1-7 神の花嫁

「失礼いたします」


 慣れない微笑みを浮かべて、桜良は姿勢よく座礼をする。

 顔を上げればそこあるのはガラス窓の引き戸から庭の緑がよく見える客間であり、南向きの座敷全体が冬日向になっていて明るく暖かくなっている。床の間や違い棚には趣のある掛け軸や壺が置かれており、桜良が日々掃除をしているので埃はほとんどないはずであった。


 部屋に入ってすぐの下座には、穏やかな表情に困惑を隠した都志子が座っている。

 そして上座の方には見知らぬ洋装の男がいて、桜良と顔を合わせるとすぐに鷹揚な態度で声をかけた。


「あなたが桜良様ですか。どうぞ、こちらにお座りください」


 まるで屋敷の主であるかのように、男は堂々とした笑顔で桜良に着席を勧める。


 男は健やかに日焼けした褐色の肌をしていて、異国の血が混じっているようには見えないのに、洋装がよく似合う彫りの深い顔立ちだった。年齢はおそらく、二十代の半ばくらいだろう。少し長めに伸ばされた髪は後ろで束ねられ、かすかに選民意識を忍ばせた瞳は強かに輝く。

 ゆとりを持って仕立てられたスーツは大人らしい濃紺のストライプで、臙脂色のネクタイには銀色のピンが光っている。靴下もポケットチーフも時計も、身に付けている物の一つ一つが、雇われの運転手が使っているような物とは違って上質に見えた。

 身なりも顔立ちも洗練された男の姿に、桜良は目的がわからずただ戸惑いを深める。


(こんな美男子が、私に一体何の用があるって言うのだろう)


 まずは言われた通りに、黙っている都志子の隣の、畳の上に敷かれた八端判の座布団に移動して座る。

 まずどんな言葉を発するべきか桜良が迷っていると、盆を手にした絹江が部屋に入ってきて、緑茶の注がれた茶碗と饅頭の載った皿を置いて去った。


 饅頭は雪の結晶の形の焼印が押された真っ白な薯蕷饅頭じょうよまんじゅうで、黒茶色の皿の上で小さくもつやつやとした光を放っている。

 男と都志子の分の茶と茶菓子は先に並んでいて、都志子は手を付けていないが、男は皿も茶碗も空にしていた。


「西都の中でも屈指の評判の御菓子司おかしつかさで買ってきた饅頭だから、美味しいですよ。ぜひ、召し上がってみてください」


 遠慮をさせない爽やかな強引さで、男は広げた手を差し出して桜良に菓子も勧める。

 桜良は努めて愛想よく、お礼を言った。


「ありがとうございます。いただきます」


 そしてうろ覚えの作法で饅頭を楊枝で切り分け、丁度良い大きさにして食べる。

 口どけの良い漉餡こしあんの甘さをしっとりとした生地が包む具合が、職人の技を感じさせる上品な薯蕷饅頭であった。

 頭の中が疑問で一杯の桜良は、饅頭の美味しさや餡の香り高さをゆっくりと味わえるほどの心の余裕はなかったが、名店の品だと言われたのでとりあえず褒め言葉を絞り出した。


「すごく、贅沢な味がします」


「でしょう? 僕は以前この饅頭を一日で三十個食べたことがあるのですが、それでも食べ飽きなかったんですよ」


 饅頭を食べる桜良を満足そうに眺めて、男がよくわからない自慢を言う。

 最後に桜良は、丁度良いぬるさになった緑茶を飲んで心を落ち着けた。高級店の饅頭は食べ慣れないが、緑茶はまだ味に馴染みがある。

 桜良が茶碗を茶托に戻すと、掴みどころのないやりとりにしびれを切らした都志子が、頃合いを探って本題を切り出した。


「それではもうそろそろ、この家で雇っている女中にどんな用事がおありなのか、お訊ねしてもよろしいかしら」


 婦人らしく少しの乱れもなく藍染めの紬を着て座る都志子はあくまで、桜良をただの女中として扱う。

 そのあたりの事情を知っているのか、男は薄く笑って頷いた。


「桜良様もいらしたことですし、まずはもう一度自己紹介しましょうか」


 答えを焦らすように、男は自分の名前と役職をゆったりと聞き取りやすい声で話した。


「僕は神祇省で典客官てんかくかんという、神々の客人等をお迎えする役職を務めております、津雲つぐも由貴斗ゆきとと申します」


 由貴斗と名乗る男は、にこやかに桜良を見つめていた。

 生きた神々が各地に住んでいる皇国では、神と人間が様々な関わりを持って暮らしている。

 神祇省はそうした神々と人間の関係を取り結ぶ省庁であるので、由貴斗が言うような仕事を果たしている者がいても不思議ではない。


 相手が丁寧に自己紹介をしてくれたのだから、自分も改めて名前を言わなくてはならないと桜良は思った。

 しかし桜良が口を開くよりも先に、少しでも早く由貴斗の目的を聞き出したい都志子が質問を投げた。


「この娘をどこかの神殿で巫女か何かとして働かせるために、あなたはいらっしゃったと」


 態度には出さないものの、不可解な来客に苛立ってる都志子は、由貴斗に話を長引かせないように話しかけている。

 その問いに対して由貴斗は、流れるようになめらかに、桜良が神祇省の職員と会わなければならなくなった理由を告げた。


「僕が参りましたのは、人に食されるために再生する神であらせられる御饌都之宇迦尊みけつのうかのみこと様のこの春のご伴侶に、桜良様が選ばれたためです」


 そこで由貴斗は一度言葉を切り、少々考え込んでから説明を続けた。


「桜良様はその命と引き換えに神の肉を食すことができる『神喰いの花嫁』になることができる、と言ったほうがわかりやすいでしょうか」


 「神喰いの花嫁」という言葉を聞いてやっと、桜良は自分が置かれた状況を理解した。


(神喰いの花嫁ってあの、昔話に出てくる神様の食べる女の子の……)


 神の肉を食す少女と、死と再生を繰り返す食物神の物語は、皇国に生まれた人間にとっては常識に等しい昔話である。

 また宇迦尊うかのみこととも呼ばれるその神が、西都の北の神在森にいる神々のうちの一柱として今も生きていることは、学校へ行けず知識の少ない桜良でも知っていた。


 宇迦尊が住む神殿では一年に一度か二度、「神喰いの花嫁」という名の巫女に選ばれた女性が宇迦尊に嫁ぎ、彼の肉を食して死ぬ儀式が行われる。花嫁に食されるために宇迦尊も死ぬが、彼は昔話と同じように花嫁の死後に生き返る。

 それは季節のめぐりを言祝ぎ、豊穣や大猟を願う儀式として、古来より神在森で行われる数々の祭事の中でも特に重要なものとされていた。


(そんな神様に、私が?)


 桜良は現実感のない気持ちで、由貴斗の説明を心の中で反芻した。これまでの自分の立場とはまったく釣り合わない空想であるような気がして、ただ黙って由貴斗を凝視することしかできない。

 隣にいる都志子も桜良同様、男の説明を即座に飲み込めなかったようで、目を丸くして言葉を失っていた。

 しかし都志子は冷静さは忘れてつつも、久世月家の女主人としてまず最初に反応を返した。


「ここにいる桜良が、神喰いの花嫁ですって?」


「はい。神祇省に勤めております卜部うらべが、そう占いました」


 うろたえる都志子をよそに、由貴斗は涼しい顔で桜良が選ばれた根拠を語る。

 あまりにも突然の話であるので、桜良は何かの詐欺ではないかと疑ったが、由貴斗には本能的に神々とのつながりを信じさせる本物らしさがあった。

 桜良がまだ何も言えないでいると、都志子が男から会話の主導権を取り戻そうと言葉を発した。


「この娘は卑しい出自の女を母に持つ、学も何もないつまらない女中です。縁あって我が家に置いていますが、そんな尊いお役目を果たせるような娘ではありません」


 神の花嫁という栄光ある立場に妾の子である桜良がなることを、爵位はあるものの神々との距離が遠い家格に属する都志子は許さない。

 だから何とかして都志子は、これまでと同じように理由をつけて桜良の縁談を断ろうとしていた。


(また今回も、この人が扉を閉ざすんだろうか)


 絶対に桜良を家から出さないという、強い意志を感じさせる都志子の態度を前に、桜良は暗い気持ちで視線を落とした。

 だが由貴斗は、都志子の言い分には全く耳を貸さずに言い返した。


「奥様。神喰いの花嫁は、出自や性質ではなく卜占ぼくせんが決めるものです。たとえ無知で淫乱で怠惰な下賤の身の女子であったとしても、卜部の結果が彼女だと告げれば彼女になります」


 反論の内容をよく聞いてみると、由貴斗は桜良を侮辱するような言葉を使っていた。

 神々を中心にしたことわりの中で、桜良は人間性を無視されただの駒のように扱われている。


 だがどんなに見苦しい属性の人間でも構わないと言われているからこそ、桜良は由貴斗のことを信じられる気がした。

 取り付く島もない由貴斗の姿勢に、都志子はひざの上に置かれた綺麗な手を握りしめて引き下がる。


「それは、そうなのでしょうが……」


 易々と都志子を言い負かした由貴斗は桜良に向き直り、それまでの話の強引さの埋め合わせをする配慮を見せた。


「もちろん、革命後の我が皇国では基本的人権うちの一つである自由権が認められています。ですから桜良様が神喰いの花嫁になることを望まないのなら、ご辞退は可能です」


 古いしきたりがすべてを決めていた以前の皇国なら、神に代わって国を統治する朝廷の政治は絶対的なものであり、民がその命令に逆らうことは許されなかった。

 しかし数十年前に一部の海外の思想に影響を受けた青年たちが民主革命を起こし進歩主義の帝を即位させた結果、人権と呼ばれる西洋由来の概念が広まり、今では民の意志も尊重されることになっている。


 これまでの桜良の人生には関係がないし、あまり本質を理解していない出来事であるが、現在の皇国はそうした歴史があって存在していた。


「神の肉を食した人間はその美味なる味の尊さゆえに命を失うことになりますから、花嫁に選ばれても断った方も当然います」


 由貴斗は誰かが決めた規則どおりに、桜良に与えられた二つの選択肢を提示していた。


 『神喰いの花嫁』になることを辞退した女性がいたというのも、おそらく嘘ではないだろう。

 だがいつどのような場合であっても、大半の国民は神と関わることができる機会を拒まない。たとえ自分の命や人生が犠牲になることがあっても、神々に選ばれ結ばれるのは至上の幸福なのだと信じる人々の気持ちは、革命後も変わらない。

 神の存在に深く触れることができるのは、どんな身分の人間にとっても、何を引き換えにしても良いと思わせるほどに名誉なことなのだ。


「桜良様は、どういたしますか。お日にちを空けて決めることもできますが」


 まだ桜良自身も頭に浮かべていない答えを見抜くまなざしで、由貴斗はこちらを見つめていた。

 桜良は由貴斗に尋ねられてやっと、都志子ではなく自分が返事をしなくてはならないと理解する。

 もはや都志子は口を挟む口実もなく、部外者として無愛想な顔で沈黙していた。


(私は何も持ってない。だから断る理由も、どこにもない)


 まず桜良は控えめに、しかし積極的に、神喰いの花嫁になることを自分の中で受け入れた。

 この先生きても何も得られない気がしていた桜良には、神の肉を口にすれば最後は命を失うしかないという前提は、むしろ好ましいものに思える。

 これまで結婚生活に憧れを持ったことはなかったものの、その先の未来が生きる必要がないのなら、花嫁になってみたい気持ちはあった。

 だから桜良は知っている限りの礼儀作法を使い尽くし、畳の上に手を揃えて正座のまま丁重にお辞儀をした。


「……私は、御饌都之宇迦尊様に嫁することを、謹んでお受けしたいと思います」


 どこかで言葉遣いを間違えているかもしれないと思いつつも、桜良はかしこまった口調で神の伴侶として神を食すことを承諾する。

 知らないうちに、桜良は笑みも浮かべていた。

 桜良はこれまで、終わりの見えない辛い日々の中で終わりが来るのを待っていたので、思ったよりも早く人生の終末が訪れたことが嬉しかった。


「栄えあるご機会を私にくださり、誠にありがとうございます」


 自分でも驚くほどに快活な声でお礼を言って、桜良は顔を上げた。

 スーツ姿で座る由貴斗は、健やかな笑顔で一度黙ってうなずいてから、桜良の選択を祝福する。


「素晴らしいご決断、おめでとうございます。桜良様」


 どちらが選ばれたとしても花嫁の選択を肯定するのが仕事であるらしい由貴斗は、あらかじめ用意されているのであろう言葉で桜良を祝福をした。

 怒りを隠しきれない面持ちで横隣にいる都志子の表情を伺う必要は、もはや桜良にはない。

 桜良は部屋の中を包む冬の終わりの日だまりのように、明るく暖かな気分になっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る