第34話 シュミット氏の助言

ふらふらした足取りでホテルに戻ったバイオレットは、着ていたものを無造作に床に脱ぎ捨てベッドに潜りこみ声を上げて泣いた。本当はこの部屋だってヒースとの思い出が染みついているから戻って来たくはなかった。でも、他に泣ける場所なんてない。頭からすっぽり布団を被り、音が外に漏れないようにしたが、声まで忍ばせるのは無理だった。


ぐちゃぐちゃになった感情が次から次へと溢れて自分でも収拾がつかず、どうしていいか分からない。涙が枯れたと思っても、しばらくするとまだ泣けてきて永遠に泣き続けるんじゃないかと思った。


初めてヒースを怖いと思った。これまで周りの人間がどんなに彼の悪評を吹聴しようが、バイオレットだけは彼を信じて来た。それこそ子供時代からだ。見た目が怖くて愛想も悪いから誤解されやすいが、本当は誰よりもナイーブで優しい心を持っているのだと。


それが、生まれて初めて自分から彼を遠ざけた。得体の知れない恐怖は一気に彼女を襲った。一度染みついた汚れがなかなか落ちないのと同じように、一度恐怖感を覚えてしまったらもう覆せなくなったのだ。


それより怖かったのが手のひらを返すような自分の心境の変化だった。世界の誰もがヒースの敵に回っても自分だけは彼の味方でいるつもりだったのに、余りの変わり身の早さに自分が信じられなくなった。彼が即座に否定してそれで終わりだと思っていたのに、現実は残酷だった。その時点で彼女が全幅の信頼を寄せていた世界はガラガラと崩れ去ったのだ。


(このままここにいても仕方ない……ヘイワード・インに戻るしかない。でもどんな顔してみんなに会えばいいんだろう……ヒースのいない世界なんて何の価値もないのに)


罪を犯したのなら警察に行って罪を償ってと言えばいいのか。しかし証拠がないのだ。ただの噂かもしれない。それならなぜ彼は否定しないのか。バイオレットの思考はぐるぐると堂々巡りしていた。


誰かに相談したかったが、母はまだ家に戻って来ないし他に誰もいない。唯一思い当たったのが、病院まで付き添ったシュミット氏だ。彼は「落ち着いたら家においで」と言っていた。見ず知らずの他人に相談できる内容ではなかったが、故郷へ戻る前に彼のところへ挨拶に行こうと思った。


翌日、腫れぼったいまぶたを何とか化粧で隠そうと格闘したバイオレットは、シュミット氏の自宅へと向かった。母が言ったように高級住宅街の一角に住まいはあった。母のアパートもそれなりに高級だったが、シュミット氏のはそれより一段階上といった印象だった。この辺の家賃が払えれば、田舎の立派な邸宅も簡単に買えそうな気がした。


バイオレットは緊張しながら家のベルを押した。するとすぐに従者のコーエンが出てきた。コーエンは、バイオレットの外見が変化しているのに驚いただろうが、よく訓練された従者らしくそんな素振りはおくびにも出さず、すぐに彼女と認識して家に招き入れた。


シュミット氏は顔色もよく元気そうだった。バイオレットを目にした瞬間恰幅のいい身体を揺らし、嬉しそうに両手を広げ歓待した。


「よく来てくださった。またお会いできて嬉しいです。先日は本当にありがとうございました。あなたは命の恩人と言っても過言ではない」


シュミット氏に過分に褒められてバイオレットは恐縮した。一人にならないように付き添いをしただけだから命の恩人というほどではない。でも、心が弱っている今、自分に好意的な人がいてくれるのは大いに慰められた。


「お招きしておいて、まだ部屋が片付いてないのをお許しください。実は、ここには最近引っ越してきたばかりなんです。しばらく田舎に引っ込んで悠々自適な生活を送っていたんですが、どうも田舎の生活はのんびりすぎて性に合わなくて。ミデオンの喧騒が懐かしくなって戻って来たという次第です」


周りを見ると、確かに未開封の箱が部屋の隅に積まれていた。とはいえ、家具や調度品は備え付けなのでそれほど乱雑は印象は受けなかった。


「実は、あなたが来て下さらなかったらどうしようと思っていたんです。あなたの連絡先を聞いておけばよかったと後悔しました。というのも、これをお渡ししたかったので」


シュミット氏は少し離れたところにある丸テーブルを指した。何とそこには、バイオレットの盗まれた鞄が置いてあったのだ。


「なんでここに……!? もしかして取り戻してくださったんですか?」


取り戻すなんて不可能だと思っていたが、それ以上に倒れる直前にバイオレットの鞄が盗まれたのをちゃんと覚えていたことも驚きだった。


「本来なら、あなたはこの鞄を追いかけたかったはずだ。それなのに最悪のタイミングで私が倒れたせいで、鞄を犠牲にして私を優先してくれた。その思いに報いたくて、人を使って探させたのです。お金は戻って来なくても、運が良ければ鞄はその辺に捨てられているかもしれないと思って。紫のスカーフが結んであるこげ茶色のミニダレスバッグというのは覚えてました。カフェの数ブロック先で見つけたのです」


バイオレットが床に置いていた鞄の特徴を覚えており、更に人を使って探させる行動力まで備えているこの老人が、バイオレットは空恐ろしくさえ思えた。見た目は老けているがかなりの切れ者である。シュミット氏は何をしている人なのだろうと不思議でならなかった。


バイオレットはおずおずと鞄に近づき、中身を開けた。予想通り財布は抜かれていたが、それ以外の物は無事だった。一番気がかりだったラベンダーのハンドクリームもそっくりそのまま残っていた。


「よかった……!神様ありがとうございます!」


バイオレットはハンドクリームを胸に抱いてそう呟くと、シュミット氏の方を向き言葉を尽くしてお礼を言った。他のものには頓着せずハンドクリームだけを大事そうに抱えるバイオレットを見て、シュミット氏は不思議な表情を浮かべた。


「見たところ普通の化粧品に見えるが、盗まれた財布より大事なものなんですか?」


「ええ、大事な人がくれたプレゼントなんです。これだけは絶対に手元に戻しておきたかった。本当に感謝しています」


バイオレットはそう言うと、ヒースのことをまた思い出してしまい涙が出そうになった。今は他人の前だから人前で泣くなんてできないのに、気持ちが高ぶってしまったのだ。バイオレットは慌てて背を向けてさっと涙をぬぐい、シュミット氏に向き直った。


「あなたがそこまで喜んでくれてよかった。こちらも探した甲斐がありました。それの送り主は相当大事な人らしいが、もしかしてミデオンに来てまで会おうとした友人と同一人物ですかな?」


勘のいいシュミット氏なら簡単にたどりつく答えだろう。バイオレットは素直に認めた。


「実はそうなんです。滞在中に会うことはできたんですけど、その……」


駄目だ。また思い出してしまう。とうとうバイオレットはあふれる涙を抑えることができなくなった。


「ごめんなさい、みっともない姿を見せてしまって。優しくされると気持ちが緩んでしまうんです。独りぼっちだから誰かに話を聞いてもらいたくて……」


シュミット氏は、そんなバイオレットに引くことなく、優しい眼差しを向けたままだった。


「こんな老いぼれでも役に立つことがあれば話を聞きましょう。あなたが望むならば」


もちろん話の核心まで説明することはできなかったが、所々話をぼかして大筋は伝えた。話があっちに行ったりこっちに行ったり要領を得なかったが、シュミット氏は熱心に耳を傾けてくれた。


「すると、使用人の息子だった彼が出世してカジノのオーナーになり、没落したあなたを救ってくれた。それが最近分かって色々誤解を乗り越えて二人は結ばれた。でも彼は犯罪者だとあなたは疑っているということですか?」


「分からないんです。否定も肯定もしないと言うだけで。やってないなら否定すればいいだけなのにそうできないということは、何かのっぴきならない理由があるとしか思えないんです。でもそれ以上踏み込むのが怖い。もっと恐ろしいものが出てきそうで怖いんです」


バイオレットははらはらと涙を流した。現実と向き合わなければとは考えるが、それは余りにも過酷で身を切られる思いがした。一度頂点を味わってしまった後の地獄は、何も知らなかった頃に比べて遥かに辛い。これなら何も知らないまま故郷にいる方がよかったのかもしれない。


「彼を信じたい。でも信じきれない。彼を信じられない自分も大嫌い。もう全てがめちゃくちゃなんです」


シュミット氏は辛抱強くバイオレットの話を聞いていた。彼は一通り聞き終わると、手元の紅茶を一杯口に含み、少し逡巡したあと口を開いた。


「事態がはっきりしない以上彼を信じきれないというのも仕方ない。そんなにご自身を責めなさんな。ただ、宙ぶらりんの気持ちのまま故郷に帰るわけにもいかないだろう。もう一度彼と話をしなさい」


バイオレットは泣き腫らした目をシュミット氏に向けた。


「なるべく早い方がいい。明日には行きなさい。彼の気持ちをもう一度聞くのです。彼と話をするうちにあなたの考えもまとまるかもしれない。あなたに拒絶されたままでは彼も浮かぶ瀬がないでしょう」


一度口を開いたシュミット氏は、はっきりした口調でバイオレットに伝えた。その確固たる態度にバイオレットは圧倒された。


「は、はい。分かりました。おっしゃる通りにします」


バイオレットはそれだけ言うのがやっとだった。確かにシュミット氏の言う通りだ。ヒースを拒み続けたところで良心の呵責にさいなまれるだけだし、何の進展もない。もう一度彼に対峙しなければならない。そして、決別する道しか残されてないのならその運命を潔く受け入れよう。


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