第二章 売り払われた少女
2-1 新しい名前
「こいつはちょっと唄が得意なんです。ほら、歌ってみろ」
潮の匂いがする風がほんのりと暖かい、南州の果ての島の夕暮れどき。
沈む太陽に赤々と照らされた家の石塀の前に立つ若い男が、赤染めの着物を着た幼い少女の背中を軽く叩いて命令する。
若い男は叔父であり、少女は姪である。
二人の前にはもう一人の中年の男がいて、島ではめったに見ない上等な白いサマースーツに身を包んだ彼は、少女を買いにやって来た人買いだった。
子供を売り買いするのは良くないことだけれども、学校教育もあってないような南州の島では珍しいことではない。
白髪の混じった髪を後ろに撫でつけて固めた人買いの男の日に焼けた顔は強面で、まだ十一歳の少女は怖くなって後ずさりする。
しかし着ている古いシャツと同様にくたびれた顔をした叔父は、姪の気持ちを慮ることなく、少女の肩を掴んで前に押し出す。
(叔父さんの次は、この男の人なの?)
おそるおそる少女が顔を上げると、人買いの男は腕を組み、値踏みするように見下ろしていた。
見知らぬ男にじっと見つめられて歌いづらいけれども、少女は仕方がないので叔父に言われたとおりに唄を歌った。
唄をうたいましょ、はばかりながら
唄のあやまり、ごめんなされ
ここの屋敷は、
ゆったりと節をとって、高音も低音も自在に響かせて少女は島唄と呼ばれる地元の民謡を歌う。
あどけない幼さに反して、少女の唄声は巧みで深みがあった。
島唄を少女に教えたのは、育ての親である少女の祖母である。
少女の母親は若い頃、この南州の辺境の島での穏やかな人生には満足できずに、派手で刺激のある都会に憧れて西都へ行った。そして街のどこかで出会った男との間に子供を作って島に戻り、その赤子を実家に預けて再び西都へ去った。
その母親に置いていかれたかつての赤子が少女であり、母親がいない代わりに祖母に可愛がられて島で育った。
祖母は島唄の優れた歌い手であり、持っていた技術をすべて少女に伝えた。
島唄を歌うか田畑の手伝いをするしかない島の生活であっても、少女は祖母と二人でそれなりに心地の良く暮らしていた。
しかし何十年もの年月を生きていた祖母は、暑さの厳しかった今年の夏に老衰で息を引き取った。
祖母の死後に少女を引き取った叔父は、あまり働かず博打をして借金ばかり作る日常を送っていた。だから彼は少女を真面目に育てるという面倒なことはせず、人買いに売って金に換えることにしたのだ。
私しゃお前さんに七惚れ八惚れ
今度惚れたら命がけ
踊り上手に袖振り見れば
温暖な南の風に乗せて、少女は大きな声量を保ったまま唄の最後まで歌った。
やることがないから歌っていただけで、唄が特別好きというわけではないものの、嫌いというわけでもなかった。
人買いの男は腕を組んだまま聞いていて、考え込んでからまず一言を述べた。
「確かに上手いが、今の西都では民謡は流行らない」
その率直な感想に、叔父の表情が不安げに曇る。
しかし男は大きく頷くと、今度は前向きな言葉を続けた。
「だからうちの店に来たのなら、まずは流行歌を覚えてもらおう」
古くから歌い継がれてきた島唄は、人買いの男の趣味ではなかったようである。だが少女の唄声にはある程度の価値を見出したようで、態度がやややわらかくなる。
「じゃあ、良いお値段で買ってもらえますね」
媚びへつらった笑顔を浮かべて、叔父はしきりに両手を擦り合わせていた。
男は叔父とは視線を交わさずに屈み、十一歳らしくまだ小さい少女の顔を覗き込んで強引に頭を撫でた。
「まあ、この髪と目の色もめずらしいからな」
男の太い指が、結ってまとめた少女の金色の髪を梳く。
見知らぬ父親は遠い異国から来た人間だったのか、少女の髪の色は刈り取る寸前の稲穂のような金色で、瞳は島を囲む海のように青かった。顔立ちも他の島の子供たちとは違う華やかな可愛らしさがあり、どこか浮いた存在だったため同世代の友人はいない。
また男は、額にしわを寄せて少女をよく観察して、さらなる変更を押し付けた。
「あと名前も地味だから、ここで変えてしまおうか」
それから男は、勝手に少女の新しい名前を数秒ほどで考える。
「そうだな。
男は少女から手を離し、自慢げに立ち上がって、適当に思いついた名前を提案した。
さっそく叔父は新しい名前を使って、少女に話しかける。
「菫玲……。すごく良い名前だ。なぁ、菫玲」
名前を与えられるということは、奪われることでもある。
だが元々の自分の名前にそう深い愛着があったわけでもない少女は、適当に頷いた。
「うん。いいよ。菫玲でも」
冷たく計算高い目をした人買いの男のことを、少女は好きにはなれない。
しかし臆病で怠け者の叔父はそれ以上に嫌いだったので、少女は文句を言わずに人買いの男について行くことにする。
自分を大事に育ててくれた祖母が死んだ今、少女が島に残る理由はなかった。
「それじゃまあ、払えるのはこれくらいだな」
男はスーツの内ポケットから財布を取り出し、紙幣を何枚か叔父に渡した。
「ありがとうございます。助かります」
その金額は想定よりも高いものであったらしく、叔父はへこへこと頭をさげて喜んでいる。
少女は叔父のそうした卑しさを軽蔑していたので、もう会うことはないと思うと心がすっきりもした。
「もうそろそろ、船が出る時間だな」
左手につけた腕時計を見て、男は少女と叔父の二人に別れを済ませるように言った。
血のつながりがあってもお互いに情の薄い二人は形式的に言葉を交わして、手を握ることも涙を流すこともない。
少女は夕日が叔父を照らし、不規則に組まれた石塀に孤独な影を作るのをぼんやりと見ていた。
だが男が少女の手を引き、港へ行こうと背を向けたところで、叔父は唐突な大声で呼びかけた。
「あの、そいつに優しくしてやってくださいね」
叔父は最後の最後に、ほんの少しだけの思い遣りと後悔を見せていた。
しかしあまりにも遅く、ささやすぎるその配慮では、少女が叔父が見直すことはなかった。
男の方は叔父の真心をそう真剣に受け取らず、足を止め振り返って笑った。
「安心しろ。俺は女に優しいし、手を出すなら幼い子供よりも色気のある人妻だ」
一人で自分の言葉を面白がっている男の含み笑う声が、秋の空の澄んだ雰囲気を壊して響く。
あとはもう、人買いの男が立ち止まることはなかった。
稲の刈り取りが終わった田畑に挟まれ、ゆったりとした下り坂で日が沈む海まで続く農道の真ん中を、少女は男に連れられて歩いていく。
(あの海の向こうに、私は今から島を出て行く)
稲の束をまとめて干した
それから菫玲という名前になった少女は、人買いの男と二人で連絡船に乗って島を出た。
まず南州の中心地にある本土の港町へ向かい、そこで大きな船に乗り換えて移動して西都に着く。
裏社会とも関わりがあるらしい人買いの男は西都では辰井と名乗っていて、キャバレーと呼ばれる種類の舞台付きの飲食店に勤めていた。
そこには歌って踊ったり男性の相手をしたりする女たちがいて、辰井は彼女らの管理をすることを仕事にしていた。
菫玲は都市の歓楽街にある店で働く彼の下で、まずは花形歌手の前座として同じ年頃の少女たちと歌い始めた。
しかし意外と、辰井という男が菫玲の近くにいた時間は短かった。
なぜなら辰井は裏社会の権力者の妻になった女と密通し情事を重ねており、あるときその関係が明るみになって相手と二人一緒に殺されたからだ。
辰井が殺された後は、別の男が菫玲の面倒を見る。
だがその変化は小さなもので、誰の下で働いていたとしても、菫玲は歌って生きていた。
他人から見れば不幸な身の上なのかもしれないが、不義理を働いた結果見せしめに焼き殺された人買いの男よりは、ましな人生を送れる自信が菫玲にはあった。
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