3-4 レーズンバターサンド

 学校の授業を終えた椿咲は、登校時と同じように迎えに来た車に乗って家に帰った。

 生徒のほとんどが自家用車で送迎されている上流階級者のための女学校であるので、朝夕は常に車が校門の前で行列を作っている。

 しかし白い手袋をした車両の整理係が何人か道に立って適切な指示を出してくれるため、椿咲が乗る車は毎日問題なく家路につくことができた。


 時間割の関係で普段よりもやや遅い時刻に帰宅した椿咲は、女中メイドに荷物を任せると手を洗ってダイニングルームに直行した。


 直線的な模様のステンドグラスが庭の風景を飾るようにはめ込まれた窓から夕日が赤く差し込む部屋には、木製のハイネックの椅子と細長いテーブルのダイニングセットが置かれている。

 テーブルの上には黒釉の陶器でできた六角形の皿とティーカップが載っており、午後の茶アフタヌーンティーの時間のためにミルクティーとレーズンバターサンドがいくつか用意されていた。


(今日のお菓子はレーズンバターですか)


 干しぶどうが好物の椿咲は、窓からの景色がよく見える席に上機嫌で座った。

 沈みかけた太陽の光に眩しさはなく、茜色に染まった雲が流れていく様子は冬が深まる季節らしい風情がある。


 落ち着いた自然の明かりの中で、椿咲は丸く綺麗な卵色に焼けたクッキーに挟まれた、大粒のレーズン入りのクリームの白い断面をよく見た。

 そしてきちんと爪を切ってある指でバターサンドをつまみ、クッキーのざらついた手触りやクリームの重みを楽しみながら、そっとかじった。


 しっとりと焼けたクッキーはほろりと割れて、ほどよく冷たいクリームは手にした印象よりも軽く溶けていく。

 椿咲はなめらかなバタークリームの甘さと香ばしいクッキーの甘さが、それぞれを引き立てるように一つになるのを楽しんだ。

 時折クリームからのぞく大粒のラム酒漬けのレーズンは確かな食感で、香り豊かに菓子を味わい深いものにしている。


(この甘さ、この酸味。子供の頃から何回食べても美味しいです)


 ゆっくりと上品にまず一つ目を平らげると、椿咲はティーカップを手にしてミルクティーを飲んだ。メイドが淹れたミルクティーは濃い味の茶葉を使ったコクのあるもので、甘いバターサンドによく合った。


 椿咲が迷いなく二つ目に手を伸ばしたところで、広く開放的なダイニングルームにもう一人の人影がやってくる。


 真鍮のメタルボタンのついた濃紺のフランネルのブレザーを着たその人物は、椿咲の四番目の兄の邦匡くにまさだった。

 邦匡は一ヶ月会わなかったら家族でも顔を覚えていられなさそうほどに地味な顔立ちなのだが、仕立ての良い服をきちんと着ているので、それなりの外見の人物に見えた。


「邦匡お兄様も、お茶の時間ですか?」


 バターサンドにかぶりつこうとしていた手を止めて、椿咲は兄に訊ねた。

 邦匡は椿咲に向かい合うように窓を背にして席につき、顔に比べると印象的なすっきりとした美声で答える。


「ああ。ちょうど、仕事が一段落したところだ」


 事務仕事が得意な裏方気質の邦匡は、いつも家に残って父や上の兄に任された書類を片付けている。

 だから特別仲が良い兄妹というわけではないが、椿咲と邦匡が家で二人顔を合わせるのはめずらしいことではなかった。


 邦匡が着席するとすぐに、もう一組のティーセットを持った弥太郎がやってきて、うやうやしくテーブルに置く。


「また御用があったら、呼んでください」


 空のトレイを持った弥太郎は、一礼をして部屋を下がった。

 礼儀を欠かさない態度をとっていても、弥太郎は椿咲にあまり目を合わせず、その不自然さに何かしらの想いをにじませていた。


(想われているからと言って、何かが起こるわけではないでしょうが)


 婚約者がいる椿咲は、弥太郎の見えざる眼差しにも特に心動かされることなくバターサンドを口にした。バタークリームの旨みのある甘さが舌の上に広がれば、椿咲は他人のことは忘れてその美味しさを味わうだけになる。

 だが邦匡の声が再び、椿咲に菓子を食べる手を止めさせた。


「ところで一刻ほど前に、神祇省じんぎしょうの役人がお前に会いに来ていたぞ」


 邦匡は椿咲に用意されていたものと同じ、ミルクティーを飲みながら椿咲に話しかけていた。おそらく邦匡は、今日は休憩が目的なのではなく、伝えるべきことがあって椿咲に会いに来たのだろう。

 会社の仕事をしている父や兄にはよく客人が来るが、女学生の椿咲を訪ねてくる者はめったにいない。だから椿咲は首を傾げて、不思議に思った。


「神祇省ってあの、神様たちのお世話をしていらっしゃる省庁ですか? そんなところのお方が、なぜ私に?」


 皇国には生きた神々がいて、人間は神々に尽くすことでその祝福を受ける。古来から続くその習わしは皇国が近代国家となった今も行政機構に組み込まれていて、神祇省には神々に直接仕えている役人たちがいる。


 椿咲はそうした教科書で得た知識と、自分をつなぐ事柄がわからず困惑した。

 来客に対応した邦匡がすべて知っているものだと思って、椿咲は兄に質問を並べる。

 しかし邦匡もすべてを理解しているわけではないようで、はっきりしない言葉で大雑把な説明をした。


「その役人が言うには、なんでもお前を神喰いの花嫁とやらにしたいそうだ。詳しくは、また後日改めて来たときに話すと言っていた」


 「神喰いの花嫁」という言葉が何を意味しているのか、皇国の伝承や習俗に疎い邦匡はぴんときていない。

 一方で食に関することには少々詳しい椿咲は、その一言でほとんどすべてを理解した。


「神喰いの花嫁、ですか?」


「ああ、確かそう言っていた。私にはよくわからんが、卜占ぼくせんで選ばれた巫女のようなものだそうだな」


 椿咲がおうむ返しに繰り返すと、邦匡はティーカップをよく磨かれたテーブルの天板に置かれた受け皿に戻して呑気に頷く。

 事の重大さを兄に説明するために、椿咲は静かに息をつき、かしこまって口を開いた。


「神喰いの花嫁は、食を司る神であらせられる御饌都之宇迦尊みけつのうかのみこと様に嫁ぐ女性の名称です。生と死を繰り返す定めにある宇迦尊様の肉を食し、宇迦尊様の再生のために死ぬのが、その花嫁の役割です」


 食に関係する神の名前と人間との関わりはすべて暗記している椿咲は、本来は神祇省の役人が説明するはずだったであろう事柄をすらすらと空で語る。


 一方で椿咲の話に耳を傾けていた邦匡は、疑問が増えた顔をしていた。

 邦匡はバターサンドを片手に考え込み、まず一番に気になっているのであろう点について確認した。


「つまりお前は、国に死ねと言われていると」


「断ることはできると思いますが、そうとも言えます」


 肯定する椿咲の返事は、妙に晴れやかな響きになる。

 死を語っているのにも関わらず嬉しそうに見える妹の態度に、邦匡は怪訝そうに眉をひそめた。


「その神喰いの花嫁とやらになる話を、お前は受け入れるつもりなのか?」


 咎めるわけでもなく、悲しむわけでもなく、ただ理解できないという様子で、邦匡は椿咲を凝視している。

 椿咲は愛よりも何よりも美食を求める人間として、兄のまなざしに微笑み返した。


「宇迦尊様の肉は、この世の何よりも美味しいって言われているんです。私はその神様の肉を食べることができるなら、喜んで死にますよ。そんな素晴らしいものを食べられる機会は、他にありませんから」


 人生の決断を素早く済ませ、椿咲は少なくとも四番目の兄とは共有できないであろう想いを語った。


 誰も食べたことがない、他の何よりも美味しいものを食べるのが、椿咲の人生の最も大きな夢である。

 だから死んでしまうほどに美味しい神の肉を食べて満たされ死ぬ「神喰いの花嫁」の昔話は、椿咲が憧れることができる数少ない物語の一つだった。


(チーズでできた月と同じくらい、私は神様の肉を食べてみたいと思っていました)


 対価を払うことに迷いを持たず、椿咲は正式に話を聞く前にもう、神喰いの花嫁として神を食べて死ぬことを受け入れた。

 生きるために食べるのではなく、食べるために生きてきた椿咲は、最上の美味しさに触れられる機会を前に軽々と命を捨てる。


 妹の異常な食へのこだわりを、完璧ではないにしろ把握している邦匡は、何も反論はせずにティーカップの中のミルクティーに視線を落とした。


「本当にそうなるなら、父さんや兄さんたちに連絡しないといけないな。あとはお前の婚約者がいる結城家にも」


 邦匡以外の兄や父は、巨大コンツェルンの創業家に生まれた男として、皇国の各地でそれぞれの仕事をしている。だから家族が全員家に揃うためには、誰かが話をまとめる必要があった。


 さすがの椿咲も実の兄や父のことは、自分にとって大切な人たちとして覚えている。

 しかし婚約者の隆司のことは、すっかり失念していた。


(でもまあ、私と隆司さんは愛し合っているわけではないですから、どうにかなるでしょう)


 家族や友人のことを思い出しても決心が揺らぐことはなく、椿咲は兄の段取りの良さにお礼を言った。


「ありがとうございます。父様たちに伝える前に、明日にでもすぐに神祇省の方とお話しなければいけませんね」


 来客の目的が聞いていたものとは違う可能性を忘れず、椿咲は上品なセーラー服に似合った仕草でティーカップを傾ける。

 そして神の肉を食べることができるならなおさら、それまでに食への理解をより深めなくてはならないとバターサンドに向き合った。

 ステンドグラスの向こうの空はバタークリームの中のレーズンと同じ葡萄色で、次第に暗さを増していた。

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