2-9 車窓からの景色
瑶平を置いてレストラントを去った菫玲はその後、徒歩で鉄道の駅に向かった。
普段歩かない距離を歩いて疲れた菫玲が駅に着いたとき、ちょうど丸い二つのヘッドライトを光らせた夜行列車が止まったので、行き先がわからないまま乗車する。
神祇省の役人に会う明日の約束を破ることも気にせず、菫玲は神喰いの花嫁になるかどうかを考えることそのものをやめた。
(価値がないのなら、全部捨ててみれば良い)
菫玲は動き出した列車の揺れに身を任せ、座り心地がほど良い二等席に深く座った。
(全部捨ててみれば、最後に残るものがわかるかもしれない)
ひじ置きにほおづえをつき、他の客は皆寝静まった薄暗い車内の中から、目が慣れてくると意外と明るい月夜の空を見つめて冷たく微笑む。
死ぬ覚悟も、生きる執着も持たずに一人無為な移動を試みている菫玲は、生まれて初めて触れる孤独な自由に高揚感を覚えていた。
金銭面の面倒も見てくれていた瑶平に背を向け、評価されていた歌手としての仕事も捨て、神に花嫁として選ばれたことも無視した自分が、これからどうなるかはまったくわからない。すべてを捨てても結局、大切なことがわからないまま虚無感を抱えることになるのかもしれない。
しかし少なくとも今日このときは、速度を増す列車によって、恋人がいて家も職場もある西都の街から引き離されていくのが気持ちが良かった。
愛も、歌も、命も、神も。
与えられたものすべてを手放して、自分の中に何が残るのか、それとも何も残らないのか。菫玲は自分の限界を確かめてみたかった。
列車は市街地を抜け、田園地帯を抜け、幹線道路とも違う山中の線路を走っていく。
紅葉が終わりかけた山の木々の葉は、黄色や紅色に染まりきって散り、地面に降り積もる。
そうした移り変わっていく季節の様子が車窓の外を流れていくのを眺めて、菫玲はその景色の中に月明かりに照らされたささやかに薄紫の晩秋スミレを見つけた。
春に咲くものであれ、秋に咲くものであれ、菫玲は自分の名前の一部でもあるスミレの花を見るとあらたまった気持ちになった。
(そういえば私は船には乗ったことあるけど、列車は初めてかもしれない)
故郷では見えなかったスミレの花の色に、菫玲は昔から今日までのことを思い出す。
西都に来てからはいつも自動車にばかり乗っていたので、列車の乗り心地と車窓からの眺めは新鮮だった。
秋の夜更けの忍び寄る寒さに、上着がない菫玲は座席の上で身体を縮こませる。
菫玲はおそらく、きっと何かがほしかった。
しかし何がほしいのかは、考えてもわからなかった。
人は満たされたからこそ死を選ぶこともあるし、逆に絶望したからこそ生き続けることもあって、少なくとも菫玲はまだ満足してはいない。
だから菫玲は眠らずに、列車の走行音にかき消されて周囲に聞こえないくらいの大きさの声で、約八年ぶりに島の民謡を口ずさむ。
唄をうたいましょ、はばかりながら
唄のあやまり、ごめんなされ
島を出てからは一度も歌っていなかった曲なのに、調べも詞も自然と思い出せるのが不思議で、西都での暮らした記憶が幻のように薄く滲んでいく。
とはいえ幼かったときと同じように歌っても、菫玲はもう大人に手を引かれていた子供ではなかった。髪や目の色は変わらなくても、様々なことが違っている。
月夜を走る列車がどこへ行くのか、菫玲は知らない。
しかしこれからどこにたどり着いたとしても、そこは誰かに強いられたわけでもない、菫玲が望んだ場所であるはずだった。
やがて一曲分歌い終えたところで、菫玲はかすかに空腹を感じた。
それはおそらくパンケーキを半分残してレストラントを抜け出してきたからで、菫玲はもう少し食べても良かったのかもしれないと一瞬後悔しかける。
だがこれまでは常に何かしら食べ物をもらっていた菫玲は空腹にも自由を見出し、その可笑しさに安らいで目を閉じた。
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