2-6 自動車と本と
神祇省の役人の青年が突然訪ねてきた日から二日後の、店の仕事がない休日の朝。
菫玲はアパートの階段を下りたエントランスで、瑶平の迎えを待っていた。
その日は元々、休みの日は恋人らしく二人で海の方に出かけようと約束をしていたのだ。
(天気は悪いけど、雨は降らない予報だったから大丈夫だよね)
襟や袖が毛皮で縁取られた珈琲色の厚手のツーピースに黒い
秋のひつじ雲というには分厚く波打った雲が、白く空を覆う様子は冬が近いことを感じさせ、実際日差しがないため肌寒い。
通りを走っていく他の自動車をしばらく見つめていると、サンド・ベージュの瑶平の車が軽快なエンジン音と共にやって来て、路肩に寄せて止まる。
ドアを開けて菫玲が乗り込むと、白いスポーツジャケットで休日にぴったりの装いになっている瑶平が車内に待っていた。瑶平は軽く菫玲の頬に口づけをすると、すぐにそのまま運転に戻った。
「今日はめずらしく、俺がお前を待たせたな」
「まあ、そこまで待ってないけどね」
ハンドルを握り直して軽口で挨拶をする瑶平に、菫玲は金髪に映える
瑶平は市街地の脇を通る幹線道路へと車を走らせて、国道の白と黒の案内標識が指し示す海の方角へ行く。
ほどよく空いている道の車の流れに合わせてギアを上げ、瑶平は視線を前方に向けたまま菫玲に話しかけた。
「君の家に来たらしい神祇省の役人。名刺から調べて確認してみたが、本物だったよ」
瑶平がまず菫玲に伝えたのは、先日相談した神祇省から来た青年についての情報である。
自分の身に何が起きているのか整理するために、菫玲は瑶平に青年が残した名刺を見せて相談していた。
「やっぱり、偽物ではない気がしてたけど」
菫玲は青年が本物の役人であることは信じていたが、彼と話していると騙されているような感覚にもなっていた。
だからとりあえずまず瑶平に話してみたのだが、それで何かためになったというわけでもない。
「でも君は、断るつもりなんだよな。その神喰いの花嫁とかいうものになること」
菫玲が瑶平以外を選ぶ可能性をまったく考慮していない様子で、瑶平は真っ直ぐな道を車で進む。
菫玲は今のところ嫁いだ神を食べて死ぬ存在になるつもりはなかったが、即決できるほどの意志がないことは黙った。
ふと視線を落として、菫玲は瑶平の車のダッシュボードを見る。
そこには金色の箔押しの文様がお洒落な革のブックカバーがかけられた一冊の文庫本が置かれていて、菫玲は特に考えもなくその本を手に取った。
「瑶平って、本も読むんだ」
「ああ。ちょっと評価されているらしい外つ国の小説で、本屋に積まれていたから買ったんだ」
菫玲がぱらぱらと中をめくると、瑶平はそれほど楽しくはなさそうな顔をしてその本を選んだ理由を説明する。
その様子を菫玲は不思議に思ったが、漢字が多く文字が詰まった活版印刷の頁を見ていると車酔いしそうになるので、素直に読者である瑶平に内容を訊ねた。
「私には読めなさそうだけど、どんなあらすじの本なの?」
菫玲は絵や写真の多い雑誌ならまだ読めるが、文字しかない本は読めない。
しかし芸はあっても学のない菫玲と違い教養のある瑶平は、難しそうに見える本の内容もわかりやすくまとめてくれる。
「自分の良心や美徳を守って生きようとする少女がどんどん不幸になって死んで、悪徳に走ることに迷いのない少女の姉が幸せに生きていく話だな。気が滅入るような内容で、正直俺はあまり好きじゃない」
瑶平は楽しくなさそうな横顔をさらにしかめて、分厚い文庫本のあらすじを端的に説明する。
(まったく好きになれない本を、瑶平はなんで読んでるんだろう)
気に入らない本を嫌々読む理由は、菫玲には少しもわからなかったが、何かしら褒めるべきところはあるのだろうと思って話を続ける。
「でも外つ国で評価されているくらいには、面白いんだよね」
「そうだな。面白いことは面白い」
瑶平は遠い目でどこかを見て、内省的な表情で頷いた。そして菫玲に語ると言うよりは、何かに願うようにつぶやく。
「でも俺は現実が暗いんだから、物語の中くらいは人が死なない明るい話で救われたい」
言っていることはごく普通のことだったけれども、戦場でたくさんの不幸を見た瑶平の実感のこもったその言葉には心からの祈りが込められているものだと思われた。
だが菫玲はその瑶平の真っ当な理屈にはあまり納得できなかったので、ごく気軽に反論を加えた。
「え、だけど自分が救われないなら、誰かが救われる物語を読むのは嫌じゃない? 私だったら、不幸そうな話の方が安心できそうな気がするけど」
文庫本を閉じてダッシュボードに戻し、菫玲はマスカラで華やかにした目元で瑶平を上目遣いで見つめる。
「不幸な人の話を読んで幸せじゃないのは私だけじゃないんだと思えた方が、きっと気分が良いよね?」
菫玲自身は今の自分が不幸だと思っているわけではないし、不幸な物語を好むわけではない。しかし菫玲が自然に思う論理では、瑶平とは逆の結論になる。
あっけらかんと恋人の考えを否定する菫玲に、瑶平はかすかに動揺を見せた。
「菫玲は、そういう考え方をするんだな」
少々恐れるように菫玲を脇目に見た瑶平はそのまま何も言い返さなかったので、議論は短い一往復で終わった。
不幸を語ることが救いだと考える女と、幸せを語ることが救いだと考える男。
菫玲と瑶平の立場はまったくの逆で、重なるところはなかった。
他に何か話題を探そうと、菫玲は車窓から、西都の中心部から離れて田園風景になってきた景色を眺めた。
(ここらへんは、島とそう変わらない雰囲気だな)
洗練された外国車に乗る瑶平と菫玲の二人は、車に見合うように
稲刈りも稲架掛けも終えてすべてが刈り取られて、がらんと殺風景な田んぼをガラス越しに見つめる。
そこで菫玲は、瑶平の過去に関する一つの疑問が頭に浮かんだ。
それは普段なら、口にはせずに飲み込んでいた問いだった。しかしなぜか今日の菫玲は、気づけば瑶平に呼びかけていた。
「ねえ」
はっきりと響く菫玲の声に、瑶平の瞳が反応する。
それから菫玲は少々気まずくなったついでに、絶対に気まずくなることがわかっているから避けていたけれども、ずっと気になっていた質問を瑶平に向ける。
「瑶平は、戦争で人を殺したことがあるの?」
自分にも多少は思いやりというものがあると自負している菫玲は、いつもよりは神妙な面持ちで、なるべくふざけずに訊ねた。
呼びかけに気づいているのだから、質問も聞き逃してはいないはずである。
だが瑶平は何も言わずに、ただハンドルを握って運転を続けていた。
返事が返ってこないので、菫玲は横を向き、瑶平の様子を伺うことで答えを探す。
菫玲とは違う、格式のある名家に生まれた者らしい瑶平の鼻筋が通って賢そうな横顔は、恥じて後悔しているように見えた。
戦争で人を殺したことが恥なのか、殺していないことが恥なのか。
その答えは、戦場に行ったことがない歌手の菫玲にはわからなかった。
二人が乗っているサンド・ベージュの外国車が走る国道は、やがて海岸沿いの断崖の道につながり、そこから海が見えるはずだった。
しかしその日は崖のどこかで落石事故があったらしく、途中で通行止めになっていたので、潮の匂いがする前に引き返すことになった。
二人は道の途中のしなびた食堂で場違いな気分になりつつも魚の煮付けの定食を食べて、あとは特に何もせずに家に帰った。
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