2-7 廻る舞台

 「神喰いの花嫁」になるか否か、神祇省の役人に伝えなくてはならない期日の前日の夜も、菫玲は特別なことはせずに過ごしていた。

 電話で呼んだタクシーで、小雨の中いつもと同じように店に着いた菫玲は、重役出勤のタイミングで守衛が立って見張る楽屋口を通る。

 自分の個人楽屋まで行く廊下の途中には踊り子の若い女の子たちがギャザーでボトムを膨らませた黒いバブル・ドレスの衣装に着替えて待っていて、菫玲の姿を見つけると礼儀正しくお辞儀をした。


「おはようございます、菫玲さん。今日はよろしくお願いいたします」


「うん。今日は、あなたたちが私の後ろで踊ってくれるんだね」


 菫玲は花形歌手らしく大きく構えて、頼れる先輩として微笑む。

 髪も肌も瑞々しく輝く女の子たちは、声を揃えて返事をした。


「はい。頑張ります」


 女の子たちが憧れの眼差しで見てくれるので、菫玲は気分良く自分の楽屋に入って電灯のスイッチを入れた。

 終演後に毎日誰かが片付けてくれる楽屋は自宅と違って居心地が良くて、テーブルには水差しキャラフに入った飲み物と軽食として紙に包まれたフルーツパイが置いてある。

 菫玲は水差しキャラフからグラスに冷えた水を注いで飲み、リンゴとラズベリーが入ったフルーツパイを一切れだけ食べた。


 手早く小腹を満たしたところで、衣装係の女性がやって来て、舞台に上がる準備が始まる。


「今日のお衣装は、こちらの新調したものです」


 裁縫道具を入れたポーチを腰に下げた動きやすい服装の衣装係の女性が、自慢げに運んできたトルソーから衣装を外す。

 それは裾全体に薔薇の造花の飾りを目一杯につけた漆黒のコルセットドレスで、揃いで作られたレース付きの小ぶりなトークハットが添えられていた。


「なかなか、良いんじゃないの?」


 菫玲はドレスのジャガード生地の細かく織り込まれた文様をさわって確認して、衣装係の仕事を褒めた。

 それから家から着てきた深緑色のシャツワンピースを脱ぎ、ドレスに着替える。足元は素足を宝石ビジューが華やかに飾るサンダルで、金色の髪はトークハットに合わせて上品にコテで巻いてまとめてもらった。


 最後は鏡を囲むライトがまぶしいドレッサーに座り、引き出しに詰め込まれたたくさんの化粧品の中から自分の手で使うものを選んでメイクをする。

 それらの化粧道具もまた、自分で買ったものではなく贈り物としてもらったものだ。


(私は、私が美しいことを知っている)


 椿の花が描かれた小さな容器にそれぞれの色が収められた七色の粉白粉から、舞台照明の色に映えるものをパフにとって塗り、舶来品のマスカラや眉墨で青い目がより美しく見えるように華やかにする。

 そしてオペラピンクの頬紅を頬と耳たぶに足し、最後に金属製の筒型の容器に入ったリップスティックの口紅でくちびるの形を濃くはっきりと描いた。


「今日も、素敵ですよ」


 化粧を終えると、衣装係の女性が菫玲の頭に黒いトークハットを被せて自らが作り上げたものに満足する。

 完璧な角度でドレッサーの鏡の中に収まっている、派手な化粧が調和した目鼻立ちのくっきりした自分の顔を一瞥し、菫玲は立ち上がった。

 媚びない華やかさのある漆黒のドレスは、長身の菫玲のきりりとした美しさを引き出して、立ち姿も様になっている。


「私はこの街の誰よりも美人で、歌が上手いからね」


 菫玲も衣装係の女性も、今この瞬間の自分の仕事に自信を持っていて、他の美しくないものたちに勝利している。


(でも私が嫁ぐことができる神様は、私よりもずっと綺麗なんだろう)


 神祇省の役人に会ったその日から、常にどこかで意識し続けている見知らぬ神について、菫玲は楽屋を出て舞台裏の廊下を歩きながら思いを馳せる。

 この世界にいる神々はたいてい美しい姿をしているそうなので、菫玲を花嫁にしようとしているらしい神も、神々しい美貌を持っているものと思われた。


 人間である菫玲がいつかは失うものを、永遠の輪廻の中を生き続ける神は持ち続けている。

 だからその神の肉を食べて死んだのなら、菫玲は永遠に美しい存在でいられるのかもしれないとふと思う。


 化粧品に服。宝石にお菓子。


 菫玲は今まで数え切れないほどの贈り物をもらってきたれども、きっと神の肉が与えてくれる永遠が一番価値があるものなのだと、そんな考えが頭をよぎる。


(それに私が今死ねば瑶平も悲しんでくれるし、ちょうど良いよね)


 悲しむ人がいるから死ねないのではなく、悲しむ人がいるからこそ安心して死ねるという発想になるのが、菫玲だった。

 また菫玲が神喰いの花嫁になって死んだのなら、瑶平は綺麗なまま死んだ恋人を手に入れたことになり、その像はこの先もずっと失われることはない。

 意外とそれは、双方に利益がある選択であるように思える。

 こうして物事に序列がついた瞬間に、菫玲はあっさりと答えを決めた。


(だったら私はありがたく、神様の肉を食べさせてもらおうか)


 菫玲は何の得にもならないなら、死ねと言われても絶対に断る性分である。

 だが損得の勘定をして、なるほど死んだ方が得だと感じたのなら、菫玲は迷わず命の対価を支払う。

 菫玲は近代人らしく何事も利害関係で考えて、信仰や道徳は当てにしない。


 すっきりと迷いがなくなった菫玲は、改めて自分が今立っている舞台裏の空気を深く吸った。

 あちこち走り回っている裏方の助手も、出番を終えたり待ったりしている他の歌手や踊り子も、舞台で奏でられている音楽が響く薄暗い廊下を女王のように歩く菫玲の美しさに目を奪われて見つめる。


 彼らの視線を意に介さず通り抜け、菫玲は最初の出番を見計らって、今はまだ舞台装置の影に隠れた廻り舞台の一画に置かれた小道具の椅子に足を組んで座る。

 舞台装置を挟んだすぐ後ろで前座の歌手が歌っている歌は、ささやくように可愛らしい声のバラードで、菫玲は自分が一番美しく見える姿勢で曲の終わりを待った。


 舞台袖には、菫玲の歌う途中から現れることになっている若い踊り子の女の子たちが控えている。

 そして歌い出す瞬間の表情を作りながら、菫玲は自分の人生を映画のように振り返り、今自分がしようとしている選択の先にエンドマークを見る。


(人間はいつ死ぬかわからないから、できる限り私のそばにいてくれるって瑶平は言ってた。それなら私は、瑶平の期待している通りに、突然綺麗に死んであげよう)


 瑶平が愛してくれている度合いに見合った愛情を持っていないことに、菫玲は不公平な取引をしているような負い目を常に持っていた。

 そのため菫玲は、戦場の無意味な死とは違う、意味のある死を見せて美しい思い出になることが、瑶平の愛に応えてその虚ろを埋め合わせる方法なのだと考えた。

 またこのまま神様に嫁いで死んでしまえば、菫玲はずっと先の未来にしか死ねない可能性を心配しなくても済むはずだった。


 だからきっとこの選択は瑶平と自分にとっての最善なのだと、菫玲は確信する。

 瑶平は人が死ぬ物語が嫌いだと言っていた。

 しかし嫌いということは、本当は好きでもあるはずだと菫玲は思った。死を恐れば恐れるほど、人は命以外のものが大事なるものなのだ。


 荒れ果てた温室を模した舞台装置を載せた舞台が廻り、白く熱い照明が喪服のように黒い衣装を着た菫玲を咲き誇る花の精として照らす。

 その一夜の夢のような光景に向けられた拍手喝采にかき消されることのない声量で、菫玲はいずれ散りゆく花が最後に望む恋の歌を歌い出した。

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