第18話 そっと触れたい
「あの……お母さんのことだけどごめん。余計なことをしてしまったみたいで」
わざわざ人気のないところに連れ出して何を言うと思ったら。ヒースがおずおずと申し訳なさそうに言うので、バイオレットもいたたまれない気持ちになった。
「家族の問題にあなたまで巻き込んでしまってごめんなさい。ヒースは何も悪くないのに……悪いのは私なのに」
バイオレットはそう言うと自嘲気味に笑った。
「この家を出たお母様がずっと嫌いだった。都会に住んでいい暮らしをして人生を謳歌しているなんてずるいって。娘が苦労しているのに親が楽していいのかって。でもさっきお父様の幸せそうな顔を見たらそれは間違いだって気付いたの。私こそ母の居場所を奪ってしまった。私のわがままのせいで父と母が一緒にいられなくなったのに」
「そ……そんな……」
ヒースが口を挟もうとしたが、バイオレットは構わず話し続けた。
「元はと言えば、家をホテルに改装して借金を返そうと提案したのは私。どうしても思い出の詰まったこの家を離れたくなかった。そこでお母様と意見がぶつかったの。お父様は優しいから私に付いてくれた。社会に出たことない20歳の小娘が一人でやっていけるはずないものね。でも本当はお母様と離れたくなかったはず。それなのに……」
「バイオレット……」
ヒースはなんとか介入する糸口を探そうとしたが、バイオレットはそれを許さず言葉を続けた。
「それなのに、私は自分が苦労しているのをいいことに、母がいい暮らしをしていると嫉妬していた。母は、自分の実家から受け継いだ財産で暮らしているから誰にも迷惑をかけていないのに。それに、陰で借金を少しでも清算しようと尽力していたみたい。私は自分から進んで苦労する道を選んだのに、いつの間にか母を憎んでいた。お門違いもいいとこよね」
バイオレットは一旦そこで言葉を切って、今は暗くて何も見えない平原の方をぼんやり眺めた。
「さっき久しぶりに母を見て、すごく眩しく見えた。すごく若々しくて溌剌としていて美しくて。それに比べて自分が惨めに思えた。流行のファッションも都会から来る宿泊客の着ているもので何となく察するだけ、せっかく一通りのマナーを学んだのにそれを生かせる社交の場に出たことがない、女だてらにホテルを切り盛りするなんて聞こえはいいけど、実際は自分より優秀な従業員に頼ってばかり、結局私には何の価値も——」
「バイオレット!」
たまらずヒースが叫び、両手で顔を覆ってうつむいてしまったバイオレットの肩をつかんだ。
「そんな風に自分を責めないで。バイオレットがここまで頑張って来たから今のヘイワード・インがあるんじゃないか。奥様だってバイオレットに恨み言なんか言ってない。みんな分かっているから大丈夫だよ。君は自分が思う以上にたくさんの価値を持っている——」
バイオレットがおずおずと顔を上げると、二人の目が合った。バイオレットに見つめられていることに気付くと、ヒースは耳まで真っ赤になって顔を背けてしまった。
「とっ、とにかく、僕はどんなにお化粧をしてきれいな服を着ていてもバイオレットより美しい人を見たことがない。人の美はそんなものに宿るんじゃないんだ。だから……もっと誇りを持ってほしい……」
似たようなことをロナンにも言われたような気がする。今まで自分は十分誇りを持っていると思ってきた。それが本当なら、今焦燥感にさいなまれているのはなぜなのだろう? そもそも誇りって何?
バイオレットが心の中で自問していると、ヒースに「ちょっといい? そこ座って」と声をかけられた。言われるがままバルコニーの傍らにある椅子に座る。ヒースももう一つの椅子に腰かけ向かい合うような形になると、ポケットから小さい箱を取り出した。
「はいこれ。急な出発だったから碌に準備もできなかったけど、急いでこれだけ買って来たんだ」
ヒースに渡された小さい箱を開けるとハンドクリームが入っていた。つる草模様の装飾が施された特製のケースに入っていて、化粧品の高級ブランドのロゴが入っている。一目でいい品というのが分かった。
「ありがとう……こんないいものを……水仕事でいつも手が荒れているから助かるわ」
バイオレットは彼の心遣いが嬉しかった。あかぎれが絶えない彼女の手は誰が見ても貴族のそれには見えない。人前に出る時、密かにコンプレックスとなっていたのを見透かされたような気がした。
「ま……まあね。それよりいい香りするから開けてみてよ。ラベンダーの香料入りなんだ」
ヒースは一旦ハンドクリームを受け取り蓋を取って、少量のクリームを指ですくった。そしてバイオレットの手を取って、手の甲から丹念に塗り込んでいった。そして静かな声で昔話を始めた。
「ねえ、覚えてる? 勉強が嫌で、自習時間にラベンダー畑まで遊びに行った時のこと。ちゃんと家にいましたと言ったのに体にラベンダーの香りが付着してバレて怒られたよね?」
「そんなこともあったわね。今思えばあなたは私のお目付け役として母に起用されたのね。だって、しょっちゅう私は勉強をサボる口実を考えていたもの。あの時もラベンダー畑まで行きたいと言ったのは私だった」
バイオレットはクスクス笑いながら当時のことを思い出した。まだ幼くてわがままだったバイオレットをヒースはしょっちゅうなだめていた。勉強をサボって本来怒られるべきはバイオレットなのに、なぜか彼がいつも謝っていた。
クリームを塗る手は、手の甲から指へと移って行った。指の爪まで丁寧に、親指から人差し指、そして中指へと一本一本、更に指と指の隙間まで。それは、今までバイオレットが酷使してきたのを優しく労わるように、「今まで大変だったね」と声をかけているようだった。片手を塗り終えるころにはラベンダーのさわやかな香りが鼻をくすぐっていた。しかし同時に、彼に手を取られ、指を丹念にまさぐられるこの状況が尋常ならざるものであることをだんだん意識せざるを得なくなってきた。
「もう片方の手もいい?」
「え? ええ。お願い」
一瞬我に返って弾かれたように答えたが、殆ど上の空だった。ヒースはもう一つの手を取り、同じように手の甲にクリームを乗せて広げていった。
「ねえ……奥様と仲直りするつもりはない? 僕は奥様にもバイオレットにも恩があるから二人が仲たがいするのを見るのは正直辛い……あっ、親子の問題なのに……差し出がましいこと言ってごめん」
「いいえ、あなたの言う通りだわ。私も意地を張るのをやめることにする。明日じっくり話し合おうと思う」
それを聞いたヒースはほっとした様子だった。片方に肩入れするわけにもいかないので、気が気ではなかったのだろう。その表情を見て、バイオレットも安心した。今こそ絡まっていた紐をほどく時かもしれない。
また会話が途切れてしまった。もう片方の手もヒースの両手にすっぽり包まれ、まるで大事な美術品を手入れするかのように扱われる。カサカサした表面がうるおいを持ち滑らかになるのが分かったが、それだけではなかった。何かいけないことをしているのではという気持ちが更に強くなり、胸がドキドキしてきた。ヒースもまた無言で集中している。二人だけの世界に没入していた。
両手ともハンドクリームが塗られ、周りはラベンダーの素敵な香りに包まれた。それだけでバイオレットはお姫様になったような心持になりうっとりとした。ヒースもまた放心状態のまま彼女の手を握りずっと黙っていたが、何を思ったか顔を近づけ、そっと口づけをした。
「えっ! 何をするの!」
バイオレットは驚きのあまり反射的に手を引っ込めた。その衝撃でヒースも我に返って自分のしたことに愕然とした。
「ご、ごめん! 僕は……何てことを……」
ヒースは口をぱくぱくさせて何か言おうとしたが言葉が出てこなかった。暗くてよく分からないが顔も真っ赤になっているのだろう。そしてさっと踵を返してホテルの中へ一目散に駈け込んでいった。
外にはバイオレットが一人残されたが、混乱しすぎてどうしたらいいか分からなかった。ただただ、口づけされたところが熱くなっていてどうすることもできない。そしてもっと厄介なことに、彼にされたことが別に嫌ではなかったのだ。一体自分はどうなってしまったのか理解できなかった。
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