3-7 選ばなかった恋

 人との別れよりもまず、日々の食事を大事にして過ごしているうちに一ヶ月はすぐにたち、椿咲が宇迦尊に嫁ぐために旅立つ前夜はすぐにやってきた。


 椿咲の食べたいものだけが並んだ食卓を家族で囲んで、普段よりもやや長めに風呂に入って寝る。

 椿咲の寝室は狭すぎず広すぎず居心地の良い二階の一室で、上等な舶来のマットレスが敷かれたベッドは一年を通して心地が良く眠れるやわらかさである。


 しかしその夜の椿咲は、満腹すぎたのか、それとも気持ちが昂ぶっているのか、軽く暖かな羽布団に包まってもなかなか寝付けなかった。


(少し、台所で飲み物でももらいましょうか)


 一旦眠ることを諦めた椿咲は、ベッドから起き上がって布団から抜け出た。

 そして丈長のネグリジェの上に厚手のフランネルのガウンを羽織り、上沓うわぐつをはいて一階の台所に向かう。


 兄も父も実業家として忙しく過ごしているからこそ常に規則正しい生活を送っており、女中メイドも含めて深夜の屋敷はひっそりと寝静まっている。

 その一方で霜山家の屋敷の廊下は窓が多く、また外は雲のない月夜であるので、椿咲は明かりを灯すことなく歩くことができた。


(無難に白湯か、甘く牛乳か。迷ってしまいますね)


 椿咲は何を飲もうか考えながら、台所に入った。隅々まで片付けられた台所はステンレスの天板が鏡のように見事に磨かれ、聖域のように月明かりに照らされていた。

 普段は台所に立つことがない椿咲は、どこか厳かな気持ちになって改めて周囲を見渡す。


 椿咲はそこで勝手口のガラス戸の外に、人影があることに気づいた。

 それが誰であるのかすぐにわかった椿咲は、考えるよりも先に黙って戸を開けた。

 一瞬でも凍える寒さの中で、褞袍どてらを着た弥太郎は勝手口に背を向けて小庭に佇んでいた。


 月が淡く生け垣を照らす薄闇が、椿咲からかけるべき言葉を奪う。

 戸が開く音に気づいた弥太郎は、驚いて振り返った。


「椿咲様?」


 慌てた様子で数歩先に後ずさる弥太郎も、椿咲と同じように寝付けずにいたようである。

 ただ椿咲と違うのは、弥太郎が泣いていることだった。


 椿咲が来るまで誰にも知られることなく流れていた弥太郎の涙は、寒さの中で赤くなった頬を濡らしていた。

 涙を見られたことを恥じたらしい弥太郎は、うつむいて眼鏡を外し、着物の袖で涙をぬぐった。しかし涙は止まることなく、ぽろぽろと芝の枯れた地面に落ちていく。


 椿咲は上沓うわぐつのまま外に出て、戸を閉めた。

 そして弥太郎が泣いている理由はすでに理解していたが、念のために控えめな言葉で確認する。


「もしかして私のために、泣いているのですか」


「そうです。俺は椿咲様が死ぬのが、嫌ですから」


 妙に冷静に響く椿咲の問いが、弥太郎の涙をさらに溢れさせる。

 弥太郎は遠慮のない椿咲の態度への怒りを半ば滲ませて、肩を震わせて答えた。


 今日まで別れを告げてきたほとんどの人は、椿咲が神に嫁ぎ神を食して死ぬことを、否定せずに受け入れて祝ってくれていた。


 椿咲は父にとっては幸せに去っていく娘であり、兄にとっては都合のよい縁談をもらった妹である。

 そして友人たちにとっては非日常的な物語の一部になった同級生で、隆司にとっては代わりのいる婚約者だった。

 だからこそ椿咲は、気兼ねなく命と引換えに神を食すことを選べる。


 しかしただ一人、弥太郎だけは、椿咲の利欲的な死を認めていなかった。

 弥太郎に好かれていることはわかっていたけれども、泣かれるほどだとは思っていなかった椿咲は狼狽える。


(好きでいてもらえるのは嬉しいですが、ここまでだとちょっと困ります)


 湿っぽいやりとりは、椿咲は好きではない。

 だから自分の死を深刻に捉えてほしくなくて、椿咲はわざとおどけてみせた。


「毒で死ぬとわかっていてもフグを食べた人が、遠い昔にはいるでしょう。毒を避ける方法が見つからなくてもただ、美味しさを知るためだけに。私の人生もきっと、そういうものなのです」


 冷えてきた手をガウンの袖の中に隠して擦り合わせながら、椿咲は小さく微笑んだ。なかなか面白い例えではないかと、自分では評価している。

 だが弥太郎は椿咲の冗談混じりの説明には笑ってくれず、逆に何とか泣き止もうと顔をしかめて言い返した。


「そこまでして、月を食べなければいけませんか? ただのチーズでは駄目ですか?」


 弥太郎は以前に月の伝承について話したことを踏まえて、椿咲に訊ねていた。

 あの夜の会話を思い出すということは、弥太郎もおそらく、椿咲が何を考えているのかはわかっているのであろう。


 椿咲が求めるものを突き詰める人間だからこそ弥太郎は椿咲を好きになり、求め続けた先の結果に椿咲が死ぬからこそ弥太郎は泣いている。


 すべて理解していても、弥太郎は弥太郎で椿咲を諦めることはできない。

 そうした弥太郎の想いを、思い遣りのない椿咲は掬いとることはできない。

 だから椿咲は弥太郎を見つめるのを止めて、夜空を見上げた。


「ただのチーズも、もちろん好きです。だけど私は、月を食べる資格を与えてもらえました。私は食べれるものは全部、死んでも食べたいのです」


 藍色に明るく星の見えない空には、白く大きな満月が輝いていた。屋敷と生け垣の間の小庭から見える狭い夜空に浮かぶ月に、椿咲は手を伸ばす。

 どうせいつかは人は死ぬものだから、椿咲は自分らしい死に方がしたかった。誰もが納得するような、嘆かれることのないような、自分の人生にふさわしい死について考えていた。


 決して、椿咲は死にたいわけではなかった。

 ただ機会を得たなら後悔はしたくなくて、誰も食べたことがないものを食べたいという願いをどうしても叶えたかった。

 だから椿咲は、弥太郎にも受け入れてほしかった。さすがだと思ってほしかった。


 しかし弥太郎が椿咲に特別な感情を抱いている限り、思うようにはならないことはわかっている。

 椿咲はじっと、月を眺めていた。

 やがて弥太郎は外した眼鏡を握ったまま、目を伏せてつぶやいた。


「命よりも大事なものが、椿咲様にはあるんですね。俺にはないです。椿咲様の命以上に大事だと思えるものは」


 眼鏡を握る弥太郎の手に、力がこもる。

 弥太郎の話す言葉は熱く、吐く息は白い。

 泣きはらした目をした弥太郎の顔は普段よりも幼くて、故郷を離れて働く年相応の少年らしかった。


 「椿咲以上に大切なものはない」という言葉が、たとえ成り行きで言ってしまったものだとしても、弥太郎がそれなりに本気で椿咲のことを考えているのは真実だった。

 弥太郎が椿咲に捧げてくれている想いは、一人の少年が一人の少女に恋したものとして、それなりの価値があるはずである。


 真面目な弥太郎なら椿咲と結婚が許されるだけの出世も、時間をかければ不可能ではないかもしれない。

 しかし神に嫁ぎ神を食すことに決めた椿咲は、その恋を選び取ることはできない。

 残念ながら弥太郎の恋心は、皿に載せて食べることができないものなのだ。


 だから椿咲は数歩先にいる弥太郎に触れようとしたり、それ以上の言葉をかけたりはせずに、勝手口を開けて台所に戻った。

 フランネルのガウンが翻り、椿咲と弥太郎の距離は遠くなってガラス戸に隔てられる。


 椿咲と弥太郎が交わした会話は、それが最後になった。

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