第19話 傷心のボスと王子様の横槍

童貞かよっ!


トーマスはイライラしつつも、そう叫びたくなるのを必死で抑えながら朝の準備をしていた。お陰でいつもより皿の扱いが雑になり、通いで来ている従業員にたしなめられてしまった。


話は少し前にさかのぼる。トーマスは密かにヒースの部屋を訪ねた。秘密の話をするなら朝早い段階の方が人目に付かなくていい。しかし、何度ノックしても返事がなく、ようやく鍵を開けた彼の顔をみてびっくりしてしまった。


「ボス、どうしたんですか! ひどくやつれているようだけど何かあったんですか!」


ヒースは無言のまままたベッドに潜ってしまったので、トーマスは布団をめくってもう一度同じことを尋ねた。


「やってしまった……もうだめだ……」


消え入るような声しか出ないヒースに苦労しながら事情を聞いたところ、昨夜の顛末を知ることになったのだが。


童貞かよっ!


トーマスはそう言わなかった自分の忍耐力を褒めてやりたかった。ヒースだって一通りは経験しているはずなのに、バイオレット相手だとなぜここまで意気地なしになるのだろう。そう尋ねると「心の経験と……体の経験は……違う!」と意味の分からない逆切れをされてしまったので慌てて部屋を出て行った。


しかし、部屋から出てこないなら食事を届けてあげないといけない。また自分が行くと火に油を注いでしまうと思ったので後のことはマーサに任せることにした。


「なあ、マーサ、ボスが部屋から出てこないから食事持って行ってくれないか?」


「ボスどうしたの? 風邪でも引いたの?」


マーサは、ロビーに飾ってある花瓶の花を取り換えているところだった。仕方なく、トーマスは先ほどのやり取りをマーサにも説明した。それを聞いたマーサも、驚くやら呆れるやらだった。


「そういえばお嬢様も今朝は元気ないように見えたわ……ぼんやりしている感じで受け答えもワンテンポずれてたし」


「それだよ。二人とも大人なのになにしてるんだか」


とりあえず、ヒースのお世話はマーサに頼むことができた。だが、大元の問題は少しも解決していなかった。


「ねえ、こんなんで大丈夫なの? お嬢様がロナンと結婚することになったら、ボスは本当に耐えられるのかしら? カジノのオーナーでも高利貸しでも別にいいじゃない?」


「ボスはそう考えてないから厄介なんだよ。この際自分が何者だろうが開き直ることができればこじれないんだろうけど、変にお嬢様を神格化してるところあるからな。お嬢様だってただの人間なのに」


トーマスとマーサは同時に深いため息をついた。他人のためにこんなにやきもきさせられるのは性に合わないが、ヒースもバイオレットも二人にとって大切な人であることは変わりなかった。


一方のバイオレットも心ここにあらずといった状態で、仕事の小さなミスを繰り返していた。モップを入れるバケツを間違えたり、洗濯済みのものをまた洗おうとしたり、踏んだり蹴ったりだった。


「バイオレットどうした? 今日はちょっとぼんやりしてるようだが何かあったのか?」


チャーリーが気づかわしげに声をかけてきたが、バイオレットは慌てて否定した。


「なんでもないの。ちょっと寝不足なだけ」


寝不足なのは本当だった。あれから胸がドキドキしてよく寝付けなかった。あれはどんな意味だったのだろう。ただの事故だろうか。それにしてはヒースも慌てふためいていたが。昨夜のことを思い出すとまた顔が火照りだしたので、バイオレットは意識しないように努めた。


今日はこんなことをしている暇はないのだ。母を捕まえてきちんと話し合わなければならない。ヒースと約束したのだからなおざりにはできなかった。


この日は、チャーリーとヘレナは、アップルシード村まで散歩に出かける予定だった。その前に何とか母を捕まえておきたかった。


「あ、あのお母様。ちょっと時間あるかしら」


まさかバイオレットに声をかけられると思っていなかったヘレナは目を見開いて少し驚いた様子だった。


「ええ……いいわよ? 食堂室で話す?」


5年ぶりとは言え自分の家なのだから、内部の構造は熟知していた。現在の食堂室は主に朝食時に利用されるが、昔から同じ用途で使われていた。ヘレナはすたすたと食堂室に入り長いテーブルの片隅に座り、バイオレットも隣に座った。食堂室は朝食の時間帯が終わり、すっきりと片付けられた後だった。


「あの……まだプレゼントのお礼言ってないこと思い出して……きれいなネックレスありがとう。小麦や牛乳の方がいいなんて言ってごめんなさい。本当はとても嬉しかった。自分だけのものが欲しかったの」


バイオレットは子供に戻ったように、うつむいたままもじもじした態度で口を開いた。誰のためでもない、自分だけのもの。今までそういったものを無駄だと決めつけていたことにやっと気が付いたが、母の前で打ち明けるのはなかなか勇気が要ることだった。


「いいのよ。私も5年間も戻って来なかったんだから、その埋め合わせにもならないわ。あなたがずっと努力して結果も残してきたことは、チャーリーから聞いていた。さすが私の娘だわって誇らしかった」


ヘレナはそう言うとニカッと笑った。その豪快な笑顔にバイオレットもふふふと笑いたくなった。そうだ、母はいつもこうだった。名実ともに男爵夫人だった頃から、母は従来の枠に囚われない人だった。


「戻って来られなくしたのは私よ。私がいつまでも意地張っていたからお父様とお母様は陰でこそこそ隠れて会うしかなかった。私にそんな権限はないのに、自分だけ偉くなったつもりになっていたの。ごめんなさい」


今なら素直に言える。むしろなぜ今まで言えなかったのか不思議なくらいだ。何が変わったのだろうと、バイオレットは頭の片隅で考えていた。


「でもそれが却っていい方向に働いたのよ。家を出て初めて世界の広さに気付けた。田舎の男爵夫人で終わらずによかったと今では思ってるの。今ミデオンのいくつかの婦人団体を率いているのよ。男だったら政治家になっていたかもしれないわね。お陰で相続した財産を食いつぶさずに生活できてるの。この年になって職業婦人よ、あなたと同じね」


ヘレナの行動力にバイオレットはびっくりしたが、確かに母の能力を考えると妥当な気がしてきた。もしかしたら、バイオレットよりもよほどうまくホテルの経営もできるのでは、そんなことさえ頭に浮かんだ。


とりあえずよかった。自分のせいで母が不幸にならずに済んだ。わだかまりが完全に消えた。ヒースにも報告してあげよう、随分心配してたもの。と思ったところで、今日まだヒースに会ってないことを思い出した。部屋を出たならどこかで会っているはずなのにどうしたのだろう?


「お母様、今朝ヒースに会いました?」


「ヒース? いいえ、見てないわよ。どうしたのかしらね」


本当にどうしたのだろう。もしや昨夜のことを引きずっているのでは。そう思ったらまた顔が赤くなった。急な変化を母に悟られてはまずいと思い、慌てて言いつくろう。


「そういえば、お母様はどこかでヒースにお会いになったの? 二人一緒に来るとは思わなかったからびっくりしたわ」


「あれ? 言ってなかったかしら? あのね、カジノでね——」


「カジノ!? なぜそんな場所で?」


しかし、会話はそこで中断されてしまった。ノックの音がして、マーサが食堂室に入って来たからだ。


「お嬢様、お取込み中すいません。ただ今、ロナン様がいらっしゃったのでお伝えに来ました」


「ロナンが!? でもなぜ?」


バイオレットの驚きを見て、ヘレナは初めて聞くロナンという名前に興味津々だった。


「ロナンってのはご友人の方?」


「ええ……最近知り合ったの。その、エレンの紹介で。覚えてるでしょ? 女学校時代の友達のエレン」


「彼とは今後別の関係に進展する可能性があるのかしら?」


そう聞かれて、バイオレットは口ごもってしまった。母の意味するところは十分に理解できたが、バイオレット自身も分からない。なぜかそれを考えたくない、判断を先延ばしにしたがっている自分がいた。


「まだ……分からない。自分でもよく分からないんです」


それを聞いたヘレナは何も言わず目を細めた。


「すいません、お母様。ちょっとロナンに会ってきます」


バイオレットは席を立ってロビーへと向かった。果たしてそこにはロナンが立っていた。フロックコート姿から判断するに、どこか出張にでも出かけていたのだろうか。


「連絡もしないで急に来てすまない。ちょうど仕事でここの近くを通りかかったからあなたの顔が見たくなって寄り道してしまった」


そこまで言われたら、バイオレットは頬を赤らめずにはいられなかった。ロナンは前に会った時よりも感情をストレートに表現するようになっていた。何事も計画通りにこなすロナンがバイオレットのために予定外の行動に出るなんて、今までの彼からは考えられなかった。


「バイオレット、私にも紹介してちょうだい」


気付くとヘレナが後ろに立っていた。バイオレットは言われた通り、ロナンに母を紹介した。


「バイオレットからお話は伺っています。はじめまして、ロナン・ヒューズです」


ロナンは丁重にヘレナに挨拶をした。こういう時のロナンは絶対的な信頼感がある。相手を不快にさせる心配はまずしなくていい。ヘレナもまた丁寧な挨拶を返した。


「そうだ。せっかくだからチャーリーも入れて4人でご飯でも食べましょうよ。ロナンさん、お時間は大丈夫ですか?」


ヘレナが突拍子もない提案をしたことで、話が奇妙な方向へ転がってしまった。確かに一度に両親を見てもらう機会なんてそうないからタイミングとしてはいいかもしれない。ロナンも了承したので話がまとまった。しかし、バイオレットはなぜか胸のモヤモヤが治まらなかった。何か大事なものを忘れてしまったような、そんな気持ちがしてならなかった。


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