第29話 再会、再び
ドアの向こうでドタドタドタッと音がして何やら言い合う声が聞こえる。アネッサは怪訝な表情をドアの方に向け、バイオレットは何が起きているのだろうと身体をこわばらせた。
やがてドアが開き、ヒースが姿を現した。ヘイワード・インに来るときは、いつもくたびれた服装だったが、それは正体を悟られないようにするためのカモフラージュということが分かった。
中折れ帽を被り仕立てのいいグレーのスーツを着たその姿は、確かにカジノのオーナーにふさわしい格好と言えた。街を歩くビジネスマンとも微妙に違うその粋な着こなしにバイオレットは目を見張った。彼はいつも自分を卑下するが、なかなかどうして彼女の目には格好よく映る、確かに田舎では目立つかもしれないが、今までこの姿を見ることができなかったのが少々悔しかった。
「バ……バイオレット……」
ヒースはそれきり言うと絶句してしまった。バイオレットは何か言わなくてはと慌てて立ち上がった。
「せ、先日はあんな別れ方をしてごめんなさい。あれから頭を冷やしたくて少し家を離れていたの。それでもう一回あなたと話がしたくて……」
バイオレットの言葉が周りにいる人間にはどう聞こえるか意識したら、ヒースは顔が真っ赤になった。咄嗟に傍にいたウィルとアネッサに「二人だけにしてくれ。ここには誰も入れるな。それから今日の予定は皆キャンセルだ」と伝えた。
ウィルもアネッサもヒースの意図をすぐに察知して何も言わず部屋を出て行った。アネッサは、バイオレットの横を通り過ぎる時に「頑張ってね」とでも言いたげに背中をぽんと叩いた。
執務室には、ヒースとバイオレットだけが残された。二人ともしばらく立ち尽くしていたが、ヒースはふと我に返り、「す……座って」とバイオレットに言って自分も隣に腰を下ろした。
腰を下ろしたものの、バイオレットから視線を外し、思いつめた表情のまま何も言わない。とうとうしびれを切らしたバイオレットが口を開いた。
「……何から話せばいいのか分からないけど……ここに来る前にロナンとお付き合いを解消してきたの。自分の心に嘘はつけないと思って全部白紙に戻したわ」
それを聞いたヒースは愕然として顔を上げた。
「どうして!? ロナンは本当に君のこと愛していたんだよ!? 彼なら絶対に幸せにできるはずなのに?」
「だから言ったでしょ。何が幸せかは私が決めるって。私が一緒にいたい人はロナンではないの。一緒にいたいのは……」
バイオレットはそう言うと、ヒースを真正面から見つめた。ヒースは、これ以上赤くなりようがないほど頬を紅潮させた。
「……それができないからロナンに託すんだろう……カジノは大人の社交場だけど、金が絡む以上悪い輩も出入りする。何も知らないカモに金を吐かせてその上借金までさせて、利子を吊り上げて何倍にもして返してもらう。現金が用意できなければ財産を没収する。その回収を請け負うのが自分の役割だ。決してきれいな仕事じゃないんだよ。こんな男君にはふさわしくない」
ヒースは肩をがっくり落として言った。ここまで打ちひしがれる姿は、ウィルやアネッサの前でも見せたことがない。普段は虚勢を張っているが、楽しいと思ったことは一度もなかった。バイオレットはそれを見て何と声をかければいいのか咄嗟に思いつかなかった。彼は自分を低く見積もりすぎだ。もっと自分を肯定してほしい。考えに考えた挙句、一つ一つ言葉を紡ぐように答えた。
「さっきあなたが来る前に、スタッフの中でも優秀な人を選んでホテルに派遣してくれたとウィルが話してくれたの。確かにトーマスも、マーサも、ジョーイも、ジムもみんな仕事ができるだけでなく、家族みたいにいい人たちだわ。それを教えてくれたウィルもあなたに心酔しているようだった。価値のない人間にこれだけの人が集まると思う? あなたは自分を貶めているけど、周りの人は慕ってくれているみたいよ?」
ヒースは顔を上げて縋るようにバイオレットを見つめた。
「人に誇れない仕事でも生きていくために必要だったんでしょう? 子供の頃からこの世界はあなたにとって厳しかった、誰も助けてくれなかったのよね。頑張って生き延びたから今こうして再会できた。こんな嬉しいことはないわ」
話しているうちにだんだん涙がこみあげてバイオレットの声もかすれてきた。
「それに、あなたがいなければ私はとっくに駄目になっていた。少なくとも私にとってはあなたはかげがえのない人なの。だから自分を卑下しないで。まっすぐ顔を上げて」
そう言うとバイオレットはにっこり笑い、両手でヒースの顔を包みこんだ。ヒースは無表情のまま自分の手をバイオレットの手に添えた。そして次の瞬間彼女を力の限り抱きしめた。
「ごめん、しばらくこのままでいい?」
耳元で囁く声は微かに震えていた。
「いいよ」
バイオレットが優しく返すと、抱きしめる手に力がこもった。身体がきしみ息が苦しくなるほどだ。ヒースは、声だけでなく体も小刻みに震え出した。
「15年前に別れてからずっと会いたかった。会いたい一心で色んな仕事に就いたけど、どこも長続きしなかった。母が倒れて二人分働かなくてはいけなくなった頃にカジノに勤め始めた。今までどこでも忌み嫌われていたのに、なぜかこの業界では受け入れられた。そして色々あって今の地位に就いた。でもその頃にはもう君に会えるとは思ってなかった。会ったら歯止めが効かなくなる。でも君には日の当たる道を歩いて欲しかったから……」
ヒースはここまで一気にまくしたてると一息ついた。
「5年前、ヘイワード家が破産したと聞いた時、真っ先に君のことが頭に浮かんだ。すぐに飛んで行きたかったけどそれだけは駄目だと自分を戒めた。代わりにホテルへの援助を陰ながら始めた。それで自分がやっていることの罪滅ぼしをしているつもりだった。だから全て僕の自己満足だ。でも結果的に君のプライドを傷つけてしまった……本当にごめん……」
言い終わる頃にはヒースの声はくぐもっていた。バイオレットはそんな彼を励ますために声を張った。
「なんで謝るの? 私がお礼を言うことはあっても、あなたが謝る必要なんてこれっぽちもないのよ? 確かに最初聞いた時はショックだったけど、家を離れて新しい経験をするうちにだんだん気持ちが変わってきたの。私のしたことには変わりないって。ちゃんと胸を張っていいんだって。さっきも、アネッサに自己紹介する時、『ホテルを経営しています』って言ったの。ただのバイオレット・ヘイワードじゃない。私にはホテルがあるんだ、ってその時思えた。あなたが私にくれた勲章よ」
バイオレットは泣き笑いの表情になっていた。ヒースは耳を傾けている間、ずっと抱きしめ続け少しも力を緩めることはなかった。まるで、今まで我慢していた分を取り戻すかのようだった。
「それなら君は僕の太陽だ。隠れている夜の間も月を輝かす程の光を放っている。どん底にいても這い上がれたのは君がいたから。どんな形でもいいから君が幸せでいてくれることが僕の幸せにもなる」
「それなら一緒にいようと言って。それが私の幸せなの」
バイオレットはヒースの抱擁から身体を離し、彼に向き直った。もう逃がさない。ヒースが何を言おうが、彼のそばから離れるつもりはなかった。ヒースは困惑顔でバイオレットを見つめた。しばらく思案していたが、意外なことを言いだした。
「…………ごめん。変な話だけど、余りに不幸に慣れ過ぎてしまって身に余る幸福を受け入れられるだけの心の準備がないんだ。我慢するのは平気だけど、幸せになるのが怖い。君に受け入れられるなんて思ってなかったから、情けないけど正直どうしていいか分からない」
彼は本当に困っているようだった。幸せをつかむことすら躊躇するなんて、この人は今までどんな経験をしてきたのだろう。バイオレットは一瞬泣きそうになったが、気分を切り替え努めて明るい声を出した。
「それなら今日一日私に付き合って」
ヒースは目を大きく見開いてバイオレットを見つめた。
「私にミデオンを紹介して。病院に付き添ったりスリに遭ったり散々な目に遭って、まだ観光をしてないの。あなたなら詳しいから案内できるでしょ。初めてのデートでだんだん慣らしていきましょ。ねえ、お願い」
バイオレットに甘えた声でねだられることなど今までになかったので、ヒースは耳まで真っ赤になってしまった。こんなお願いの仕方をされたら断れるはずがない。今日はもうスケジュールを白紙にしたので、承諾する以外の答えはなかった。
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