第36話 ヒース・クロックフォード

しとしとと小雨の降る寒い日だった。15歳のヒースは、新しく入ったカジノで床磨きをしていた。母が働けなくなって一人で二人分の家計を担わなくてはならない。今度こそ首にならないように細心の注意を払う必要があった。


首都ミデオンに来れば職探しは簡単だろうと思っていたのが甘かった。都会は失業した若者であふれ返り、給料がいいところなんてどこも残っていない。やっとねじ込んでも、店の金を盗んだとか、備品を壊したなどと言いがかりをつけられすぐに追い出されるのが関の山だった。


おまけに母は、過労が祟ってベッドから動けなくなった。二人の生活費に加えて母の治療費まで捻出しなければならない。そう思っていた矢先に見つけたのが、カジノの清掃の仕事だった。


「おい、新人。さっさと片付けろ。客がお前のしけたツラ見たら遊ばずに帰って行くわ」


先輩がヒースに声をかけた。ヒースは、指示された箇所を終え、スポンジをバケツに入れると、裏口の井戸まで行った。下水の臭いとゴミの臭いが混じった裏口で、手押しポンプを押しながら水を出してバケツを洗う。これで今日の業務は終了のはずだ。小雨に濡れた体は芯まで冷えていたが、家に帰って布団を被れば何とかなるだろう。


家に戻る道すがら、ヒースは幸せだった日々を思い出していた。母がヘイワード家の使用人として働いていたあの頃。実際は義父や異母兄妹から度重なる虐待を受けていたが、ヘイワード家の男爵令嬢であるバイオレットと過ごした時間は宝石のようだった。ヒースはずっとあの場所にいたかったが、残っていたら母は父に殺されていただろう。だから家を出るしかなかった。


雨風をしのげるだけマシというレベルのアパートに帰って来た。隣の部屋からは母がひっきりなしに咳をしている。咳の音を聞いていると先行きが不安になってどうしようもなくなった。高い薬を飲ませているのに一向によくならない。


ヒースは何も食べないままベッドに潜り、咳の音が聞こえなくなるように布団を頭からすっぽり被った。早く意識を飛ばしたかったが、空腹も手伝って身体がなかなか温まらずいつまで経っても寝られなかった。


**********


翌日もいつも通りの時間に出勤した。自分の持ち場で黙々と掃除を始める。今日は、開店前の店内に見慣れない老人がいた。やけに恰幅のいい男で、葉巻をくわえ新聞を片手に何やら考えこんでいる様子だ。蝶ネクタイを締め高級そうなスーツを着ているからここの重役か何かだろう。いずれにせよ、ヒースには縁のない雲の上の人物であるため、掃除の邪魔になるから早くどいて欲しいとしか思わなかった。


「おい、小僧。今日の第7レース何が来ると思う?」


不意に老人に呼ばれヒースは体をびくっと震わせた。


「な、何の話ですか?」


「競馬だよ。お前が言った数字に賭けようと思う。何番がいい?」


ヒースは訳が分からないまま、老人が持っている新聞を覗き込んだ。競馬新聞だ。ルアール競馬場第7レースと書かれた出走表に出走馬の名前がずらりと印刷されていた。


「自分なら……4番のシルバーブレイズですかね。昨日雨が降って重馬場なのでパワーのある馬が来ると思います。前走5着だったもののポテンシャルはあるので展開次第では上に行けるかと」


適当な数字を言うだけと思っていた老人は、驚いてヒースを見つめた。


「何だ、お前。小僧のくせして競馬やるのか?」


「まさか、そんな金ありません。ここに来る前に新聞売りの仕事をしていて競馬新聞を扱っていたんです。そこで客の会話を聞いたり、暇なときに新聞を読んだりして自然に知識が身に着きました」


初等教育しか受けていないヒースにとって、この世界全てが教科書だった。人の言動を観察して、先行きを予想したり、分析して方針を立てたりするのが好きなのだ。その知見を生かす機会はなかったが、自分が生き延びるためにいつか役立つだろうと思って密かに研鑽を積んでいる。それに加え、短い期間ではあったが、バイオレットと一緒に家庭教師から学んだ経験も役に立っていた。


老人は目を大きく開いてヒースを見ていたが、彼の回答を聞くと豪快に笑いだした。


「そうか、そうか。お前面白い奴だな。もし当たったら分け前をやるよ。じゃあな」


老人はご機嫌な様子でオフィスの方へと戻って行った。一体今のは何だったんだろう? ヒースは箒を手にしたまま立ち尽くしていたが、先輩からの怒号で我に返り、掃除に戻った。


数時間後、やっと掃除が終わり開店時間が近づいた。ヒースの仕事も終わりだ。今日はこれから別の仕事が入っている。遅刻しないように早く帰らなければならない。帰り支度を急いでいると、先ほどの老人がやって来た。


「おーい、小僧。お前の予想が当たったぞ。約束通り配当金だ。受け取っておけ」


そう言って渡されたのは見たことのない量の札束だ。ヒースはさすがにぎょっとしてすぐに手を出せなかった。


「いや、そんな偶然だし……こんなに受け取れません」


「何言ってるんだ? 金は貰えるうちに貰っておけ。たくさんあって困ることはない。何に使おうがお前の自由だ」


それだけ言うと老人は快活に笑いながらまた奥へと戻って行った。札束を手にしたまま呆気にとられるヒースに同僚が声をかけた。


「おい、今のオーナーじゃねーかよ! いつの間に口をきいてもらえるようになったんだ!?」


「ええ!? あの人がオーナーなんですか?」


これがヒースとビッグ・ロブとの出会いだった。


**********


それ以来、ビッグ・ロブはヒースの頭脳を高く評価し、掃除係をやめさせ、事務職に移動させて取り立てた。当然給料も上がり、暮らし向きは前より楽になった。他に類を見ない出世だったため、年上の同僚や先輩からのやっかみも最初はあったが、次第に彼の才能を周りも認めるようになった。もっとも、いじめの類は慣れていたので彼にとっては取るに足らないことであったが。


ヒースは、異例の早さで出世を遂げ、気づけばビッグ・ロブの片腕と呼ばれる立場になっていた。10年未満でここまで出世するのは前代未聞だ。誰もがうらやむ状況だったが、この頃彼の心は空っぽになっていた。


長らく患っていた母が亡くなったのだ。いいアパートに引っ越し、栄養を付けさせ、質の高い医療を施したのに、冬の流行り病であっけなく死んでしまった。ヒースは心の支えを失い、抜け殻のようになっていた。


悪いことは続くものだ。偶然アップルシード村出身の人間に会い、そこでバイオレットの家が破産したことを聞かされた。男爵令嬢のバイオレットと、使用人の子供の自分が一緒になる夢物語は最初から描いてなかったが、それでも故郷に錦を飾る形で再会できればと淡い期待を持っていた。


何とかしてバイオレットを救いたい。母を失ったヒースには、それしか希望がなかった。この希望に縋らなければ自分まで駄目になってしまうような気がした。ビッグ・ロブが体調を崩すことが増えたのはその頃だ。マフィアにも睨みを効かせるほどの剛腕で鳴らしたビッグ・ロブも寄る年波には勝てなかった。


ある日、ヒースはビッグ・ロブに呼ばれた。そこでとんでもないことを言われた。


「おい、小僧。今から俺を殺せ」


いきなり何を言い出すのだ。ヒースは驚きの余り後ずさって「何馬鹿なことおっしゃるんですか!」と叫んだ。


「いいか、よく聞け。最近体調が芳しくないので、第一線から退く潮時と考え田舎に引っ込むことにした。そこでお前を後継者に任命しようと思う。経営手腕は既に申し分ない、が、いくら見た目が年齢不詳とは言え、まだ若いお前を見くびる輩が多いだろう。そのためエルドラドのオーナーにふさわしい箔をつけてやる。ミデオンの繁華街を牛耳るボスであるところのビッグ・ロブを葬ったという伝説を作れば、お前を畏怖して逆らう者はいなくなるだろう。いいか、何としてでもエルドラドを守り抜け。それがお前の使命だ」


ヒースは恐ろしさの余りがくがくと震え出した。余りにも突拍子もない。なぜオーナーになるために殺人者の汚名を着せられなければならないのか。理不尽すぎてそれだけは絶対いやですと固辞した。そんなことしたらもうバイオレットにも会えなくなる。しかし、そんな甘い考えをビッグ・ロブは一蹴した。元より勝ち目のない戦いだ。ヒースをここまで取り立ててくれたビッグ・ロブに逆らえるはずがないのだ。


そんな時、ある考えが閃いた。オーナーになれはバイオレットを救える。オーナーになれば多額の金を得るだけでなく人を動かせるだけの権力も手にすることができる。負債も返してやれるし彼女を元の順風満帆な人生に戻せるだろう。人殺しの汚名を着ればおめおめと彼女の前に姿を現せなくなるが、それが何だと言うのだ。元から一緒になるなんて絵空事だった。それなら自分のできることをするだけだ。


「分かりました。お受けします」


ヒースは、覚悟の据わった目をビッグ・ロブに向けた。それを見たビッグ・ロブは満面の笑みを浮かべた。


「よし、それでこそ俺が見込んだ男だ」


前々から用意周到に準備していたらしく、偽装工作は首尾よく進んだ。ビッグ・ロブを慕う者から報復されないかという懸念も事前に根回ししていたらしく心配なかった。その手際の良さはさすがビッグ・ロブという印象で、この人だけは絶対に敵に回したくないとヒースは心底恐ろしく思った。


かなり前からヒースは目を付けられていて、ビッグ・ロブのまな板の上に乗せられ調理されるのを待つだけだった。ヒースがどちらの選択をしても結論は同じだったのだ。


その後は、ヒースの演技力が試された。敵に回すと痛い目に遭うという印象を強く刻み込むように立ち回った。醜いと忌み嫌われてきたこの顔も、威嚇して恐怖感を与えるには好都合で、生まれて初めて役に立った。


バイオレットのことを調べるうち、彼女は邸宅を売らずホテルにすることで借金を返そうとしているようだった。そんな無茶なとヒースは頭を抱えたが、彼女は前向きに考えていると知って、ただ借金を返すよりホテル経営を後押ししてやろうと考えた。


エルドラドにいる優秀なスタッフを選りすぐってヘイワード・インに送り込んだ。ホテルを狙う輩がいると知れば攻撃材料を探して社会的な信用を失墜させることもした。トーマスたちからの報告でバイオレットの近況を知ることができた。それだけでは飽き足らず紳士を装ってバイオレットと直接文通もした。必要最低限のものしかない殺風景なアパートにはバイオレットの写真がたくさん飾られた。


どんなに心が荒んでも朗らかに笑う彼女の写真を見れば疲れが吹っ飛んだ。それでよかった。ヒースはそれで満足していた。

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