3-5 別れの準備
神祇省の役人は翌日、今度は椿咲の下校時間に合わせて屋敷を訪ねてきた。
彼は椿咲が想定していた通りのことを言ったので、椿咲もあらかじめ考えていた言葉で答えた。
兄の邦匡も立ち会った上での意志の確認が済むと、正式な書類が交わされることで宇迦尊と椿咲の縁は間違いのないものになる。椿咲は願った通りに、神喰いの花嫁として神を食す未来を約束されたのだ。
東都に別れを告げて宇迦尊に嫁ぐのは約一ヶ月後の睦月の初めで、椿咲はその間に人に別れを告げたり、衣裳を用意したりしなければならない。
だから父と兄たちには、いつもよりも急いで家に集まってもらった。
邦匡が電報を打ってから五日たった夜の、半円の大きなブロンズ彫刻で飾られた暖炉を囲んだリビングに、椿咲の父と四人の兄が揃う。
オーク材のローテーブルや革張りの長椅子が置かれたリビングは開放的で広々とした造りだったが、自宅でもきちんとした洋装で過ごす親と子が並ぶと少しばかりの圧迫感がある。
(お父様とお兄様たちが全員いると、壮観ですからね)
手毬柄の錦紗を羽織った椿咲は、暖炉を背に置かれたソファに座る、父であり霜山家の当主である
向かって右手の長椅子には長兄の
椿咲が久々に会った三人の兄の名前を思い出している間に、事情をすべて把握している邦匡が状況を説明をしてくれていた。
かつては美男子だったらしいが、年をとった今はやや気の抜けた白髪の中年になった父・直智は、邦匡の話を聞き終えると椿咲の方を向いて大きく頷いた。
「神々と御縁を結ばせてもらえるのは、我が霜山家にとっても至上の栄光であり幸福だ。その上本人も乗り気ときたら、認めるしかないだろう」
直智は考えていたものとは違う娘との別れを惜しみ、その丸い瞳に悲しみをたたえていたが、椿咲が神に嫁ぐことを止めはしなかった。
腹違いの幼い弟妹がいる今はもう一人娘ではないが、直智は末妹として生まれた椿咲を、上の四人の息子よりも可愛がっている。
しかし可愛がっているからこそ、直智は椿咲が望むことをは何でも叶えようとした。
「ありがとうございます。お父様」
父親に首を横に振られたことがない椿咲は、願いを否定される可能性はまったく考えてはいなかったが、笑顔で感謝の言葉を述べる。
個人の命が何よりも尊いという西洋の思想が広まっても、皇国では神に選ばれることは人命以上に価値があるという信仰は根強く、娘を溺愛する直智であっても例外ではなかった。
またシャドーチェックのスーツで怜悧な印象に装う長兄の真匡も、常に利益と損失について考えている実業家らしく椿咲が神に嫁ぐ未来を評価した。
「財力があっても古い歴史がない我々には、思いもよらない僥倖だ。神祇省の卜占の結果に感謝して、妹を祝福しなければいけないな」
椿咲とは付き合いの薄い真匡の言葉は、父のものとは違ってほとんど切なさがなかった。
また兄弟の中で一番に大柄な身体をツーボタンのジャケットに包んだ三兄の輝匡は、ワインの入ったグラスを片手にやや太った指でテーブルの上に置かれた皿からイクラの載ったクラッカーをつまみつつ、椿咲に羨望の眼差しを向ける。
「正直、羨ましいな。俺だって美味しいものが好きだから、神喰いの花嫁になってみたかった」
椿咲と同様に食に重きを置き、目の前に食べ物があれば必ず手をつける輝匡を、次兄の貴匡は煙草をふかしながら茶化した。
「輝匡はどっちかと言うと、食べられる側じゃないのか。よく肥えている輝匡の肉はきっと霜降りだ」
甘く整った自分の容姿に自信がある次兄の貴匡は、息を吸うように他人を馬鹿にしていて、年に数回しか会わない妹の人生には興味を持たない。
貴匡に貶されることに慣れている輝匡は、兄の皮肉は気にせずにクラッカーを食べている。
一方で椿咲と過ごした時間が長い邦匡は、半ばふざけているようにも見える三人の兄の態度に苦言を呈した。
「兄さんたちはもう少し、まともな会話ができませんか? 椿咲が神喰いの花嫁になるということは、今生の別れが近いというわけですが」
至って真面目な意見を邦匡が述べると、他の兄たちも一応は黙って椿咲の様子を伺った。
それほど感傷的になっているわけではない椿咲は、軽く笑って首を横にふった。
「私は別に、気にしてませんよ。湿っぽいのは苦手ですから」
照れ隠しでも何でもなく、椿咲は妹に対してやや薄情な兄たちが嫌ではなかった。いつも自分勝手に生きている兄たちが、椿咲のために真剣になる様子は想像できなかったし、そんな態度をとられたとしたら気持ちが悪いとも思う。
子どもたちの会話を黙って聞いていた直智は、椿咲の正直な意見がわかったところで、ゆっくりと口を開いた。
「椿咲がそう言うなら、わしたちもより一層明るく送り出そう。娘が神様の花嫁になるなんて、とんでもなくめでたいことだからな」
直智は寂しさと嬉しさの入り混じったまなざしを、娘の椿咲に向けていた。
今日まで可愛がってくれた父親の気持ちを考えると、さすがの椿咲も感じ入るところはあるが、結局は今後知ることになる神の肉の美味しさへの期待が勝る。
(輝匡お兄様にも羨ましがられましたし、神様のいる神殿に行ける日が楽しみです)
話が一段落したところで、椿咲は輝匡が食べ尽くしてしまわないうちにテーブルの上のクラッカーに手を伸ばした。
薄く綺麗に焦げ目のついたクラッカーには、薄切りのチーズを敷いた上に小さなきらめきを零した赤いイクラが載っている。
兄たちと父が話す事柄は、椿咲の代わりに誰を結城隆司に嫁がせるかという議題に移っている。椿咲の腹違いの妹たちはまだ幼いので、分家の従姉妹の誰かという話になっているようだった。
椿咲は兄と父の会話を適当に聞き流し、イクラを落としてしまわないようにそっと、手にしたクラッカーを食んだ。
やがて皿が空になると、トレイを手にした弥太郎が来て下げて、また別の新しい軽食を置いた。
椿咲は弥太郎を横目で見たけれども、弥太郎は椿咲には視線を向けなかった。
その後もずっとそんな調子であるので、椿咲は自分が神に嫁ぐことについて、弥太郎がどう感じているのかはわからなかった。
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