2-4 帰宅

 ホテルで十分に瑶平との時間を過ごした菫玲が、車で送ってもらって自宅のアパートに帰ったのは、日が高くのぼった正午前だった。

 菫玲の住んでいるのは真新しいコンクリート作りの集合住宅の三階で、瑶平が借りて菫玲に貸してくれている家賃の高い部屋である。


 鉄製の手すりが当世風な外階段を上りながら、菫玲はハンドバッグから本革のキーケースに入った鍵を取り出した。

 冬が近づく秋の空は高く澄んでいるけれども、アパートの階段にいる今は、建物の隙間からしかその青色は見えない。


(部屋は部屋で、窓の外がなかなか見えないんだけど)


 ひんやりと暗い踊り場を足早に後にして、花柄のドアプレートで飾った自分の部屋のドアの鍵を開けて中に入る。

 大理石に似せた床が綺麗な玄関でまず待っているのは、傘立てにむりやり押し込まれた大量の傘と靴箱からあふれ出た靴で、菫玲は苦労して足の踏み場を探し、履いていたハイヒールを脱いだ。


 時折人を雇って家事を任せている菫玲の家は、衛生的に問題があるわけではないのだが、とにかく物が多く雑然としている。

 ガスも水道も揃った時代の最先端のキッチンのガラス戸には、簡単に取り出せないほどみっちりと食器や保存食が詰まり、バルコニー付きの広々としているはずの洋室は、様々な服の入った大小の衣装ケースがいくつも置かれ、狭く日当たりが悪くなっていた。


 だから自宅というものは本来落ち着て過ごせる場所のはずなのだが、菫玲にとっては別にそう帰りたい場所ではない。


(贈り物をたくさんもらえば当然、物は増えるよね)


 金銀の容器がきらめく、使いかけの化粧品が積み重なったドレッサーを前にした椅子の上に、菫玲はハンドバッグを置いた。

 そして日光が差さない部屋の寒さにケープを着たまま、ソファーベッドに寝そべる。

 ソファーベッドの上には何種類ものクッションが転がっていて、菫玲は隙間に埋もれる形になった。


 大きくやわらかなクッションをぬいぐるみのように抱えてみても、その温もりは菫玲に安心感を与えない。

 たくさんの物に囲まれていても、いや囲まれているからこそ、菫玲は漠然とした不安の中にいた。


(皆がいろんなものをくれるのは、私が歌が上手くて美人だから)


 落ち着かない空間から逃れるように目を閉じて、菫玲は部屋に物が多い理由について考えた。


(それで私が歌が上手いのは、島で一番の歌い手だったおばあちゃんが島唄を教えてくれたからで、私が美人なのは両親が多分美男美女だったから。貰い物ではないものを、私は何も持っていない)


 菫玲は遠い過去をさかのぼり、自分の豊かさと貧しさを再確認する。

 夜の世界に属する職業に就いていても、菫玲には搾取されているという感覚はない。

 技能も美貌も持っている菫玲は、異性に尽くされることはあっても、傷つけられたことはほとんどないからだ。

 だがもしも菫玲から歌や美しさが失われたのならば、酷い目にあわないとも限らない。


(おばあちゃんは昔は美人だったと評判で、年のわりには綺麗にしていたけど、私が知る限りは貧しい暮らしだったし。島を出たまま帰らなかった母親も、結局どうなったのかわからない)


 自分の将来を重ねることができる先人の人生は明るくはなく、菫玲はクッションに頭を預けたままため息をついた。

 革命前の皇国では遊女は店に死ぬまで管理されて長生きしなかったらしいが、近代化が進んだ今はそこまで過酷な時代ではない。


 だから菫玲も早死にすることはなさそうなのだが、逆に言えばそれは若くはなくなった未来もどうにか生きていなければならないということでもあった。


 老いて金色の髪が白くなり、化粧でしわを隠すようになる、菫玲が特別ではなくなったそのときには、華やかな舞台も金持ちの恋人の愛も何も残っていないかもしれない。

 努力して得たものが何もない菫玲は、今は花形歌手として自信を持ってはいても、与えられたものが失われる将来には何も期待できなかった。


(でもだからこそ、何もかもがある今日は気分良く過ごしたい)


 何とか悲観的ではない思考に戻そうとしつつ、菫玲は着替えないままソファの上で寝返りを打って眠気に身を任せる。

 菫玲は二度寝をしながら、眠りたい時に眠れる幸せも十分に堪能するべきだと屁理屈をこねていた。


 玄関の呼び鈴が鳴ったのは、菫玲が思い出すことのない夢を見始めていたそのときだった。

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