2-5 役人の訪問

(仕事の時間にはまだ早いのに、誰だろう)


 菫玲はソファから起き上がり、手ぐしで髪を直しながら、壁にかけた部屋の時計を確認する。

 クロームメッキの文字盤を回る時計の針はまだ正午を過ぎたところを指していて、出勤時間は遠かった。

 部屋中を占拠している衣装ケースの間をすり抜けて、菫玲は洋室から玄関の方へ出ていく。


「はい、どちらさま?」


 呼びかけと同時に、ドアを開ける。


 菫玲が外を覗いてみると、玄関前には見知らぬ背の高い青年が立っていた。

 仕立ての良い茶色のピンストライプスーツを着た青年は菫玲より一回りは年上に見えて、どことなく自尊心が高そうな微笑みを浮かべている。

 後ろで束ねた黒髪は若々しく艶があり、色黒で彫りの深い顔の造形は一度見れば記憶に残るはずの美形である。

 だからその顔に見覚えがなかった菫玲は、青年が家に来た理由の検討もつけられずに不思議に思った。


(一体、この人は何なんだろう)


 青年に名前を訊ねようとして、菫玲は口を開きかける。

 しかし菫玲が問いかける前に、青年はにこやかに挨拶をした。


「こんにちは、阿佐香菫玲様。突然のご訪問、申し訳ありません」


 青年は丁寧な言葉遣いで菫玲の姓と名を呼んで、うやうやしく会釈をする。そしてスーツの胸ポケットから革製の名刺入れを手にして、上質紙を使った名刺を差し出した。


「僕は神祇省じんぎしょう典客官てんかくかんという役職を務めております、津雲つぐも由貴斗ゆきとと申します」


「神祇省の、典客官?」


 由貴斗と名乗る青年が語る聞き慣れない肩書に、菫玲は眉をひそめる。

 神祇省が皇国に住む神々に関わる業務に携わっている省庁であることくらいは、菫玲も常識としてわかっている。

 しかし菫玲はそう信心深い方ではないので、実際に神々と国家の間にどのような関係があるのか、詳しくは知らないし興味もなかった。


 本物らしく立派な名刺を受け取っても敬意を払わない菫玲に、青年は余裕のある態度を崩さずに微笑んだ。


「すべてをご説明するには少々お時間がかかりますが、この後のご予定は大丈夫ですか?」


 青年は菫玲の背後を見やって、家に上がって話をしたそうにする。

 菫玲は正直に言うと玄関でのやりとりですべてを終わらせたかったのだが、仕方がないので青年を中に通した。


「じゃあ、こちらにどうぞ」


 菫玲は扉を大きく開いて、青年を手招きした。


「ではお言葉に甘えて、お邪魔いたします」


 青年はあまり遠慮はせずに敷居をまたぎ、物が散乱している玄関で靴を脱ぐ。

 玄関と同様に、収納に物が収まり切っていないキッチンや廊下を興味深げに見つめて、青年は菫玲の案内に従った。


(人が来るとわかっていたら、私だってもう少しごまかしておいたのに)


 普段は自分に自信があり、恥ずかしがる機会が少ない菫玲であっても、片付いていない自分の家を見られるのは羞恥心を刺激される。

 客人の顔に目隠し用のずた袋を被せたい衝動に駆られながらも、菫玲は郵便物が重なったままになっているダイニングテーブルの下から揃いの木製の椅子を引き出し、青年と向かい合って座った。


 閉まりきらないチェストや、物を引っ掛られて本来の用途を忘れさられている電気スタンドに囲まれた洋室の中であっても、青年は宮殿にいるかのように優雅に姿勢良く着席していた。


「それで、あなたが私の家に来たのはなぜ?」


 茶や菓子でもてなすという気遣いもなく、菫玲は青年に用件を訊ねた。あまり青年に長居をしてほしくない菫玲は、前置きもしない。

 しかし青年は菫玲に急かされても、自分の段取りで説明を始めた。


「先程お伝えしたように神祇省の典客官である僕は、御饌都之宇迦尊みけつのうかのみこと様の神殿である甘醒殿かんせいでんで、神々の客人等をお迎えするお仕事をさせていただいております」


 青年はまず自分が何者であるかを、菫玲にわからせるために詳しく話す。

 神々の名前をほとんど知らない菫玲は、青年が言っていることのすべては理解できなかったが、青年が重要な役割を果たしていることは察した。


(お客さんを迎えに来るのが仕事ということは、私が神様を祀る儀式に歌い手として招かれたとか、そういう話なのかな)


 菫玲は、青年の仕事と自分の接点を予測した。

 しかし青年が涼しい顔で話し始めた本題は、菫玲の想像を何重にも超えるものだった。


「今日は菫玲様が宇迦尊様の来季の花嫁に選ばれ、甘醒殿にご招待されたことをお伝えするために伺いました」


 青年は長いまつげに縁取られた形の良い瞳で、菫玲を面白がるように捉えていた。

 唐突に見知らぬ神との縁談について聞かされた菫玲は素っ頓狂な声を上げ、きっと相手に対して失礼になるのであろう態度をとった。


「はあ? 私が神様の花嫁って、どういうこと?」


 菫玲は歌手であるので、儀式か何かのために歌を奉納しろという話ならまだ、すぐに受け入れられる。

 しかし自分が花嫁として神に嫁ぐというのは、菫玲の理解の範疇を完全に超えていた。


(いやいやだって、おかしいでしょ。神様のことなんか普段から全然考えてなくて、お賽銭だってめったに投げない私が、神様と結婚なんて)


 菫玲も皇国に生まれた者であるので、自分たちの生活の延長線上に神々がいること自体は疑ってはいない。

 しかし本当に自分の人生に神々の意志が関わっているのだと考えたことは一度もなかったため、突然の不可解な縁談に混乱する。

 理解が追いつかない菫玲に対して、青年は落ち着かせるどころか、さらに動揺させることを言った。


「はい。宇迦尊様と結ばれるのは、ただの花嫁ではありません。あなたはその命と引き換えに、神の肉を食すことができる『神喰いの花嫁』に選ばれたのです」


 青年が朗らかな声に似合わない、陰惨な言葉を冷たい部屋に並べる。

 少女が神の肉を食べる昔話を祖母から聞かされた記憶があった菫玲は、青年が使う「神喰いの花嫁」という言葉の意味を説明されて何となくは把握した。


 食べられることで再生する神が現実にいるのなら、神を食べて死ぬことになる少女もいるだろう。

 だが昔話は昔話であり、自分が今生きている近代的で異国の影響が強い生活は、神々のいる世界から遠く離れているように思える。


「でも私は夜の店の舞台で歌う歌手で恋人もいるし、神様に嫁げるほど清らかで純真じゃないから……」


 菫玲は清純とは言えない自分の職業を盾にして、青年の話す不可解な案件からおそるおそる距離を置こうとした。

 そうした菫玲の努力を軽々と交わし、青年は商品に自信がある営業担当者セールスマンのように、満面の笑みを浮かべた。


「ご安心ください。神喰いの花嫁を定めることができるのは神祇省の卜部うらべ卜占ぼくせんの結果だけであって、職業や年齢、出自などは何も関係ありません」


 そして偉大な神々の前ではか弱い人間は皆平等なのだと自慢気に話した後、青年はまた別の倫理を持ち出して付け加えた。


「もちろん我が国は人権を尊重する近代国家ですから、菫玲様がお命を失いたくなかったり、すでに将来を決めた大切なお相手がいらっしゃるのであれば、宇迦尊様とのご縁をご辞退することは可能です」


 机の上に置いた手を軽く組み、青年は穏やかだが妙な力のある声で菫玲に語りかける。

 菫玲は青年の言葉を頭の中で繰り返し、自分が今直面している情況を何とか飲み込もうとした。


(要するに私は、神様を信じて死ぬか、自分のために生きるか選べられるってことでいいの?)


 聞かされたことを単純化して、考える必要のあることを考える。

 信心深さのない菫玲は、神の伴侶になって死ぬことが、それほど幸せだとは思わなかった。

 しかし世界中の何よりも美味しいらしい神の肉を食べることができる機会を、貴重な贈り物の一つだと捉えるのであれば、断ってしまうのももったいない気がする。


(こんなこと、急に言われたってわかんないし)


 面倒な話を持ち込まれて、菫玲は不機嫌になった。何が何でも死ねと命令されるのなら悩まなくて済むが、自分で考えて決めろいうのは何かを試されているようで困る。

 だから菫玲は今ここで考えをまとめることを諦め、慎重に口を開いた。


「……少し、考えさせてもらえる?」


 反応を待つ視線を感じつつ、菫玲は目を伏せて答えを先延ばしにする。

 青年の話だけで雰囲気に流されて選ぶのは、しっくりこない気がしていた。

 結論がすぐに出ないことは想定の範囲だったらしく、青年は嫌な顔はまったくせずに頷いた。


「かしこまりました。また一週間後に伺います。もしも早めにお気持ちが決まったのなら、先程お渡しした名刺に記載されている連絡先にご一報お願いいたします」


 丁寧な受け答えを残して立ち上がり、青年は何が入ってるかわからない木箱で溢れかえった廊下から玄関の靴の山を通って去る。


「それでは、お忙しい中、失礼いたしました」


「はあ。じゃあ、また」


 来たときと同じように姿勢良く出ていく青年を見送り、菫玲はドアを閉めて鍵をかける。

 それから菫玲はキッチンへ行き、誰にもらったのかを忘れた果物の缶詰の詰め合わせの箱を棚から引っ張り出した。


 桃に、ミカンに、パイナップルと、紙の箱の中には色とりどりの果物の画が印刷された缶詰が収まっている。

 文明が進んだ近代世界を生きる菫玲は、旬の季節に関係なく選ばず様々な果物を食べることができた。

 ただし缶詰の中の果物は、どれもシロップにとっぷりと浸かって必要以上に甘い。


(その宇迦なんとか様っていう神様は、やっぱりこの桃の缶詰よりも美味しいんだろうか)


 そんなことを考えかけながら、菫玲は特に意味もなく黄桃の缶詰を開けて平らげた。

 残ったシロップを水道に流し空になった缶を捨てた菫玲は、その後は眠くなってソファで二度寝の続きに戻った。

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