1-8 白氷は溶けて
『神喰いの花嫁』になることが決まったその日に、桜良は女中の仕事から解放された。
さらに部屋も着物も伯爵家の令嬢にふさわしいものを与えられ、神に嫁ぐのに恥ずかしくないよう庶子として認められるための書類も急いで用意される。
また使用人として一人になった絹江はまったく家事ができないので、新しい女中が急遽雇われた。彼女は無口な老いた女性で、これまでの桜良と同じように黙って働いた。
それから卯月の輿入れまでの二ヶ月弱、家事の代わりに桜良がやらなければならなかったのは、並大抵ではない量の習い事である。
「久世月家から神に嫁ぐのなら、誰に見せても恥ずかしくない女性になってもらわなくては困ります」
都志子は半ば命ずるようにそう桜良に言って、習字や読み書き、歴史や文学などの一般的な教養などに加えて、茶道や華道などのお稽古事も学ばせる。
教育を受ける機会をもらえたことは、感謝すべきなのかもしれない。
だが長年の憎しみを捨てたわけではない都志子は、桜良に自信を持たせず劣等感を抱かせるためなのか、次々に無理な難題を押し付ける。
だから桜良の元には入れ替わり立ち替わり何かの先生がやってきて、空いた時間には抱えきれないほどの課題があった。
両親が死んでから今日まで掃除や洗濯、炊事に裁縫以外のことをさせられてこなかった桜良は、覚えなければならないことの多さになかなかついてはいけない。
(調味料とか洗剤の文字はわかるけれども、それ以外の言葉の漢字はさっぱりわからない)
暗く狭い女中部屋と打って変わり、広々として小綺麗な和室に置かれた
机の上に広げた子供向けにふりがながふられた歴史の教科書は、絵が多く内容はわかりやすいものの読んでも身になる気配はない。
実際は神喰いの花嫁になるのに特に準備の必要はないと、由貴斗は説明していた。とはいえ、実情はともかく伯爵家から嫁ぐことになる桜良は、都志子の言う通り多少は令嬢らしさを取り繕わなくてはならなかった。
その必要性は理解できても、求められる通りになることは難しい。
(服だけは着てしまえば、どうにかなるのだけど)
簡単なようでわかりづらい教科書の文章から視線を外し、桜良は前掛けや割烹着を身に着けていたときとは違う自分の装いに視線を落とした。
死ぬまで働き通しの女中ではなくなっても、結局桜良に自由はない。
それでも青磁色の雪輪模様の着物のやわらかな着心地には、立場が変わったことを実感する。明里のお下がりであってもその着物は、朧げな色彩が桜良の細身によく似合う一枚だった。
目を上げれば文机の近くの窓からは、庭で木々の傷んだ葉を取り除いている庭師の男の姿が見えた。
季節は雪が溶けて水になる頃で、雀も
その淡く明るいの新しい季節の兆しに、桜良は人生で最良の春の訪れを感じていた。
たとえ自分の好きにできる時間がなかったとしても、桜良には花嫁にどんな瑕疵があっても受け入れ終わらせてくれる神がいる。そのことを考えれば桜良は、これまでの理不尽なこともすべて報われた気がする。
気分を切り替えた桜良が再び勉強に戻ろうとしたところで、襖の外から絹江の声がした。
「失礼いたします」
以前よりも恭しくなった絹江の呼びかけに、桜良は「どうぞ」と短く返事をする。
絹江は襖を半分開けて、中には入らず要件だけを伝えた。
「呉服屋の坂井様が、花嫁衣裳用の反物の見本を持っていらっしゃいました」
「わかりました。今から行きます」
机の上の教科書をしまい、桜良は立ち上がって部屋の外に出た。
廊下では絹江が待っていて、侍女のように桜良に付き従う。
そして絹枝は呉服屋のいる部屋まで桜良を案内して、また襖を開けた。
「おはようございます。よろしくお願いいたします」
客間には表面上は温和に振る舞う都志子もいたが、桜良はなるべく物怖じしない態度でお辞儀をする。
もうすでにいくつかの反物を広げて待っていた呉服屋の中年男性は、愛想良く挨拶を返した。
「神喰いの花嫁になられるこんなにお綺麗なお方の御衣裳を仕立てることができるのは、私どもといたしましても非常に光栄なことでございます」
お世辞に迷いのない愛想の良さで、呉服屋は桜良に話しかける。
容姿を褒められたことが嬉しくて、桜良はより一層誇らしい気分になった。
だが表情が明るくなっていく桜良をたしなめるように、都志子は皮肉を挟んだ。
「見せかけは何とかできても、なかなか中身はちゃんとしませんから、坂井屋様の御衣裳のお力を借りたいところでした」
都志子はやわらかな物腰で微笑んで、分別のある継母のふりをする。しかしそうした態度の裏にある敵意は、以前よりも力を失っていた。
せめて最後に自信を奪おうと、都志子が
(それに私は多分、優越感を抱くことが好きなのだと思う)
神々に関わる運命によって敗北した都志子を前にして、桜良は仄暗い喜びを覚える。
以前の桜良は、自分は謙虚で我慢強い人間だと思っていた。
しかし実際は敬われるのは気持ちが良く、これまで散々不当な扱いを強いてきた都志子が、桜良の美しさを認めざるを得ない状況を見るのはすがすがしい。
桜良は自分が自分に評価を下していたほどには、清らかな心を持っていなかったことを知りつつあった。
「どの唐織も、一級品だけをご用意いたしました。細かな柄のものも、大胆な柄のものも、どちらも桜良様にはきっとお似合いになると思います」
様々な柄が織り込まれた白地の布を桜良に見せて、呉服屋が微笑む。
桜良にはとても豪奢なこと以上にその布の価値がわからなかったが、後ろに控えていた絹江がうっとりとした嘆息をもらしたので、本当に素晴らしい品なのだとわかった。
着る機会は一生ないような気がしていた花嫁衣裳の準備に立ち会い、桜良は神の伴侶になれる幸運を噛み締めた。
もしかすると毎晩寝るときに神に祈っていたから、想いが届いたのかもしれないと自惚れる。
(私は今更、教養のある人間にはなれない。でも確かに見かけだけなら、どうにかできるはずだから)
女中として虐げられていたときでさえ、桜良は自分の容姿にそれなりだと自負していた。
だから呉服屋に対しては怯まずに、お世辞も素直に喜んで話を聞いた。
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