第三章 与えられた少女
3-1 美食と婚約者
その皇国で最も華やかに栄えている都市の輝きを、
真っ白なクロスが敷かれた八角形のテーブルは他の客が気にならないよう十分なゆとりをもって配置され、特注のデザインの白磁の皿に載った前菜は、清潔感のある給仕の手によって運ばれてくる。
三つ編みにした髪を丸めて赤いリボンでまとめ、古典的な薄紫の振り袖に茶色と黒のストライプの半衿を覗かせて今風に着飾り、きらびやかなホテルに合わせた装いで席についている椿咲は、まずはじっくりと料理の盛り付けを品評するように見つめる。
(さすが皇国で一番のホテルの、レストラントの料理は違います)
やわらかな紅色のスモークサーモンに、上品な酸味の
十六歳の女学生である椿咲が、こうした贅沢なものに触れられるのは、椿咲の父親が海運業を中心に皇国中のさまざまな企業を傘下に収める霜山コンツェルンの総帥であり、その父によって定められた婚約者もまた由緒ある財閥の御曹司であるからであった。
「えっと。君と会うのは、何度目だっただろうか」
椿咲の正面に座る婚約者の
髪を固めて黒いディナージャケットで正装した隆司は、椿咲よりも十歳ほど年上だが佇まいは若々しく、肌の艶も良い顔は美男子に分類しても差し支えのない造りである。
しかし服も姿勢もきちんとしているはずなのに、発言や表情にどこか締まりがなく、怠惰な印象を人に抱かせるところが彼にはあった。
「二度目、ですね。今日は二人っきりですから、じっくりとお話しすることができます」
まだ一度や二度くらいの少ない回数なら忘れず覚えていてほしいと思いつつ、椿咲は隆司の問いかけに答える。
両親が同席していた料亭でのお見合いで一度会ったのが二週間前であり、椿咲はまだ隆司について見てわかる雰囲気以上のことを何も知らない。
しかし早くも椿咲は、隆司の大雑把な人間性を理解しつつある気がした。
「そうか。二度目か。でも僕みたいな年寄りは、君みたいな若くて可愛い子と二人っきりだと、何を話せば良いのかわからなくなるなあ」
隆司が照れて目を細めた笑顔で、わざと年の差を強調しておどける。
きっと人は良い相手なのだろうと好意的に解釈し、椿咲は前菜に口をつける前にまず葡萄酒に似せた果汁入りの飲み物の入ったグラスを傾けて、無言で微笑んだ。未成年の椿咲のために用意されたその飲み物は、酒ではないのに酔ってしまえるような、ほどよい渋みのある葡萄のコクを感じる。
(別に私は、この人のことをすごく大人だとは思っていませんが)
目を伏せつつもじっと隆司を観察し、椿咲は料理と同じように婚約者も品定めした。
椿咲自身は華奢で背も高くなく、整ってはいるものの幼さが残る顔は化粧をしても七五三のように可愛らしくなるだけで、大人っぽい美人になれたことはない。
しかし椿咲には四人の年齢の離れた兄がいて、常日頃から年上の異性に接することに慣れているため、隆司に対して距離を感じるところはなかった。
こうして浮かれず冷静な気持ちでいる椿咲に対して、隆司はたいした意思も考えもなさそうな様子で、判断を投げて首を傾げた。
「僕は君と、何の話をすれば良いと思う?」
面倒なことを避けるのに長けた大人の隆司は、椿咲を子供扱いしたうえで、趣味をあわせる余裕のあるふりをして会話の主導権を任せてくる。
だが日々を妹や娘として生きてる椿咲は、子供であるという立場を受け入れてもいるので、反発はせずに素直に話題を提供した。
「では、食べ物の話をしませんか。私は、食べることが好きなんです」
そこでやっと椿咲はフォークとナイフを手にし、フォークでサラダを掬って口に運んだ。
なめらかに茹で上げられたじゃがいもが、かすかに辛子で風味づけされたマヨネーズにしっとりとまぶされ、まろやかな酸味とともに崩れていく。
じゃがいものやわらかい味わいの中で、歯ざわり良く食感のアクセントになっている千切りの玉ねぎは、辛みも少なくむしろほのかな甘みを感じた。
またサラダの上に散らされた刻まれたゆで卵を一緒に食べることで、より一層食べごたえのある美味しさになる。
椿咲はその折り重なる素材の旨みを噛み締めて、うっとりと二口目を掬いながら感想を述べた。
「ポテトサラダは我が家の料理人も作れますが、このホテルのものは一流で、マヨネーズの出来からして違います」
フォークで運ばれるポテトサラダは温もりのある雪のように、白く輝き食べられるときを待っている。
皇国でも有数の資産家の一族に生まれた椿咲は、当然家でも優秀な料理人が作った料理を食べている。
だからこそ椿咲は、さらに優れた腕を持つ料理人の技を理解することができた。
会話の間をもたせるためではなく、本当に食べることにこだわっている椿咲は、隆司の存在を忘れそうになるほどに、目の前の料理に夢中になる。
そうして嬉しそうに前菜を味わう椿咲を呑気な顔で見つめて、隆司は適当に皿を空にしていた。
「椿咲さんは、すごいな。僕は良いものをたくさん食べさせてもらっているのに馬鹿舌で、卵かけご飯がこの世で一番美味しいものだと思っている」
隆司は浅い感動で、椿咲に感心していた。
馬鹿舌であるという自己申告が謙遜ではないことを証明するように、隆司は前菜のすばらしい品々をあまり味わってない。
大富豪の一族に生まれた人間として同じように日々美食に触れていても、隆司と椿咲では理解の深さがまったく違っていた。
しかし椿咲は、良家の子女として相手に話を合わせるように躾けられているので、隆司の食への姿勢を否定せずに頷いた。
「私も卵かけご飯は好きですよ。素材の質が問われて、奥深いです」
気を遣って受け答える椿咲に対して、隆司は別に本当に知りたいというわけでもないのに、ただ間をもたせるためだけに質問する。
「素材の質って、違いがそんなにわかるんだ?」
「香りとか甘みとか、いろいろ違いますよ。私は後味がすっきりしている卵が食べやすくて好きです。ゆで卵にしたときも、風味のふくらみが変わってきます」
椿咲は隆司にはきっと響かないとわかっていたけれども、訊ねられたので話す。
それから二人は、実りのないやりとりを続けた。
水のように飲み干されていく隆司のグラスに入った葡萄酒の味を想像しつつ、椿咲は次はスモークサーモンとともにポテトサラダを食す。
やわらかな薄紅色のサーモンのしっとりとした塩気のある旨味はポテトサラダの味を引き締め、とろけるようにのどを通っていった。
その味をより深く堪能できるように、椿咲はゆっくりと瞬きをする。
(やはり私は、呉服店よりもどこよりも、人が料理を食べるためだけに存在するレストラントが好きです)
鮮やかで綺麗な絵柄の柄の着物や、金銀で縁取られてきらきらと輝く宝石箱に入った装飾品。銀幕に映し出されるロマンチックな恋物語に、活字の文学作品が語る死の匂いがする悲恋。
椿咲はそうした女学校の同級生が少女らしく憧れているものではなく、食べることそのものが好きだった。
だから常に食が中心にあるレストラントにいる時間は、椿咲にとっては特別だった。
(同席している方とは話が合いませんが……。でもあんまり小煩い殿方よりは、適当な殿方の方が配偶者としては良いでしょう)
隆司が料理の美味しさを分かち合える人物ではないことを残念に思いつつ、椿咲は話の合間に天井で揺れているガラス玉を連ねた照明の飾りを見上げる。
洒落た着物の着こなしも、外つ国の建築家が精魂を込めた美しい建築も、椿咲にとってはすべてはより良い食事の瞬間を成り立たせるためにある。
他人が思うよりもずっと欲深い椿咲は、いつか誰も食べたことがない、他の何よりも美味しいものを食べてみたかった。
この世界にたった一つの、最高に美味しい何かが存在するのならば、椿咲はその価値を余すことなく理解できるように、できるかぎりの美食を知っていたい。
だから父親が決めた婚約者に多少意に沿わないところがあっても、恵まれた食生活を続けるためには目をつむるべきだと椿咲は思っていた。
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