2-8 甘いパンケーキ
終演後、瑶平は今日もまた迎えに来てくれて、菫玲を深夜も営業している高級店のレストラントへ連れて行った。
街の中心にあるそのレストラントは目新しい金属的な外観の平屋で、丸みを帯びた屋根には遠目からでもよく見える照明付きの看板が掲げられ、駐車場も広かった。
車から降りた二人は、入店して窓際の席に向かい合って座る。
白い布がかかったテーブルが並ぶ明るい店内は、夜ふかしをする着飾った男女が優雅に交際を楽しんでいて、人々が話す声の後ろにはラジオから流れるジャズの洋曲がかすかに聞こえた。
昼間の町中では目立つこともある菫玲のドレスと瑶平のスーツも雰囲気に溶け込む、異国の趣味が活かされた店である。
「俺は、ポークカツレツにしようと思う」
臙脂色の革張りの椅子に腰掛けて、瑶平は一枚の上質な厚紙に収まっているメニューを流し見た。
赤と黒の二色刷りで紹介されているメニューは、どれも西洋の献立を真似たもので、オムレツにハンバーグ、コーヒーにミルクセーキなど、
「じゃあ私はパンケーキにしようかな。今夜は甘いものの気分だから」
菫玲も特に何も考えずに注文を決め、女給を呼んで料理を頼んだ。
客席からは見えない店の奥で働く調理係の仕事は早く、注文した品はすぐに運ばれてくる。
「ポークカツレツと、パンケーキ、それからミルクセーキがおふたつでございます。ごゆっくりお召し上がりください」
瑶平が注文した千切りのキャベツと蒸かし芋が添えられたカツレツは、大ぶりで分厚い肉を低温でじっくりと揚げた一品で、こんがりと熱く香ばしく揚がった衣は黄金色に輝いている。
また菫玲のパンケーキも、丸く食べごたえがありそうな大きさのものが何枚も重なり、きつね色の表面にはとろりと甘い匂いのする糖蜜がかかって、さらには真紫のブルーベリーのコンポートと溶けかかったバターのかたまりも載っていた。
(全体的に、量が多い店なのかな)
周囲のテーブルで食べられている皿も同じくらいに大盛りであるのを横目で見て、菫玲はフォークとナイフを手に取った。
「それじゃ早速、いただきます」
菫玲はほどよいやわらかさに焼けたパンケーキにナイフを入れ、きつね色の表面を切って甘い黄色の中の生地の断面を見る。
そしてフォークで二、三枚をまとめて挿し、皿の底にたまった糖蜜によく浸して食べる。
(うん。甘いね)
卵と小麦を混ぜて焼いたふっくらと甘い生地が、琥珀色の糖蜜にしっとりと浸ってより一層甘くなって菫玲の口の中で広がる。
それは一口だけなら十分に満足できる味なのだが、最後まで美味しく完食できるかというと不安だった。
パンケーキにたっぷりと載せられたブルーベリーのコンポートも酸味よりも甘みが強く、バターのしょっぱい風味はほとんど砂糖の力に負けかけている。
飲み物で口の中の甘みを和らげようにも、瑶平がついでに頼んでくれたグラス入りのミルクセーキはこれもまたふんわりと甘く、冷たい氷が入っている点以外にさっぱりするところはなかった。
(これはつけ合わせがある分、瑶平のカツレツの方が食べやすいのかも)
菫玲は早くも味に飽きつつ、瑶平の方を見る。
しかし一人パンケーキを食べ進めている菫玲と違って、瑶平はカツレツに手をつけずに何か言いたげな様子で菫玲の様子を伺っていた。
フォークとナイフを握る手を止めて待っても瑶平が黙ったままなので、菫玲は料理を食べない理由を訊ねた。
「カツレツ冷めちゃうけど、どうかしたの?」
「……この機会に俺も改めて、君との関係のことを考えてみたんだが」
菫玲が急かしてやっと、瑶平は重々しい口調で話を切り出した。この機会というのはおそらく、菫玲が「神喰いの花嫁」になる機会を与えられたことだと思われた。
あまりにも瑶平が深刻そうな顔をしているので、菫玲は別れ話を切り出されるのだと考えた。
しかし瑶平が言おうとしていたことは菫玲が身構えていたこととは違ったようで、瑶平はチャコールグレイのスーツの内ポケットから小さな箱を取り出した。
「俺は、君とこの先もずっと一緒にいたい。君を幸せにできるかどうかはわからないけど、君がいれば俺は幸せだから」
瑶平はこれまでとはまた違う真剣さのある眼差しで、菫玲を見つめていた。
唐突な告白に何も言えない菫玲は、とりあえず箱を受け取り中身を見た。白くしっかりした素材で作られた箱の中には、純金の指輪が入っていた。
「これはもしかして、結婚したいってこと?」
勘違いで話を進めては恥をかくと、菫玲はまずは瑶平の意図を確認する。
瑶平は黙って頷き、テーブルの上に置かれた箱の中から指輪を取り出して菫玲の左手を取った。瑶平の手は汗をかいていて、緊張しているのだと思われた。
指輪を菫玲の薬指にはめようとしたところで、瑶平は手を止めて目を上げた。
「嫌なら、また箱に戻すが」
自信がなさそうなささやき声が、菫玲の意志を訊ねる。
菫玲が神に嫁いで死ぬ決心をしていたことを、瑶平はおそらく知らない。しかし瑶平は恋人の心がどこか遠くの方を向いていることは気づいていて、何とかして菫玲を引き留めようとしていた。
(私と瑶平は他人同士だから安心できていたはずなのに、瑶平は私が他人じゃ嫌になったんだ)
想いがすれ違ったなら、別れるという選択肢もあったはずである。
しかし戦場で死に損ねながら、軍人として生き続けることもできなかった瑶平は、たった一つの人生の慰めを失うことを恐れて、菫玲の愛を求めている。
本当は数ある選択肢の中から菫玲を選んでくれた瑶平を、もっとありがたがるべきなのかもしれない。だが菫玲は変わったのは自分が先であるのに、瑶平の眼差しに以前にはない必死さがあることを悲しんだ。
それでも菫玲は物をもらったらまず感謝しなければならないと反射的に考えて、気づけばお礼を口にしていた。
「ありがとう。嬉しい」
菫玲の声は思ったよりも明るく、本当に喜んでいるようにやわらかく響く。
その受け答えに瑶平はすっかり受け入れられたものだと思ったらしく、安堵した顔で菫玲の指に指輪をはめた。
瑶平の熱い想いに反して、店の照明に輝く純金の指輪の感触は冷たい。
その瞬間に菫玲は、もはや自分には「神喰いの花嫁」として死ぬ気持ちがなくなってしまっていることに気づいた。
損得の勘定がずれだして、死んでも良いと思っていたはずの計算はあっさりとなかったことになり、逆の選択に菫玲を導く。
瑶平と一緒に生きたいと思ったというわけではない。菫玲はむしろ、目の前の男のために自分が死ぬ価値がないと思っていた。
(瑶平だけじゃなくて、お客さんの拍手も、指輪も、神様も、何もかもに価値がない)
これまでの人生において菫玲は、あらゆるのものを勝ち取ってきた。他の者が手に入れることができなかったものを得られたのなら、それはきっと価値があるはずであり、与えられた幸運に感謝するべきだと信じていた。
しかし冷静になってあまり帰りたくはない自分の家を思い出して見れば、そこにあるのは何の思い入れもない色褪せたがらくたばかりで、菫玲は自分が心から大切だと思えるものを何も持っていなかった。
(瑶平に愛されなくなる日が来たら、どうしようかと思ってた。でも本当は、私が瑶平を愛せなくなる心配をするべきだったんだ)
永遠を手に入れたと信じて微笑む瑶平の優しげな顔と向き合い、菫玲はその永遠を信じることができない自分の不誠実さに涙を薄く瑠璃色の瞳に浮かべた。
おそらくこのまま瑶平と結婚すれば、死ぬまである程度は大切にしてもらえるだろう。しかし多少は愛が薄れたとしても瑶平が裏切る男ではないことが確信できるからこそ、菫玲はその約束された未来が耐えられない。
(だって私は、最初から愛していたかどうかもわからないんだから)
菫玲の手元の銀色の皿には、甘くて美味しくて、しかしすぐに食べ飽きてしまいそうな味のパンケーキが載っている。
その糖蜜でべたべたとした甘さが本当に嫌になってしまう前に、自分で終わらせてしまえば良いのだと菫玲はそのときにはもう気づいていた。
だから菫玲は理由はどうであれ涙ぐんだことはには違いない目元を片手で隠して、ハンドバッグを手にして席を立った。
愛された分何かを返さなくてはならないという思い遣りを捨てて、ただ自分自身だけに正直になる。
「ちょっと、化粧直しに行ってくるね」
嘘で震えた声で、菫玲は席を離れる理由を取り繕った。
相手が後ろめたさによって泣いているのだとは知らないまま、瑶平は穏やかに菫玲の背中に返事を返す。
「ああ、わかった」
そのちょっとした一言が最後に交わした言葉になることを、菫玲だけは知っていた。
菫玲は混み合った店内の奥へと進み、まずは本当に化粧室へ向かった。
そしてそこで用を済ませ、そのまま席には戻らずに店を出る。
瑶平が待つ席は出入り口から遠く、また化粧室とは反対側に位置していたので、菫玲は明るく照らされた店内とはガラスで隔てられた外の暗闇へと、気づかれずに出ていくことができた。
こうして菫玲はテーブル席に革のカバート・コートを残したまま、深緑色のシャツワンピース姿で街の明かりの中に姿を消した。
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