3-3 女学校にて
翌朝、濃紺のサージ生地のワンピースに臙脂色のネクタイを結んだセーラー服に着替えた椿咲は、トーストとハムエッグの朝食を食べた後に、運転手付きの黒塗りのセダンで女学校へ行った。
毎朝着る服を決めなくても良いので、椿咲は制服が好きだった。
椿咲の通う女学校は西洋の文化の影響を強く受けていて、丘の上に建てられた緑色の屋根と赤煉瓦の壁の対比の美しい校舎は、遠く離れた寒空の田園からでも目立って見えた。
その校舎の三階にある、同じ木の机が整然と並ぶ教室には、椿咲と同じ制服を着た同級生たちがいる。
背格好も顔立ちもそれぞれ違うはずなのに、どことなく似た雰囲気がある同級生たちは、可憐な青い花が描かれた一冊の
「こちらの麦穂書店の新刊の御本、皆さんはもうお読みになりましたかしら?」
「異国の宮廷のお話ですよね。華やかな世界に、うっとりしてしまいました」
本の持ち主らしい三つ編みの少女が期待のこもった瞳で集まった友人を見回すと、少々ふくよかな一人が簡単な感想を述べる。
周囲に立っている少女たちは皆わかった顔をしていたが、椿咲は読んだことがないので黙って椅子に座っていた。
(たしか複数の女性を誘惑する主人公の子爵の恋の駆け引きを楽しむ作品だったと、誰かが言っていた気がします)
大雑把なあらすじを聞いても、椿咲は恋物語にはまったく興味を持てなかった。
しかしある一人の小柄な少女は内容について議論したくて仕方がない様子で、熱っぽくまくしたてる。
「だけど主人公は酷い方でした。他に想い人がいるのに関わらず、暇を持て余して十五歳の淑女と関係を持ってしまうのですから。淑女として生きている私達にとっては、危険な男性です」
聞こえてくる言葉から察するに、同級生たちが読んでいる本は椿咲が想像しているよりもさらに爛れた男女の関係を描いたものらしかった。
大人たちが望むように生きている淑女であるならば、そうしたいかがわしい本とは関わりなく過ごしているはずである。
だがこの教室にいるのは趣味は違っても皆欲望に正直な者ばかりであるので、誰も破廉恥な内容の物語は読むべきではないとは言わなかった。
「確かにこの本の主人公は、女性たちに酷いことをしました」
本の持ち主である三つ編みの少女が大切そうに本を手に取り、深い想いに浸って息をつく。
「それでも私は、つまらない人に真剣に想われるよりも、素敵な男性に捨てられてみたいですわ。多少人格に問題があっても彼は、誰よりも魅力的に愛をささやきました」
存在しない男に恋い焦がれ、少女は甘い声で破滅を願っていた。
やや問題のある意見に、周囲の少女たちは無言になる。しかしその無言は肯定の意味を持っていおり、否定の結果ではなかった。
会話が一段落したところで誰かが、黙って座っている椿咲が昨日婚約者と二人で夕食に行ったはずであることを思い出し、話を転換する。
「素敵な殿方とのご結婚が近い椿咲さんは、こんな非現実的な夢想はしないのかしら」
その言葉が発された瞬間、全員の注意が椿咲に向いた。
どうやら婚約者との関係について話すことを、椿咲は求められているようだった。
隆司はひと目見ただけなら素敵な男性と言えるのかもしれないが、数時間話した椿咲はそうは思えない。
とは言えわざわざ他人に悪く言いたくなるほどの欠点があるわけではないので、椿咲は隆司の人柄にはふれずに質問に比喩で答えることにした。
「皆さんが仰っていることは、少しはわかります。物足りない食事で長生きするよりも、好きなもの食べて早死にしたい、というようなお話ですよね」
椿咲は真面目な本音で、答えたつもりだった。食を何よりも重んじる椿咲にとって、美味しい食事を食べられるかどうかは死生観に直結する問題であった。
しかし同級生たちにとってはその答えはどこかずれたものであったらしく、教室はゆるやかな笑いに包まれた。
「椿咲さんは、いつも本当に個性が溢れていますわね」
一番笑っていたのは、本の持ち主である三つ編みの少女だった。地味な外見に反して饒舌に、高らかな笑い声が響く。
理想の男性像についての議論を、椿咲が健康と食の問題に変えてしまったことを、彼女は面白がっていた。
(別に笑わせようとしたわけではないのですが)
言葉を尽くしても意図が伝わるとは思えず、椿咲は再び黙った。
教室の少女たちには話したいことがたくさんあるので、椿咲が何も言わなくても勝手に話題は膨らんでいく。
椿咲は周囲の会話に耳を傾けるのをやめて、緑色に塗られた窓枠から、ガラス越しの風景を見た。
外では冷たい木枯らしが、黄色に色づいたイチョウの木々の葉を落として、
季節が移り変わるように人生は進み、結婚すれば椿咲は女学生ではなくなる。
だが結婚をして隆司の妻として社交界に身を置くことになっても、おそらく今日と変わらない気持ちで生きているのだろうと、椿咲は悲観も期待もせずにいた。
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