第2話 これからが本当の嵐

降り出した雨はあっという間に地面をえぐるかと思うほどに強くなった。窓に振りつける雨粒の音の大きさからもその威力が伺える。窓に板を打ち付ける作業が終わり、既にずぶ濡れになったジョーイが建物の中に慌てて入って来た。


「ジョーイお疲れ様。風邪を引くから着替えてきて。お客様のほうはどうかしら」


「この天気で到着が遅れているようです。いつもこの時間なら既に着いている方が多いですが」


トーマスが時計を見ながら言った。確かにいつもに比べて人がまばらだ。ごうごうと風がうなる音が聞こえる。家が持っていかれるかと思うほどの嵐だ。


「もしかしたら発注ミスは気にすることなかったかもね。お客さんが来れないのなら食材も余るわ」


しかし、それは甘い考えだった。川が増水して橋が通行止めになったせいで、向こう岸に渡れなくなった旅人がUターンしてこのホテルに避難してきたのだ。こんな大嵐の中断るわけにいかない。みんな受け入れているうちに部屋はいっぱいになり、普段客室としては使わない応接室や図書室などの部屋にも人を入れて床に雑魚寝させざるを得ない事態になった。元々狭いホテルで収容人数が少ないため、このような非常事態には大変弱かった。


「これではまるで避難所ね。部屋に入れないお客様もベッドは無理でも食べ物は提供しなくてはいけないわ。ジム、貯蔵庫の食糧を持ってきて。マーサ、床に敷くバスタオルをみんなに配ってあげて」


「でも、そうするとタオルの備蓄がなくなってしまいます! みな泥だらけだし洗っても再利用できるか——」


「この状況なら仕方ないわ。床にじかに寝かせるわけにはいかないもの——」


背に腹は代えられなかった。嵐を逃れてここにやって来た人全員を助けるしかない。バイオレットはすっかり様変わりしたホテルを見て、今までにない光景に青ざめながらも腹をくくるしかなかった。


「バイオレット、これはどうしたもんかね。私にもできることがあれば?」


さすがにただ事でないことに気付いたチャーリーが部屋から出てきて、バイオレットに尋ねた。


「お父様はこのパンを避難している人に配って下さい。床が濡れているので滑らないように気を付けて」


外からはゴーッ、ゴーッという音がする。建物の中は人がいっぱいなのに、たくさんの人の声をかき消すかのような轟音に、みな恐れおののいた。ラジオではここの近くの川が氾濫して付近の住民が避難したと報じられていた。取引している業者も確かその近くにあったはずだ。これでは復興までに時間がかかるかもしれない。ホテル自体は無事でも、すぐに通常通りの営業に戻れるとは思えなかった。


「この分だと停電するかもな……」


トーマスが呟いたちょうどその時、彼の言葉を裏付けるかのように、明かりがパチパチとまたたいた。停電の前兆だとみなざわざわする。しばらくその状態が続いたのち本当に明かりが消えた。辺りは真っ暗になり、ラジオの音も途絶えた。


「やれやれ、本当に消えちまったな。すぐには復旧しないだろう。使わなくなったランプを総動員しよう。あと、そろそろ夜中だからお嬢様は休んでください」


「何言ってるの? こんな状況で休めるわけないじゃないの。まだ起きてるわよ」


「しかし、朝になれば終わりじゃないんだ。これは長期戦になる。先に身体が参っちまうぞ。この中で一番体力ないのはお嬢様なんだから、指揮官のあんたに倒れられたら困るんだ。精神論では何にも解決しない」


確かにトーマスの言う通りだ。バイオレットは役に立たない自分がふがいなかった。5年も経つのにまだ半人前という意識が抜けない。自分が倒れてもトーマスが優秀なのだから別に影響ないのではと思ってしまった。


トーマスは30過ぎの青年で、ホテル創業時から働いている。ホテル経営のイロハも分からなかったバイオレットに帳簿のつけ方から銀食器の磨き方まで手取り足取り教えてくれた先輩格の従業員でもあった。元々貴族の邸宅に勤めていたが町で働こうと思い、職探しの旅に出ていたらしい。前の主人からの立派な推薦状もあった。トーマスは、その推薦状を持って大都市に行く途中、トラブルに見舞われて一夜の宿を求めにここに来た。ちょうどその時ホテルを開業しようとしていたバイオレットは、ここで働いて欲しいとスカウトしたのだ。


コックのジムを引き抜いたのもトーマスだった。ジムは、元々は都会の高級ホテルで腕を振るっていたが、田舎でのんびり働きたいと思っていたところにトーマスが声をかけた。


ふらふらと自分の部屋に戻ったバイオレットは、ごろんとベッドに横になった。元々の自分の部屋は客室にしてしまったため、現在は使用人室より少しましな程度の部屋だがそれでも彼女の城だった。夕方以降座る時間もろくになかったため腰が痛い。ふと、ポケットにクラーク氏からの手紙を入れたままだったことを思い出した。もう一度起き上がるのもおっくうだったが、何とか身を起こしてお気に入りのペーパーナイフで丁寧に封を切る。手紙を開けると微かにラベンダーの香りがして疲れ切っていたバイオレットを癒した。クラーク氏はいつもこの便箋で手紙を送ってくれるのだ。


「親愛なるバイオレット嬢、いかがお過ごしでしょうか。そちらはラベンダーの花が咲き誇る頃合いだと思います。毎日お忙しい日々のなか、花を見るだけの心の余裕があればと願っております。私の方も今年こそ伺いたいと思いつつも、仕事に忙殺され過去の思い出に浸ることしかできません。あの時頂いたチェリーパイは故郷を思い出す忘れがたい味です。ヘイワード・インを再訪できる夢を糧にまた今日も頑張って行こうと思います。では、次の手紙までお元気で。J.H.クラーク」


クラーク氏の言葉にはいつも励まされる。特に今回のような異常事態においては、一言一句心に染み渡った。今まで彼に勇気づけられたのは数知れない。クラーク氏はどんな人なんだろう、いつか会いたいといういつもの思考パターンになってきたころは既に瞼が閉じていた。


はっとして時計を見たら6時近かった。いつの間にこんなに寝てしまったのだろう。バイオレットは慌てて飛び起きて仕事場に戻った。


「ごめんなさい。偉そうなこと言っといて寝坊するなんて」


「いいんですよ。私たちはお嬢様より丈夫にできているので心配ありません。交代で休みを取ってたし」


マーサはそう言ってくれたが、申し訳なさの余りバイオレットは恥ずかしそうに下を向いた。従業員たちも昨日の疲れが残っているだろうに、早朝からきびきびと動いている。


マーサは20代後半で、ぱっと目を引く容貌をしており、いつもちゃきちゃきしている。実際、仕事ができて頭の回転も早い。トーマスだけでは人手が足りなくなって、4年前に募集をかけた時、面接にやって来たうちの一人だった。トーマスが強く推薦したのもあるが、そうでなくても満場一致で選ばれた。


いつも建物の補修や庭の手入れなど外回りの仕事を請け負うジョーイも、今朝は彼らの補佐に回っていた。ジョーイは復員兵だったが、足を痛めて働き口がなかったところをマーサと同時期に雇われた。仕事ぶりは真面目で、畑違いの分野でもあっという間に習得してしまい自分の物にしてしまう優秀さは特筆すべきものがあった。


「ほら、そんなところで小さくなってないで。嵐が止んだよ。外を見てごらん」


ジョーイに言われて窓に目を向けると、空はすっかり静かになっていた。東の空が眩しい。待ち望んでいた太陽が顔を見せたのだ。雨風が空気中のゴミも洗い流してくれたお影でいつもより遠くまで景色が見渡せ、水滴に反射した光がキラキラ輝き、空気も澄んでいた。しかし辺りを見ると、地面は足の踏み場もないほどぬかるんでおり、折れた木の枝や葉っぱやどこからか飛んできたゴミなどが散乱している。もっと先では水害で大変なことになっているのだろう。バイオレットはこれからが本番だという予感が間違ってなかったことを実感した。


「おはよう、バイオレット。朝食を準備していたところだよ。この分では数日帰れない者も出てくるだろう。何とか持たせられるようにするよ。粗末なものになっちまうけど我慢してもらうしかない」


ジムは既に厨房で忙しく働いていた。いつもより多めの数を用意しなければならないので、早めに準備していたのだろう。鍋からはぐつぐつとスープの煮える音がする。


やがて朝食の時間になり、宿泊客たちに食事を配った。食事を終えた者のうち、帰れそうな者はホテルを去ったが、まだ半分ほどが残っていた。時間が経って周囲の被害状況がだんだん分かって来た。勾配が低いところにあるアップルシード村は民家の多くが浸水し、家に戻れない者が続出しているという。


また、ここから少し離れたところにある、東の大きな町へ続く橋は復旧の見通しが立たず、そこを通らずに向こう岸に行くには北の山地を大きく迂回しなければならない。橋の復旧が先か迂回した方が早いか、まだ事態は読めずにいた。


ジョーイは嵐で損傷したところを補修し、バイオレットとマーサは汚れ物をできるだけ洗濯した。トーマスは、人がごった返す館内をできるだけ清掃して泥水を洗い落とした。チャーリーも外に散乱した木の枝やゴミを拾って集めたり、自前の畑を見て回った。


足止めを食らって終わりの見えない生活を送っていると人々も心身に不調をきたしてくる。宿泊者同士でトラブルになったり、体調不良の者が出てベッドを譲ってほしいと宿泊客にお願いするも反発されたり、そんな心労も重なった。


夜になり、その日も働き詰めだったバイオレットはふと気が抜けてうとうとしていた。そこへ「ちょっといいですか、お嬢様」とジムがやって来て目を覚ました。


「このままですと、3日で貯蔵庫が底を尽きます」


「そんな……3日後じゃまだ全員帰れないわ。何とかならないの?」


「卵はうちで生産できるのでそれを活用すれば何とか。栄養は偏りますが、調理法で工夫すればごまかせるかもしれません」


「お願い。無理を言って悪いけど、あと1週間は持たせたいの」


ジムの苦しそうな顔を見て、それはかなり難しいことなのだとバイオレットにも分かった。今まで困難なことがあった時は、ジムが色々なアイデアを出して乗り切ってきたが、今回ばかりは本当に無理なのかもしれない。何せ、こんな災害に見舞われたのも初めてなのだから仕方がない。


その夜は、前の日より寝る時間ができたが、なかなか寝付くことができなかった。体は疲れているはずなのに、難題が次々に襲ってきていつまでも目が冴えて仕方なかった。


それでも大分疲れていたせいか、いつの間にか眠っていたようだ。朝、目が覚めていつものように宿泊客への朝食を配り終えた。今日もまたぱらぱらと去る者がおり、宿泊客は元いた人数より大分減っていた。このペースなら貯蔵庫が空になるまでどうにかなるかもしれない。体の疲れは取れなかったが、少し希望が出てきた。


そこへ、突然息せき切ってホテルに飛び込んで来た者がいた。ブーツと緑色の長いコートは泥だらけで、難所と化した道を歩いて来たと見える。今までいた宿泊客にこの顔はなかった、ということは、もしやこのタイミングで新しいお客様!? いくら何でもタイミングが悪すぎる。今のバイオレットたちには新しいお客を受け入れる余力はなかった。


新しく入って来た、やせぎすで背だけひょろ長い青年は、実に奇妙なことをバイオレットに尋ねた。


「も、もしかして……あなたがバイオレットさん……バイオレット・ヘイワードさんでいいんですよね?」

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