没落令嬢の細腕繁盛記~こじらせ幼馴染が仲間になりたそうにこちらを見ています~
雑食ハラミ
第1話 嵐の前の静けさ
バイオレット・ヘイワードは男爵令嬢である、一応。子供の頃は多数の使用人を抱え、蝶よ花よと大切に育てられた。その令嬢は今、自宅を改装したホテル「ヘイワード・イン」で身を粉にして働いている。折しも、夕食に提供するはずの魚が発注ミスで昼過ぎになっても届かず、どうしようと焦っているところだった。ラジオでは、これから10年に一度の嵐がやってくると言うのに、そちらの準備もしなければならず、猫の手も借りたい状態だった。
「備品のチェックはこちらでやっておくので、お嬢様は夕食の準備の方をお願いします」
従業員のトーマスが小走りで駆け寄って来て声をかけた。バイオレットは小声でお礼を言うと厨房へと向かった。厨房ではコックのジムが頭を抱えていた。
「くそう……これじゃ魚料理は半分しかできない……足りない分を何かで補わないと」
「こないだの干し肉がまだ余っていたわよね? それを使ってもう一品作れない? それか選択メニューにするとか?」
「それで乗り切るしかないな……! ちょっと貯蔵庫見てきます」
ジムは貯蔵庫のカギを持って厨房を出て行った。すると、入れ替わるように今度は父のチャーリーが入って来た。恰幅がよく大柄な父だが、なぜか身体を丸めてもじもじしている。こういう時の父が何を言い出すか、今までの経験から大体の見当がついた。
「バイオレット、ここにいたのか。今度また限定品が発売されるんだが、お小遣いだけでは足りないから、その……ちょっと、少しだけ……」
「今月は鶏小屋の拡張をしなきゃならないからそんなお金ないの。さあさあどいて」
バイオレットは足早に去り、後にはしょんぼりうなだれるチャーリーだけが残された。父のチャーリーは男爵である、一応。元々田舎の貧乏貴族で、何とかごまかしながらやってきたが、とうとう5年前に破産して領地の殆どを失い、経営権も返上した。残ったのは名ばかりの爵位と大量の借金だけだった。
本当はこの家も売って借家に引っ越すはずだったが、屋敷に愛着のあるバイオレットが猛反対して、自宅をホテルに改装して経営することを提案した。気が弱く優しい父は、バイオレットを手伝うと言ってくれたが、ティーカップ収集癖があり浪費をやめられず、バイオレットの頭痛の種となっていた。
父とバイオレットと、住み込みの従業員を複数雇い、更に近隣のアップルシード村から何人か通いで来てもらって切り盛りしている。ヘイワード家の邸宅は、貴族の家というにはかなり小さい方だが歴史的価値は高かった。だから、裕福な中流以上の客が田舎の別荘感覚でしばらく滞在することが多い。また、交通の要所でもあるので旅人向けに安い部屋も提供していた。
紆余曲折はあったが、今のところは安定して経営できている。それでも借金を返さないといけないので、楽な生活とは言い難がった。バイオレットは自分がやりたいと言った以上、どんな雑用でも自ら率先して朝から晩まで働き詰めた。
そんな毎日を送っているうちに25歳になり、一般的には行き遅れとされる年齢になった。とはいえ、キャラメル色の髪とすみれ色の目のお陰でぱっと明るい印象を周りに抱かせ、見た目は若く見られることも多い。着飾ればそれなりに美しいに姿になるだろうが、残念ながらそんな余裕はなかった。当然、年頃の娘がするようなおしゃれとも無縁だが不平不満は言わなかった。辛いことも多かったが、自分の力で道を切り開ける充実感を覚えていた。ただの貴族令嬢として誰かに嫁ぐだけの人生では持つことができなかったプライドがあった。
「それにしても、大丈夫ですかねえ、この天気。予報では大雨が来るらしいけどこの辺はどうなんでしょうか?」
食堂の片づけを終えたトーマスがエプロンで手を拭きながら言った。
「この辺りは元々自然災害とは無縁の土地だけど。でも何かあったら予約してない人が泊まりに来るかもね」
「通いの者たちが帰ったあとでよかったですね。降り出す前に無事帰宅できればいいんだが」
通いの従業員を既に帰したのは幸いだった。バイオレットのホテルは、人通りの多い街道のすぐそばにあり、旅人にとっては便利な場所だった。競合する宿が少ないため、仮に災害が起きたらここに一極集中するかもしれない。普段は穏やかな気候のため、今までそんな心配をしたことはなかったが、バイオレットはにわかに不安になった。
「ただいま戻りました。空模様が怪しくて今にも降り出しそうですよ。風もビュービュー吹いてます」
そう言って玄関を入って来たのは、従業員のマーサだった。東の大きな町に行って買い出しを終えてきたところだった。
「偶然知り合いに会ってこの近くまで乗せてもらったんですが、ラジオによると10年に一度の大嵐ですって。私がここに来てからそんなひどいのは聞いたことないです」
「天気予報なんて当たるかどうか分からねえが、一応窓に板打ち付けといた方がいいかな? そんなことしたら長逗留客から苦情来るかな?」
そう言って顔を出したのはジョーイだった。トーマス、マーサ、ジョーイ、そしてコックのジムは住み込みで働いてくれている従業員だ。彼らはみな一様に仕事ができて都会ならもっと条件のいいところで働けると思うのだが、なぜこんな田舎のホテルに甘んじているのか不思議になることがあった。
「そうね。確かにいつもと違うみたいだから頼もうかしら。一度壊れたら直すのが大変だし」
バイオレットは一通り指示を出して、つかの間だけでも部屋で休憩を取ろうとしたら、スイートに宿泊している客がぷりぷり怒りながらやって来た。
「せっかくここに静養に来たのに嵐が来るなんて最悪だわ。この建物は大丈夫なの?」
「400年も持っているのだから心配することはありませんわ。嵐が来てもお客様の安全を最優先しますのでご安心ください」
「雨漏りして荷物が駄目になったら弁償してもらいますからね。こういうのは先に言っておくわよ!」
バイオレットは言葉を尽くして何とかなだめすかせた。相手は裕福な商家の夫人だった。バイオレットの方が階級は上なのだが、そんなことにこだわっていては客商売はできない。実際、落ちぶれて平民同然に働く彼女を嗤う者もいたが、本人は、周囲の雑音に惑わされず黙々と働いていた。
そんな彼女を支えているのは一通の手紙だった。姿形も知らない謎の人物から、ホテルを始めて間もない頃から毎月一回手紙が届く。内容は他愛のない物だったが、バイオレットを気遣う優しさに溢れており、いつしか彼女の心の支えとなっていた。宛名は「J.H.クラーク」としか書いておらず、さっぱり見当がつかなかった。過去にこのホテルに泊まったらしいが、過去の台帳を見てもそのような名前はない。バイオレットはクラーク氏を裕福な中高年の紳士と想像していた。落ち着いた文体からは、高い知性や年長者の余裕がにじみ出ていた。
(さっき届いたばかりの手紙……読む暇あるかな)
普段なら、新しい客がやって来るまでの時間に少し部屋で休む余裕ができるはずだった。しかし、今日はこれから起こる嵐の備えをしなくてはならない。大した嵐でなければ心配することはないが、わざわざ天気予報で10年に1度と言っているのだから、ここは素直に従っておくべきだろう。バイオレットはクラーク氏の手紙をエプロンのポケットにしまった。
「お嬢様、あのスイートの客に何か言われました? 朝もジムの作ったオムレツに文句言ってました。ジムの料理の良さを分からない客の言うことなんて気にすることないですよ」
従業員控室でマーサは気遣うようにバイオレットに言った。もっともあの手の客は、トーマスやマーサのような口が立つ相手には却って下手に出る。だからバイオレットはよくターゲットにされやすいのだが、いざとなったら変な客に絡まれている彼女を授業員たちが助けることもあった。
「大丈夫よ。別に変なこと言われなかったし。それよりそろそろ降り出したみたい。音が聞こえて来たわ」
窓の外を見ると既に外は真っ黒な雲に覆われて夜のように暗くなっている。ちょうどその時、ぽつん、ぽつんと大粒の雨粒が地面を染め上げるように落ちてきた。
「お嬢様、雨が降り出しました。ジョーイはもう少しかかるそうです」
「余り無理しないように言ってね。振り始めからすごいわね……すぐに止んでくれるかしら」
バイオレットは、あっという間に大きな音を立ててざあざあ雨が降り出した外を見やり、独り言のように呟いた。
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