3-2 使用人の待つ大邸宅
レストラントでの食事を終えた椿咲は、隆司の車で自宅に送ってもらう。
椿咲の自宅は父・
庇が突き出た車寄せに駐車された隆司の青いフェートンから降りて、椿咲は可憐にお辞儀をした。
「今日はありがとうございました」
「うん。僕も楽しかったよ」
二人は社交辞令的な言葉を交わして別れ、隆司の車は車寄せから門へと抜けて去っていく。
大地を凍らせる空気が火照った頬を冷やす冬の月夜に、橙色のヘッドライトが田畑を横切って遠ざかっていくのを椿咲は見送った。
明かりが見えなくなったところで、椿咲は踵を返して家の中に入ろうとする。
そこにちょうど、椿咲と同じくらいに小柄な人影が目の端に入る。
「
その人影が誰かすぐにわかった椿咲は、足を止めて呼びかけた。
生け垣の裏を通って勝手口の方へ行こうとしていた人影は、おずおずと椿咲の前に現れ薄闇の中で出迎える。
「おかえりなさいませ、椿咲様」
うやうやしく椿咲を様付けで呼ぶのは弥太郎という名前の使用人の少年で、筒袖の着物に股引という野暮ったい服装であるものの、分厚い眼鏡を外せばそれなりに可愛い顔をしていることを椿咲は知っていた。
(妙にばつが悪そうなのは、どうしてでしょうね)
弥太郎はなぜか、椿咲を前にするといつも緊張している。
もしかすると弥太郎は椿咲のことが好きでいつも見ていて、そのことが恥じているから今日もまた声をかけずに去ろうとしてたのではないかと、椿咲は理由もなく思っていた。
「別棟に行っていたのですか?」
「はい。風呂の調子が悪いと言われたものですから、様子を見てきました」
夜に出ていた理由を椿咲が訊ねると、弥太郎は俯きがちに答えた。
広大な敷地に建てられた霜山邸には本棟の他に別棟があり、椿咲の母亡き後に父が再婚した若い後妻が生んだ子どもたちはそこで育てられていた。
父と後妻は仕事のためによく二人で出かける夫婦であるので、幼い子どもたちは主に使用人によって育てられている。
弥太郎は主に本邸で働いている使用人であるが、呼ばれれば別棟で雑用をこなすこともあった。
気まぐれに使用人をからかってみようと考えて、椿咲は冗談を言って頷いた。
「そうですか。私は食い意地を張ってますから、月を食べたらどんな味がするのか、と考えていたところです」
白く輝く月光を背に、椿咲は微笑む。
話が続いたことが嬉しかったのか、弥太郎は心なしか頬を染めて目を上げた。
「月の味、ですか」
「はい。外つ国には月は新しいチーズでできているという、古いことわざがあるそうですよ」
井戸に映った月をチーズと間違えて落ちた狼の童話を、椿咲は幼い頃に絵本で読んだことがある。
椿咲は勘違いして井戸に落ちて死ぬ馬鹿にはなりたくない。
しかしもしも本当に月がテーズでできているのなら、椿咲はそのほの白い黄色を薄く切り、クラッカーに載せて食べたかった。
「新しいチーズ……。俺は普通に、月にはうさぎがいるものだと思っていました」
弥太郎は月をみているのか、椿咲を見ているのかわからない瞳で、椿咲の言葉に感じ入っていた。
霜山家の使用人として洋食の食材についての知識はあっても、根は庶民である弥太郎の発想は前時代的である。
椿咲はうさぎが餅をついているごく一般的な月の様子を思い浮かべ、搗きたての餅と同時にうさぎの肉の味について考えた。
「そういえば私は、うさぎは食べたことありませんね。どんな味なのでしょうか」
食べられるものはすべて食べてみたい椿咲は、無性に可愛らしいうさぎを食べたくなる。
東都で生まれ育った椿咲は、野生の鳥獣の味をそれほど知らない。
椿咲が好奇心に駆られていると、少々の間をおき、弥太郎が控えめに口を開いた。
「俺は北の田舎にいるとき、うさぎ汁にしたうさぎをときどき食べていました。骨が細かいんで食べづらいですが、やわらかくてとても美味しい肉です」
北州の農村の出身である弥太郎は、実食してきた者としての感想を椿咲に伝える。
その興味深い情報を聞き、椿咲はより一層うさぎの肉を食べたくなった。
「なるほど。教えてくださり、ありがとうございます。月は食べることができなくても、うさぎはいつか食べてみたいですね」
椿咲は舌なめずりがしたくなるのを我慢して、顔の前で冷えてきた手を合わせて弥太郎に微笑みかけた。
お礼を言われた弥太郎は、照れて恥ずかしそうにまた目を伏せる。
純朴な少年をからかうのはこれくらいにしようと、椿咲はそこで話をやめた。
「夜は冷えますから、もうそろそろ戻りましょうか」
嘘ではなく本当に寒くなってきた椿咲が内玄関へと歩きだすと、弥太郎も黙って頷きついて来た。
両親を早くに亡くした弥太郎は、北方の帝国との戦争で軍隊に行っていた兄を失い、故郷にいる幼い弟妹や祖母の生活のために東都に出稼ぎに来た苦労人である。
だから何一つ不自由のない裕福な都会の生活を送る椿咲にとって、まったく別の世界を知る弥太郎と過ごす時間はささやかで新鮮な楽しみだった。
(少なくとも、隆司さんと一緒にいるよりも面白いですからね)
本来は比べる対象にはならない婚約者を使用人と比べて、椿咲は良い気分になる。
その後すぐに内玄関に入った椿咲は、カーテンの隙間から橙色の明かりが漏れる屋敷の中の暖房の暖かさにすぐに冬の寒さを忘れて、ショールを脱いで弥太郎に預けた。
弥太郎は椿咲にとって、空気のように当たり前にいて役に立つ存在であった。
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