1-17 空になる器
うららかに晴れた春の日の、朝の光に満ちた板の間の広い部屋に、一揃いの器に盛られた朝食が二膳分並べられている。
その広間には黒打掛に着替えた桜良と、白絹の袍服を着た宇迦尊だけがいて、二人手を伸ばせば触れられる距離で向かい合い座っていた。
神と花嫁の二人で朝食をとった後に、神は屠られ、花嫁に食される。
神を食べて死ぬ人間と、人間に食べられて生き返る神が短い縁を結ぶことで、皇国の民が飢えて死ぬことがなく幸せであることを願う。
それがこの甘醒殿で行われる奇妙な儀式に、与えられた意味だった。
「これが、君が用意してくれた朝ご飯なんだね」
桜良が作った茶粥の入った汁椀の蓋を外して、宇迦尊が興味深げに朝食の内容を見る。
茶粥と味噌汁は出来たての熱さが残っていて、長皿に盛られた焼き鮭と卵焼きもまだ温かい匂いがした。分葱と烏賊のぬた和えは器の赤漆に映える鮮やかな緑で、香の物も小皿に綺麗に盛り付けられている。
「半分は真那斗さんです。私は茶粥と卵焼きと、味噌汁を作りました」
「それなら茶粥から、いただこうか」
桜良が自分の作った範囲を説明すると、宇迦尊は木匙を手にして食べ始めた。
しっとりと薄茶色に染まった米を匙がすくい、宇迦尊の口元まで運んでいくのを、桜良は息をするのも忘れて見ていた。
女中扱いされていたときから不味いと文句を言われないようにしてきたのだから、味はまともなはずだとは思っている。しかしそれでも、本当に気に入ってもらえるかどうかは不安だった。
宇迦尊が粥を口に含んで、目を閉じる。桜良にはじっくりと味わっているように見えたけれども、観察している側だから時間が長く感じるだけなのかもしれない。
そして目を開けると、宇迦尊は蕾がほころぶように桜良に微笑みかける。
「美味しいよ、すごく。ほっとする味がする」
ごく普通に料理を褒めてもらえたのが初めてだったので、桜良は黙ってその言葉を反芻した。気を使って美味しいふりをしているだけだとしても、嬉しさが込み上げる。
誰に言われても桜良に響くに違いないのだが、言ってくれたのは宇迦尊だった。やはり卜占で定められた通りに、宇迦尊は運命の相手なのだと桜良は思う。
何も言わずに桜良が感じ入っていると、宇迦尊が視線に気づいてからかった。
「桜良はいつも、食べずに僕を見てるよね」
「すみません。今、いただきます」
「別に、謝らなくてもいいけど」
桜良は即座に謝罪して、匙を手にする。
硬さが残る桜良の反応に、宇迦尊は苦笑して面白がっていた。
好きな人が相手なら、可笑しさを笑われても嫌ではないのだと、桜良は知った。
宇迦尊のまなざしに半分緊張して半分安心しながら、桜良は自分が作った茶粥を食べる。
茶粥はほどよく冷めていて、火傷するほど熱くもなく、心地の良い温もりで舌の上にしっとりと広がる。
米のやわらかさと甘みを番茶の香りと風味が温かく包んで、さらりと奥深い味わいを残してのどを通っていくのを、桜良は感じた。
その味にはこれまで食べてきた自分の料理とは違う、穏やかでやさしい美味しさがある。
(これまでこんなに食べ物が美味しいと思えたことって、なかった気がする)
一口目を飲み込み、桜良は物の感じ方の変化に驚いた。
自分よりも技量がある人々が作った料理や菓子よりも、桜良が作った下手ではないだけの茶粥の方が美味しく思えるのが不思議で、桜良は匙を持ったまままばたきをする。
その理由はおそらく本当に単純なことで、美味しいと褒めてくれる誰かがいれば、桜良が作った料理でも正しく美味しくなるというだけのことであった。
(だけど良かった。私にもちゃんと、本当の美味しさがわかるんだ)
朝日の中で輝く薄茶色の粥を見つめて、桜良は気分を落ち着かせようと深く息をついた。
食事の楽しさとは無縁に生きていた桜良は、自分は物を食べて味わう能力に欠けているという劣等感を薄く抱いていた。
だから実のところ、もしかすると自分は宇迦尊を食べても、その味の価値をきちんと理解できないかもしれないと不安に思っていた。
しかし宇迦尊がいるおかげで食べたものを心から美味しいと思える瞬間を知った今は、神の肉も十分に味わって堪能できそうだ安心している。
宇迦尊は再び黙っている桜良に、なぜか自慢気に声をかける。
「ね、美味しいよね」
「はい、本当に美味しいです。多分、今までで一番」
照れた笑顔で頷き、桜良は二口目の粥をすくって食べる。
食べ進めるごとに温かく心と身体が満たされていくのは、まるで呪いがとけるようでもあった。
女中として働いていた桜良はこれまで幾度も美味しいかどうかわからない朝食を作ってきたが、その暗くくすんだ日々はすべて今日のためにあったのだと思う。
素直に微笑む桜良に、宇迦尊も金色の目を輝かせて嬉しそうな表情になった。
「じゃあ僕は幸せだ。最後に食べるものが、君が一番美味しく作れたお粥なんだから」
最後とは言っても、宇迦尊は桜良に食べられても蘇り、また誰かの作った朝食を食べることになることを、桜良は知っている。
それでも桜良は、宇迦尊の言葉が嘘だとは思わない。
「最後に作った料理を神様に食べてもらえる、私も幸せです」
宇迦尊を食べて死ぬことになる桜良にとっては、これは本当に最後に作った料理である。
塩も何も入れていない茶粥は薄味だけれども、その分塩鮭や香の物と一緒に食べれば満足感が増す。
卵焼きも橙色に半熟のところが残ったやわらかく甘い仕上がりで、芹と油揚げの味噌汁は香りよく爽やかで出汁の味わいが深くコクがあった。
桜良が作ったものもそうではないものも、食膳の上には綺麗に並んでいる。
最後に良いことができて、桜良は幸せだった。
もっと長く宇迦尊と共にいられたのなら、さらに多くの幸福を知ることができたのかもしれない。
しかし桜良は死なずにもっと生きたいとは思わなかった。より多くを求めて、小さな幸せでは満足できなくなる日がくることが、桜良にとっては何よりも怖いからである。
だから桜良は、今あるものだけを大切にして、それ以上のことは知らずに死んでしまいたかった。
(だってそう。お母さんも、女の子は何も知らないばかな子の方が幸せだって、いつも言っていたから)
古い伝統を守って建てられた館の一室で、皇国の神話を現実に生きる神と食事をしながら、桜良は遠い異国の文化に囲まれて生きて死んだ母親のことを考える。
銀色の飾りが光る袖無しのドレスを着て、シガレットホルダーを手に紫煙を燻らせていた母は、桜良が無知なままでいることを願っていた。
長年父に愛されていた母は多分、今の桜良よりもずっとたくさんの幸せを知っていて、与えられたものの価値を理解できる広い教養や知識も持っていたのだろう。
それゆえに知りすぎていた彼女は不安になって、絶対的な何かを求めて、ここではないどこかへ行きたがっていた。
だから桜良は知りたがってはいけないし、より多くのもの欲しがってはいけないのである。
母が残した人生の忠告は、そういうことであるはずだった。
遠い記憶を
過去から現在まで、桜良には十七歳までの人生があり、その先の未来はない。
その終わりに待ってくれていた宇迦尊は、婚礼の夜に口づけをしたときと同じように、桜良の意志を確認した。
「僕を食べたら死ぬのに、それでも幸せなんだね」
そのまなざしには、同情か苦悩か、それとも葛藤か羨望か、桜良には正体のわからない感情が宿っていた。
その想いを知ろうとはせずに、桜良は宇迦尊に真っ直ぐに向き合って微笑む。
「はい。私は幸せです」
迷いやためらいのある宇迦尊の声に対して、桜良の声は明るく揺るぎなく響く。
何も持たない、見捨てられた少女だった桜良が手に入れたたった一つものが、宇迦尊である。
幼い頃に父から贈られた舶来の人形よりも端正な顔に、母親が身に付けていた宝石をすべて合わせたよりも綺麗に輝く金色の瞳。真珠よりもなめらかで白い身体に、染める前の絹糸みたいにまぶしい白銀の長い髪。
こんなに美しいものを食べて自分のものにできるなら、死んだって構わないのだと思い、桜良は宇迦尊を見つめていた。
桜良はどこかにある何かを探しながら、たくさんのものを抱えて
これ以上のものは受け取れないし、もらってもきっと自分の手では掴みきれないことを桜良はわかっている。
人の一生には限りがあり、何を知るかと同じくらいに何を知らずにいるかが大事で、桜良は宇迦尊との婚姻以外の幸せを知らない。
だからこそ宇迦尊と出会うことで、桜良のこれまでの人生の不幸には意味が与えられたのだ。
「じゃあ僕も幸せに殺されて、君に食べられるべきだ」
すべてを見透かしたまなざしで、宇迦尊は桜良の微笑みを真似る。
人間である桜良が知らないことも、神である宇迦尊は知っていた。
それから宇迦尊は桜良に口づけをするように、桜良が作った粥の最後の一口を食べる。
食べることも食べられることも、相手に身体を明け渡すことから始まる。
桜良はその二つの境界を見失いながら、触れられる近さにいながらも遠く隔てられた、宇迦尊の口づけを胸の中で受け止めた。
食事が終われば器は空になる。
食べ終えた器が空になるように、もうすぐ宇迦尊の命は失われる。
しかし次の食事が始まるときには別の料理で器が満たされるように、宇迦尊は蘇りまた命を得る。
宇迦尊がどんな想いを抱えていたとしても、神喰いの花嫁である桜良はただ、あとは出されたものを食べて死ねばいいのだ。
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