第37話 情けは人の為ならず

「シュミットさんがビッグ・ロブ? 一体どうなっているの? 訳が分からない」


バイオレットはうろたえて何も考えられなくなった。余りに気が動転して身体がふらつき、倒れそうになったところをヒースが支えて、ソファに座らせた。


「バイオレットさん、びっくりさせてすいません。本名はシュミットで合ってます。ここではずっとビッグ・ロブと呼ばれていましたが」


シュミット氏、いやビッグ・ロブは、ゆっくりとした足取りで部屋の中に入って来て、向かいのソファに腰を下ろした。隣には従者のコーエンがいた。


「昨日あなたからお話を伺って、うちの小僧が迷惑をかけたとピンと来ました。こんな偶然があるのかと驚きましたが、これも何かのお導きというやつでしょう。私も重い腰を上げる頃合いかなと思い、古巣に顔を出すことにしました」


「ビッグ・ロブ……これはどういう……」


混乱しているのはヒースも同じだった。なぜバイオレットとビッグ・ロブが顔見知りなのか、そこから分からなかった。


「このお嬢さんはな、俺の命の恩人なんだよ。自分の鞄が盗まれた時も、見ず知らずの俺が倒れたのを優先して病院まで付き添ってくれた。受けた恩にはきっちり報いるのがモットーなんだ」


バイオレットは恥ずかしそうに下を向いた。人として当たり前のことをしただけだから、そんなに褒められると照れくさくなってしまう。そんな彼女を、ヒースは熱い視線で見つめた。


「あなたは細部をぼかして説明したつもりでしょうが、うちの小僧の話をしていることはすぐに分かりました。カタギの世界から見たらおかしな話でしょうが、この世界では反社会的な方が一目置かれることがあるんですよ、まあ畏怖も多分に含まれてますが。しかし、こいつは見た目に反して小心者だから、せっかく優秀なのになめられてばかりいる。そんな頼りないガキではエルドラドを任せておけないから、少しテコ入れしたと、まあこんな訳です」


あっけらかんと言うビッグ・ロブをバイオレットは呆気にとられたまま見つめた。ここまで開き直られたら怒りも湧いてこない。


「しかし、あなたには迷惑をかけてしまった。好きな相手が人殺しかもしれないと思った時の苦しみは尋常じゃなかったでしょう。命を助けてくれた方にこんな苦しみを与えたと知った時は、私も自分のしたことを後悔した。どうか許してほしい」


ビッグ・ロブは正面からバイオレットに向き合い、頭を深く下げた。ヒースは誰も殺してない。それだけで十分だった。バイオレットは、今度は歓喜と安堵の涙を流しながらヒースの首に手を回して抱き着いた。


その時応接室のドアが大きな音を立てて開いた、ヒューゴ・ジョーダンが慌てて飛んできたのだ。少し後からウィルとアネッサも走ってやって来た。


「ビッグ・ロブ! あなた生きてたんですか……! じゃああの噂はやっぱり……」


「おう、誰かと思ったらヒューゴじゃねえか。しばらく見ないうちに随分偉そうになったな。見ての通りピンピンしてるよ。そんな訳で、胃薬を飲みながら汚れ仕事を一人で被る腑抜けのオーナーは今日でクビだ。明日からは俺が再就任する。いいな?」


ビッグ・ロブはとんでもない発言をした。もちろんみな腰を抜かさんばかりに仰天した。


「ちょっ……ボス、これはどういうことですか!?」


中でもヒューゴは仰天の余り、思わずヒースに食って掛かった。


「俺も分からない……一体何が起こったの?」


ヒースもすっかり毒気を抜かれて頓狂な声を上げた。バイオレットはそんな彼を激しく揺さぶった。


「やあね、ヒース。全てが終わったのよ。ヘイワード・インに帰れるのよ!」


「じゃあ……一緒に……?」


ヒースはまだ信じられないというように呆然としたままバイオレットに尋ねた。


「もちろんよ! 一緒に帰りましょう!」


バイオレットは歓喜の叫びを上げたが、それで終わりではなかった。ビッグ・ロブは新たな爆弾を用意していた。


「ああそうだ。言い忘れたが、ヘイワード・インと言ったかな、ホテルの名前は? 口座を調べさせてもらって、そちらが抱えている借金はこちらで清算しておいた。私とあろう者が鞄だけ返すはずがなかろう?」


今度はバイオレットが呆然とする番だった。


「そんな……それでは釣りあいが取れません! 病院に付き添っただけなのに過分すぎるお返しです! そんなことをしていただいたら私どうしていいか……」


「見返りなんて心配しなくていい。これは私の感謝の気持ちと迷惑料だ。なに、世に金は持っていけないからちょうどよかった」


すっかり慌てるバイオレットにビッグ・ロブはウィンクして見せた。


「それは自分がやろうと思ってたのに……先を越されてしまった……」


ヒースは自分がいいところを見せられるチャンスを取られてしまって、別の意味でショックを受けたようだ。


「悪かったな、小僧。こういうのは早くやったもん勝ちなんだよ」


それからのエルドラドは盆をひっくり返したような大騒ぎになった。死んだと噂されたビッグ・ロブが現れただけでも大事件なのに、突然のオーナー交代に上から下まで大混乱に陥った。


「待ってくださいよ。私はこんなの納得してません! ボス、どうか嘘と言ってください!」


中でも一番取り乱したのはヒューゴだった。彼はヒースのことを仕事面で評価していただけでなく、人柄含めて心酔していたようだ。だからバイオレットが現れた時、彼を取られるかもと人一倍警戒したのだろう。


ウィルとアネッサも同様に混乱していた。もっともこちらは、バイオレットにとって最高の結末になったことに対しては諸手を挙げて喜んだ。


「やったー! バイオレットおめでとう! こんな最高の結末になるなんて今日あなたが来たときは予想してなかったわ。ボスがいなくなっちゃうのは寂しいけど……でも幸せになるならそれでいい!」


「俺はこうなるんじゃないかとは思っていたけどね、あのボスが人殺しできる度胸なんか持ち合わせちゃいないと思ってたし。辛そうにしてたし、そろそろ潮時だったんじゃないの」


それからウィルはヘイワード・インに電話をかけた。


「おい、トーマス。これからボスがそっち行くんでよろしく。え? 何が起きたのかって? そんなの後で本人に聞けよ。あと、バイオレット嬢は運を引き寄せる名人だ。通りすがりの人には優しくな。そしたらお前もいいことがあるかもしれないぞ。じゃあな」


ウィルは、前にトーマスにされたことの意趣返しに、わざと情報を小出しにして相手を混乱させてやった。せいぜい苦しむがいいとほくそ笑みながら。


ヒースからビッグ・ロブへの業務の申し送りは何週間も時間をかけて行われた。5年分の申し送りだから前と変わってしまったこともたくさんある。ヒースが一手に担っていた借金の回収は、部下に仕事を割り振るしかなかった。


そこで、ヒースに背負わせていた負荷がどれだけ大きかったか初めて知る者もいた。改めて彼の業績が再評価され、ヒースは今まで周りが自分に従ってきたのは恐怖感ゆえと思っていたのが誤りだったことをようやく理解した。別に評価されなくてもいいと思っていたが、見てくれている人はちゃんといたのだ。これだけで十分だった。


ビッグ・ロブがオーナーに返り咲くことでヒースの重荷は取り除かれたが、一つだけ気になることがあった。


「あの、心臓で倒れたとバイオレットから聞きましたが、本当に大丈夫なんですか? もし大変ならしばらく補佐を——」


ヒースは、気づかわしげな表情をビッグ・ロブに向けた。体調が回復したと本人は言うが、5年前より明らかに年を取っている。無理をしてほしくないという気持ちがあった。


「お前はもう終わったんだから今後のことは心配しなくていいよ。俺もそう長くやるつもりはない。後継者の目星がついたところで譲るつもりだ。人材も育っているしな。そうだ、言い忘れたが——」


ビッグ・ロブは一旦言葉を切ってヒースを見つめた。


「今までよくやったな。ヒース・クロックフォード」


ヒースは初めてビッグ・ロブから名前を呼んでもらえたのだった。


**********


あれからヒースは前より忙しくなり、バイオレットとの時間も取りにくくなってしまったが、ふとした時にようやく二人だけの時間を確保できた。バイオレットは、ヒースのアパートに行きたがったが、ヒースは何かと理由を付けて入らせようとしなかった。


ようやく許しが出たので足を踏み入れた部屋は、予想していたのと違って散らかっているわけでもなく、むしろ殺風景なくらいに何もなかった。几帳面な性格らしく掃除も行き届いていた。ただ、部屋の壁に写真立てらしきものが掲示されていた跡がたくさん付いていたのが不思議だった。


「すごい、本がたくさん。いっぱい勉強したのね」


バイオレットは本棚に色んな種類の本がたくさん入っているのを見て感心した。


「う……うん……学校行ってないから自力で何とかしようと思って」


ヒースは自分の家にバイオレットがいるのが信じられなくてドキドキしていた。


「クラーク氏の手紙も知性と教養に溢れていたわ。高等教育を受けた身分の高い人が書いた文章だと思った」


「ああ、あれは……精いっぱい背伸びしたんだよ」


ヒースは恥ずかしそうに目を伏せた。あの手この手で策を弄してバイオレットに近づいていた頃のことはなるべく思い出したくない。


「あなたと一緒にヘイワード・インに帰れるなんて夢みたい……きっとみんなも一緒に喜んでくれるわ。でも……あなたはそれでいいの? 私のためにあなたは自分を犠牲にしたんじゃないかと心配しているの」


バイオレットはヒースに抱き着きながら不安な胸の内を吐露した。


「それは心配しなくていいよ……僕はバイオレットと一緒になるのが至上の喜びだから……こんな日が来るとは思ってなかったけど……正直怖いんだ、幸せになるのが。こんなに幸せでいいのかなって。またどん底に突き落とされるんじゃないかって不安になる」


ヒースは、彼女を抱きしめながらもその手は少し震えていた。


「じゃあ、少しずつ慣れていかなきゃね。まずはキスから」


バイオレットは少し背伸びをして、そっと触れるくらいの口づけをした。駄目だ、かわいい。かわいすぎる。ヒースの堤防はあっさり決壊した。彼はお返しに濃厚なキスをした。


「駄目だよ。いきなり幸せすぎてこれじゃリハビリにならない」


「リハビリじゃないわ。ショック療法よ。幸せのショック療法」


悪戯っぽく笑うバイオレットがまたかわいくて、ヒースは更にキスを繰り返した。それだけで済むはずもなく、すぐに寝室に移動したのは言うまでもない。


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