第15話 カジノ・エルドラド
首都ミデオンの繁華街といえば、おのぼりの観光客が一度は訪れてみたい憧れの場所であった。一世を風靡する艶やかな不夜城は、酒とネオンサインとカンカン踊りからできている。その目抜き通りの最も目立つ場所にそびえ立つのが「エルドラド」というカジノだ。
正面には金髪美女が嫣然と微笑むネオンサインが大きく掲げられ、このカジノのシンボルとなっていた。誰もがこの建物に一たび足を踏み入れれば、ぴかぴかのシャンデリアに迎えられ、しばし浮世の憂さを忘れることができる。政治家や映画スターまでもが出入りするこの施設は忘れられない夢を与える代わりに、ほんの一握りの成功者と数多の夢破れし者を生み出した。
そんな有名なカジノだが、支配人が変わってから更に収益を上げたことを知る人は少ない。ここの支配人はまだ若いが、かなりのやり手として界隈で名を馳せていた。しかし、公の場に顔を出すことは殆どなく、存在はベールに覆われたままだった。彼を知る数少ない者の話によると、地獄のドーベルマンだの、今しがた人を殺してきた男だの散々な言われようだったが、簡単に表に姿を現さないせいで噂に尾ひれが付いているようだった。
出張を終えたウィルは、煌びやかな表口ではなく、ゴミの臭いが消えない裏通りに面した通用口から建物の中に入り、まっすぐ支配人室へと向かった。
「ボス、ただ今出張から戻ってきました」
「お帰り、急な依頼ですまなかった。疲れてるところ悪いが時間がないので早速報告を聞きたい」
ヒースは煙草をくわえたまま書類の山に囲まれ事務仕事をしていた。革張りの椅子に座ってはいるが、姿勢を崩し、ネクタイを緩めベストのボタンも外している。表面に光沢のある濃緑色と黒の細いストライプ地のスーツで、バイオレットに会う時は絶対着ない類の服装だった。ウィルはソファに座り、鞄から自分で作成した報告書の束を取り出して読み上げた。
「……そうか。非の打ちどころなし、か。それならいいんだ。お前の目から見てもバイオレットのいい伴侶になれると思うか?」
報告を聞き終えたヒースは、煙草を灰皿に捨て、少し間を置いて口を開いた。その声はやけに平静だった、いや、平静であろうと努めているのかもしれなかった。
「それを俺に聞くんですか? 男女の間には何が起こるか分かりません。ロナン・ヒューズが完璧な人間だとしても、バイオレット嬢を幸せにできるかどうかは別問題だと思います」
ウィルは正直な気持ちを伝えた。それを聞いたヒースは、書類の山の間から顔を覗かせてウィルを見つめた。
「慎ましくて清楚なバイオレットには相応しい伴侶が必要なんだ。ロナン・ヒューズはそれに値する男か?」
だから俺の知ったことかよとウィルは内心毒づいたが、それを直接伝えることはできなかった。代わりに、かねてから疑問に思っていたことを口に出してみた。
「そんなにバイオレット嬢のことを思っているなら、自分が幸せにしてやりたいと思ったことはないんですか?」
ウィルが言い終わるか言い終わらないかのうちに、机にあった書類が大きな音を立ててぶわっと崩れた。
「何を言い出すんだ! そんなことできるわけないだろう! 住む世界が違いすぎるんだぞ! そんなこと……考えたことも……な……」
ヒースは顔を真っ赤にして怒鳴ったが、だんだん声が小さくなり、最後まで言うことができなかった。そして両手で顔を覆ってうつむいてしまった。がくがく震えるその姿を見て、ウィルは「童貞かよ!」と言いたくなる衝動をやっとのことで抑えた。
そんなウィルもまた、バイオレットに堕ちてしまった仲間(?)なので、正面切ってヒースを責める気にはなれなかった。確かに自分たちのような薄汚れた人間にバイオレットはふさわしくない。ヒースの気持ちも理解できてしまうため、やるせない思いだけが残った。
「でも……ボスは本当にそれでいいんですか? 俺は……いや、ボスがそんなに簡単に引き下がれるとは思わな……ひいっ! すいません!」
ウィルはうっかり口を滑らしてしまい、部下たちから密かに「目が合うと石になる」と呼ばれている鬼の形相でぎょろっと睨まれてしまった。
「5年も裏方に徹して来たんだぞ? ヘイワード家が破産したと聞いた時から裏で手を回してきた。屋敷が売却されそうと聞けば、買い手を脅して契約を握りつぶした。ホテルの改装資金がないと聞けば低金利の業者を紹介するように仕向けた。従業員が不足していると聞けば、うちの優秀な人材を送り込んだ。他にも色々やった。本当は借金の肩代わりもしたかったくらいだ。俺がしゃしゃり出たら全て水の泡になってしまう。幸運の神様が全て人為的だと知ったらあの子は心が折れてしまう……」
「彼女のことだから逆に感謝するのでは?」
「別に感謝されたくてやってるんじゃない。ただの自己満足だ。それに、彼女にとって自分の力で結果を残したというのが心の支えになっている。だからどんなに辛いことがあっても我慢できた……本当は本人が言うほど楽じゃなかったと思う。辛いところを周りに見せたくなかっただけだ。クラークへの手紙に色々打ち明けてあった……」
ヒースはそこまで言うと、うつむいて頭をかきむしった。
「こないだの嵐の時、アップルシード村が大災害になっていると聞いて、もし彼女の身に何かあったらと思ったら、居ても立ってもいられなくなった。実際会いに行ったらもう抑えが効かなくなっていた。でも、いい伴侶を見つけてもらえば万事解決だ。俺も踏ん切りがつく」
そう言いながら、ヒースの声は苦しそうだった。垂れ下がった髪の毛で顔が隠れているが、苦悶に歪んだ表情をしているのは見えなくても察せられた。再会してしまったことで再燃した思いを、バイオレットを他の男と結婚させることで鎮静化させようとしているのは分かった。しかしそんなことが本当に可能なのだろうか?
ウィルはそれ以上何も言えず、そのまま自分の持ち場へ帰って行った。ウィルがいなくなり一人に戻ったヒースは、元の仕事に取り組もうとしたが、心が千々に乱れて全く集中できない。しばらく格闘していたが、やがて諦めたように持っていたペンを投げ出し、革張りの椅子にもたれかかった。
出会いは彼が10歳の時だった。3つ年下のバイオレットは、母が使用人として働いていた屋敷のお嬢様だった。小花柄のエプロンドレスを身にまとった幼い彼女の姿を今でも覚えている。血のつながっていない兄弟からいじめ抜かれていたので、貴族の娘にもバカにされるんだろうと身構えていたら、彼女は満面の笑みで挨拶をして握手を求めてきた。それが始まりであり、全てだった。
バイオレットには年の離れた兄がいたが、寄宿舎にいて家にはなかなか帰ってこないため、自分を兄替わりとしているのだと思った。年上の男子なら他にもいたのになぜ自分が選ばれたのかは知らない。異国の血が混じったヒースは、何かと同年代の子供から仲間外れにされたりからかわれたりすることが多かったが、唯一バイオレットだけは、故郷の話をしてくれとせがんできた。遠い異国の話を聞くのが楽しいようで、そのうち二人で一緒にいる時間が増えてきた。
バイオレットの母、アマンダはそんなヒースの聡さに気付き、娘の遊び相手として彼を起用するだけでなく、初等学校までしか通えなかった境遇に同情して兄の勉強道具をあげたり、遂にはバイオレットと一緒に家庭教師の授業を受けることを許可した。そんな特別待遇に兄妹たちの嫉妬が募り余計にいじめられる結果となったが、彼にとってはどうでもよくなるくらい、バイオレットと一緒に過ごす時間は宝物だった。
義理の父は働かず、母の収入だけでは十分な暮らしはできなかった。しわよせは、母の連れ後子であるヒースに向かった。元々食が細かったが十分食べさせてもらえなかったため、最初に会った頃はバイオレットと同じぐらいの背丈しかなかった。
それを救ってくれたのもバイオレットで、何かと理由を作ってはおやつを一緒に食べようと誘ってきた。使用人の子供の分際でそこまで甘えることはできないと断っていたが、バイオレットの父母公認のもと、勉強を教えてあげる報酬としておやつを与えられるようになった。家庭教師がいたのだからそんな必要はなかったのだが、今思えば彼が断わりにくい環境を作ってくれたのだろう。
だから、バイオレットとその家族には多大な恩があった。ヘイワード家にいたのはほんの数年だったが、この時の貯金でその後の地を這うような生活を耐えることができたといっても過言ではなかった。嘲られ陥れられた時も、表社会では居場所がなく裏社会に転がり込んだ時も、母が死んだ時も、多重債務者に無慈悲な措置をする時も、法律スレスレで危ない橋を渡る時も、根底にあったのはあの数年間だった。だから、バイオレットが幸せになるためなら何だってするつもりだった。彼女にふさわしい伴侶が現れればきっと自分も安心するだろう。そう思っていたのに。
(そう思っていたのに……!)
耐えることは慣れている。だったら自分の存在が知られないことくらいどうってことないじゃないか。なのに彼女に会ってしまった。そしたら止まっていた時計の針が動き出してしまったのだ。
ヒースは、ウィルが置いていった報告書の束に目を移した。パラパラと紙をめくると一枚の写真がはらりと落ちた。それはロナンの写真だった。さわやかな笑みを浮かべたハンサムな好青年。育ちも性格もいいのはウィルからの報告で知っていた。正にバイオレットのためにあつらえたような男じゃないか。この二人は神に祝福されたカップルになる。そう確信できるのに、確信できるからこそ心がざわつくのを止められなかった。
目を血走らせ、ギリギリと奥歯をかみしめてフーッと息をつく。お前の出る幕じゃない、化け物のようだと誰からも忌み嫌われこんな所に転がり込んでいたお前が。何度も何度も自分にそう言い聞かせるのに、ロナンの腕に包まれうっとりするバイオレットの姿を嫌でも想像してしまい、吐き気を覚えるのだった。
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