4-11 中央からの手紙

 それから四年ほど倫之助の家に居続けて、葵依は十五歳になった。

 裕福な実家から食べ物を譲ってもらっている倫之助と同じ恵まれた食生活を送った結果、葵依は目の色は変わってしまったままであるものの、背が高く十字絣の着物が似合う健康的な少女に育った。


 倫之助は時折注射というもので葵依の血を抜いたり、目やら爪やらを調べたりして、それを何かの文章にしてどこかに送っているようだったけれども、どんなことが書かれているかは葵依の知るところではなかった。


 だから診療所の赤い郵便受けに入っている封筒の中身が、倫之助が葵依を使って書いた論文に関わるものであったとしても、葵依は興味を持たないまま開封せずに倫之助に渡す。

 しかしある蒸し暑い文月の下旬に届いた封筒はいつもと様子が違ったので、夏野菜の収穫から戻った葵依は郵便受けの中をじっと見つめた。


(これ……、倫之助宛てじゃなくて、私宛て?)


 文章を読むことは苦手でもさすがに自分の名前くらいはわかる葵依は、瀬田葵依と書かれた長形の白封筒を裏返して見た。

 送り主には神祇省じんぎしょうという聞いたこともない名前が書いてあって、何のことかはさっぱりわからない。


 葵依は蝉の声がよく聞こえる青々とした診療所の横の小路を横切って、勝手口から住居部分に入った。

 そして三つ編みに編んだ髪が跳ねる勢いで障子を開けて、縁側にあぐらをかき水うちわをあおいでいる浴衣姿の倫之助に話しかける。


「これ、私宛てなんだけど。開けても良いってこと?」


 これまで郵便物をもらう機会がなく、戸籍簿の住所もあやふやなままにしている葵依は、倫之助の近くに座っていつもと違う手紙を渡した。


「これは神祇省って書いてあるな。神祇省って言ったら、神々の面倒を見てる国の省庁だ」


 倫之助は手紙を受け取ると、大人とは思えない汚さでびりびりと端を破った。

 神祇省というのは、どうやら個人の名前ではなく、何やら偉い仕事をしているお国の人の集まりであるようだった。


「それで、なんて書いてあるの」


 読めなくても書面の雰囲気が気になった葵依は、倫之助が広げる無機質な活版で印字された妙な手紙を覗き込む。

 倫之助は普段の自分宛ての郵便物を読んでいるときよりも難しい顔をして、書面を読んでいた。


「どうも神祇省は、お前を神喰いの花嫁とかいうものにしたいそうだ」


「かみくいの、はなよめ?」


 倫之助の「科学的な」話に出てくるものとは違った方向にわからない言葉を使われた葵依は、首を傾げて意味を訊ねる。

 自分も半分以上は理解していなさそうなわりにやはり偉そうに、倫之助は国が葵依に求めているらしい役割について話した。


「たしか食べ物の神に嫁いで、その神を食べて死ぬ巫女みたいなものだな」


 倫之助の説明は、間違ってはいないのだろうけど、大雑把に省略されすぎていて、葵依には現実感のある話に思えなかった。


「どうしてそのお嫁さんは、神様を食べなきゃいけないの。神様を食べると死んじゃうのは、神様の肉に毒があるってこと?」


 自分で考えてもわからないことをわかっている葵依は、倫之助を質問攻めにする。


「いやそうじゃなくて、神が美味しすぎるからだって話だったはずだ」


 倫之助は葵依に身を乗り出されても焦ることなく、たらいに入れた水にうちわを浸して、うっすら汗をかいた無愛想な顔であおいだ。


「美味しすぎると人は死ぬの?」


「そうやって食べられては蘇る神が西都の方にいるという話なのであって、どういう理屈なのかは俺は知らん」


 いまいち納得できない葵依がさらに訊くと、倫之助はばっさりと自分の理解を超えた説明を断って強引に本題に入った。


「で、この紙に花嫁になるかどうかを書いて返書するものらしいが、お前はどうする」


 倫之助は厚紙の記入用紙を葵依に見せて、奇妙で謎めいた縁談を引き受けるか否かの判断を迫る。

 何も理解していないものの、不思議と答えには迷わない葵依は、すぐに明るい声で答えた。


「よくわかんないけどなれますって言うなら、なるよ。だって私が何かになれる機会ってあんまりないでしょ」


 葵依は自分のような妙な死病に冒されたことがある人間と一緒になってくれる者はいないものだと思っていたので、どこかの神様が葵依を花嫁にしてくれるなら、断っては失礼だと感じていた。

 また美しいものが好きな葵依は、きっと美しいに違いない神の姿も見たかった。


(嫁いだら死ぬっていうのが変だけど、見えるものは見たい)


 きっと倫之助も同意すると思って、葵依は開かれた書面から顔を上げる。

 しかし倫之助はいつもどおりの澄ました顔をしていたけれども、その反応は意外と殊勝なものだった。


「なるほど。あの日に死ななかったお前はこれから今、死ぬんだな」


 倫之助はほんの少しだけ寂しげな瞳で葵依を見つめて、水うちわを手放した手で葵依の頬に触れた。

 研究のためにさわられることはあっても、思い遣りによって触れられることはこれまでなかったので、暑さに火照った頬に心地よい、冷たく濡れた倫之助の手の感触に葵依は言葉を失った。


(倫之助は、私にこういう優しいことをしてくれる人だったんだ)


 人の命を軽んじる発言ばかりをしていても、一応は医者だったらしい倫之助は、数少ない生きて助かった患者である葵依が神に嫁いで死ぬことを悲しんでいるようだった。


 結局は倫之助は他人なので、死んでほしくないとかそういう引き止める言葉はかけない。

 だが人らしく命を慈しむ心で、葵依の選択を肯定しつつも残念に思ってくれている。


(意外と倫之助は、私のことを大切にしてくれたんだろうか)


 葵依は驚きに身体を強張らせ、頬に触れる手に自分の手を重たりとか、いじらしい反応は一切返せないまま倫之助を凝視した。


 自分は貴重な研究材料なのであって、科学的な興味しか持たれていない。

 そう思って約四年間、ただの隣人か仮の保護者として流してきた倫之助の存在は、思っていたよりも特別な可能性を秘めていた。


 もしかすると倫之助は、これからもっと真面目に二人の時間を重ねれば、葵依を深く愛してくれるのかもしれない。ひょっとすると葵依が頭を下げて頼み込めば、結婚だってしてくれるのかもしれない。


 最初に出会った頃は十一歳だった葵依は、十五歳になった今、やっと本当の意味で倫之助と出会えた気がした。


(私は倫之助のことが嫌いじゃないし、大事に思ってもらえるなら嬉しいけど……)


 熱くまぶしい太陽の光から守られた縁側の影の中で、とっさのことで身体が動かなかった葵依は、せめて微笑もうとして変な困り顔になる。

 その結果、倫之助には戸惑いだけが伝わり、嬉しさは伝わらない。


 自分の気持ちを完全にわかっているわけではないものの、おそらくその反応のすべてが葵依の出した答えだった。

 そっと葵依の頬に触れていた倫之助も、同じように無意識の内に判断を下して、必要最低限の優しさと水滴を残して濡れた手を離す。


「まあ、お前はあの村で死んだ人たちと同じものを食べていたのに生きてるんだから、神様を食べても本当に死ぬかどうかわからんけどな」


 倫之助はすぐにこれまで通りの剽軽ひょうきんで失礼な態度に戻って、一瞬だけ聞かせた切なげな声をすっかり忘れる。


 こうして葵依の初恋は、始まる前に消え去った。


 恋とも言えない短い交わりは結局、葵依が神を食べて死ぬという特殊な役割を与えられたことによる、一瞬のまぼろしなのである。

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