いしばるだけで何も言わなかった。そうなるのは分かっていた。分かっていたが認めるには余りにも辛すぎた。


「それなら、自首して罪を償ってから私を迎えに来て。どんなあなたでもいい。私いつまでも待っているから。何年でも待ってる」


それが悩みぬいて得たバイオレットの答えだった。今まで築き上げたもの全てを捨てろと言っているに等しい残酷な言葉だったが、何度考えてもそこにいきついてしまった。ヒューゴがヒースを頼りにしていたことを思い出す。自分は何て自己中心的で身勝手な人間なんだろう。よくもこんな提案をできるものだと我ながら呆れかえるが、解けない結び目を元に戻すにはこれしか考えられなかった。


ヒースは涙に濡れた顔でバイオレットを見つめた。彼もまた憔悴しきった表情をしており、ここ何日かの苦悩が顔に刻まれていた。そしてゆっくりと身体を彼女から離し、彼女の両肩に手を置いたまま真正面から向き合った。


「それは、できない」


表情は虚ろなままだったが、やけにはっきりした口調で言った。


「したくても、できないんだ」


線を引かれた、とバイオレットは思った。二人の間に超えることのできない壁ができた瞬間だった。二人の住む世界は違う。近づいても決して交わることはない。静かに悟ったバイオレットは涙がすーっと引くのを感じた。心の芯まで冷え込んで一瞬気が遠くなりかけたが、強靭な精神力で何とか己を保った。終わりだ。これで全部終わりだ。


「分かった。分かってた。最初から無理難題を言ってたって。私は自分のエゴだけで動いていた。あなたの立場とかこれまでの努力とか何も考えていなかった。私に守るものがあるように、あなたにもかけがえのないものがある、ただそれだけ——」


「そうじゃない、バイオレット、違うんだ——」


「いいの。気付かない振りをしていたけど、やっぱり無理だった。最初からこうなるしかなかったのよ。やっと踏ん切りがついたわ。時間が経てばこれもいい思い出になるかも——」


「頼む、バイオレット、聞いてくれ——」


ヒースは必死にバイオレットを説得しようとしたが、バイオレットの方は全てを諦めたように悲しく微笑んで見せた。それを見たヒースは余計に慌てて何か言おうとするが、うまく言葉が出てこない。そのせいであろう、いつの間にかドアが開いて誰かが入ってきているのに気が付かなかった。


「そらあ、起きてもない犯罪の自首なんてできるわけないわなあ」


二人ははっとして声の主の方を見た。第三者が部屋に入り込んでいることにやっと気づいたのだ。二人ともその人物を見て震えあがった。エルドラドで見たことのある顔ではない。しかしバイオレットは彼をよく知っていた。しかもつい昨日会ったばかりだ。


「シュミットさん……なぜここに?」


「バイオレット、彼を知っているの?」


ヒースがぎょっとしてバイオレットに尋ねた。なぜシュミット氏がここにいるのだろう。バイオレットは訳が分からなくて気が動転した。


「おい、小僧。バイオレットさんに俺のこと紹介してくれ」


シュミット氏はぶっきらぼうな口調でヒースに言った。ヒースは青ざめた顔のままバイオレットに説明した。


「バイオレット、彼がビッグ・ロブだ。前のオーナーの」


バイオレットは耳を疑った。何てことだ。シュミット氏がビッグ・ロブだなんて。しかも彼は生きている。余りの出来事に彼女は言葉を失った。


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