1-13 与えられた役割

「ここから本殿までは、少し歩きます」


 楼門を支える石段の前でクーペは止まり、桜良は車から下りて由貴斗と二人で歩いた。

 玉砂利が敷かれた敷地の中には大小様々な伝統的な様式の建物があって、由貴斗がいなければどちらへ歩けば良いのかもわからない。


 真っ暗になった夜空には星々が瞬いていて、時刻はもう午後の八時か九時くらいだと思われた。

 しかし神殿の周りは森が切り開いてあり、道の脇に置かれた石灯籠や建物の軒下に掛けられた吊り灯篭にはたくさんの明かりが灯されていたので、足元が見えないということはない。


 履き慣れない厚底の草履とゆったりと長い白無垢の裾に苦心しながら砂利の上をしばらく進むと、桜良と由貴斗はひときわ立派な館の前に出た。

 檜皮葺の屋根と連子窓のついた回廊がどこまでも続くので、桜良には館全体の大きさを推し量ることもできない。

 回廊の向こう側に通じる入り口らしき木製の板扉いたとびらは開け放たれていて、その前には一人の男が立っていた。


「よく来たな。神喰いの花嫁」


 よく通る声で桜良に呼びかけた男は、質素な熨斗目色のしめいろの作務衣のような服を着ていたので、彼が由貴斗とは違った形で神に仕える人間であることはすぐにわかった。


 何をどう返事を返せば良いのかわからないまま、桜良は男に近づいてみた。すると男の姿が、由貴斗と双子のようによく似ていることに気づく。

 よく日に焼けた肌の色も、彫りの深い顔立ちも、束ねた黒髪も由貴斗と瓜二つで、やや雰囲気が鋭い他に違いはなく、服装が同じなら他人の桜良には見分けがつかないだろう。


 思わず桜良がじろじろと見比べていると、由貴斗が自分と瓜二つの男について紹介する。


「彼は津雲つぐも真那斗まなと。僕の従兄弟で、この甘醒殿で内膳官ないぜんかんとして働いています」


 真那斗と呼ばれた男は、自虐的な微笑みを浮かべて由貴斗の説明を補足した。


内膳官うちのかしわでのつかさ、と呼ばれることもある。由貴斗と同じ神祇省の官僚だが、まあ平たく言うと神様の料理人兼使用人みたいなものだな」


 つまらない身分であるかのように話しているが、親戚関係にあるらしい二人はおそらく神々に仕える歴史ある一族の生まれで、本来は桜良よりもずっと高貴な存在なのだと思われた。

 しかし料理人であり使用人でもあるという真那斗の自己紹介に、女中として働いてきた桜良は勝手に親近感を覚える。


「短い間ですが、よろしくお願いいたします」


 求められている距離を理解したような気がした桜良は、かつての同僚に接するときと同じくらいの丁寧さでお辞儀をする。

 真那斗は例えば男が花嫁でも普通に通しそうな余裕のある態度で、板扉の中へと桜良を手招きした。


「では、花嫁は俺と控えの間に。由貴斗は宇迦様に、花嫁が到着したことを伝えてくれ」


「ああ、わかった」


 気心が知れた者同士の軽さで目配せし、由貴斗は桜良に接するときとは違う言葉遣いで返事をした。

 そしてまた再び敬語に戻って、桜良に話しかける。


「では、私は宇迦様の方に行ってきます。桜良様のことは、この真那斗が案内してくれますので」


 由貴斗はそう言い残すと、先に館の奥へと消えていった。


「花嫁はこちらに」


 てきぱきと真那斗に先導されて、桜良も開け放たれた板扉をくぐって館に入る。

 館の中に入ってまず見えたのは、月や星空を映した池を中心に、松や柳が植えられた典雅な中庭だった。

 森のどこかの水源から引き込んでいるのであろう池には澄んだ流れがあって、赤い太鼓橋がいくつか架かっている。また松は力強く静止して、柳はさらさらとやわらかくそよいでいた。

 御伽話のように美しい空間に目を奪われて、桜良は真那斗に遅れそうになる。


 桜良は真那斗の背中を追って、計算された弧を描く欄干の間を通って橋を渡り、足を踏み入れることを躊躇するほどに綺麗な真砂土まさどの地面の上を歩いた。

 複雑に木材を組んで建てられた古風な館は、中庭を囲むように建てられていた。

 だから庭の真ん中に立つと、御簾みす蔀戸しとみどからもれた部屋の明かりが館を橙色に染め上げ、庭全体を照らすのがとても幻想的に見える。


「ここから入ったところにある部屋が、控室になる」


 時折振り返って歩を緩めて中庭を横切り、真那斗は縁側に上がる階段に桜良を案内した。


「こちらですね」


 桜良は草履を脱いで、真那斗の指示通りに縁側に上がる。

 四花菱紋よつはなびしが散らされた几帳を上げて部屋に入ると、中は燭台で明かりをとった板の間だった。館の形式自体は古めかしいものの、木材や調度品の質感には不思議な真新しさがある。

 中央に置かれた緑縁の畳に座り、桜良は次の指示を待つ。開放的な造りの館は風通しが良く、桜良は冷えた空気の流れを感じていた。

 しばらくすると、真那斗が簡素な木製の盆を運んでくる。


「宇迦様が今準備をしているから、ちょっと休憩しててくれ」


 真那斗が桜良の前に置き去った盆には、小さな白磁の椀に入った桜湯と、一口で食べられる大きさの丸いおはぎが三つ盛られた皿が載っていた。

 塩漬けの桜にお湯を注いだ桜湯は、満開の桜を椀の中に閉じ込めたように風流である。


「ありがとうございます」


 昼から何も食べていないものの空腹を忘れていた桜良は、気遣いに驚きつつお礼を言った。

 添えられていた楊枝を使って、丸く小さなおはぎを頬張る。

 ほんのり塩味がする甘さを控えた餡で包んだおはぎは、もっちりとした優しさを感じるきたてのやわらかさで、半殺しの餅にはまだ炊きたてのもち米の温もりが残っていた。


(これは、すごく丁寧な一品なのでは?)


 緊張でじっくり味わえない桜良にも、艶々と皮が光る濃紫色の小豆餡の出来の良さはわかった。

 桜良はなるべくゆっくり噛んでもち米の食感と甘みを感じる努力をしながらも、無意識のうちに次のおはぎに手を伸ばしていた。甘味が特別好きなわけではないのに、二つ、三つと食べ続けたくなるのだから、やはり美味しいのだろうと思う。

 残りのおはぎも平らげると、ほのかに桜の匂いがする温かい桜湯で余韻を落ち着けた。

 ちょうど皿も椀も空になったところで、真那斗が再び部屋に入って来る。

 美味しさを表す言葉の語彙に悩みながらも、桜良は真那斗にお礼を言った。


「すごくやわらかくて、美味しかったです。ありがとうございます」


「当然だ。俺が作ったものだからな」


 おはぎを作った本人であるらしい真那斗は、得意満面な様子で微笑んだ。以前由貴斗が久世月家に買って持ってきた薯蕷饅頭の店に負けず劣らず、真那斗は素晴らしい和菓子の技術を持っているようである。


 桜良は真那斗は食べ終えた盆を下げにきたのだと思って、片付けられるのを待とうとした。

 しかし真那斗は片手に桜良が食べたものよりも大きなおはぎを持っていて、桜良の前の床に腰を下ろして胡座あぐらをかいた。そして一口分食べて飲み込むと、話を始める。


宇迦尊うかのみことに仕える内膳官は、神に作った料理を捧げる同時に、神を殺してその肉を割いて烹て、花嫁に食べさせるという役割を持っている」


 何でもない世間話のように、真那斗は『神の料理人』という肩書の二重性について語っていた。その手で普段食事を作って食べさせている神を殺して料理するのだと言われ、神の肉を食べることになる桜良は身の引き締まる思いになる。


(ちゃんと料理してもらって、本当に普通に神様を食べるんだ)


 神の肉を食べるという行為の重みを感じつつ、桜良はじっと真那斗の餡の粒がついたままになっている口元を見つめた。

 小豆の粒に気づいていない真那斗は、そのまま二口目を食べて桜良に尋ねた。


「だから明日、俺が宇迦様を料理するのだが、何か苦手な食材はあるか」


 まるでどこかの料亭のような質問をされて、桜良はいよいよ具体性を帯びてきた神喰いの花嫁としての役割について考える。

 まだ会ってもいない夫の宇迦尊は明日には桜良が食べるために殺されて、その肉を口にした桜良もすぐに死ぬのだから、終着は想像していた以上に近かった。


「特に、ないです」


 好き嫌いがあるほど食にこだわりがない桜良は、首を振って苦手な食材はないことを伝えた。

 真那斗は「わかった」と頷いて、三口目でおはぎを平らげた。ここでやっと口元を手で拭いたので、くちびるに残っていた小豆の粒はなくなった。

 そしてまだ言っておくことがあったようで、真那斗はじっと桜良の様子を伺ってから口を開いた。


「あと、宇迦様の最後の食事は毎回ちょっとした儀式みたいなものとされていて、明日の朝食は一応花嫁が作ることになっている。お前は料理はできるな」


 雰囲気で見抜いたのか、女中扱いされていたことを知っているのか、真那斗は桜良がそれなりに家事全般ができることを察しているようだった。

 唐突に普通の花嫁らしい、しかし責任重大な仕事を要求されて、桜良は少々面食らった。

 だが夫に食事を作るのが結婚だと言えばその通りであるので、桜良は何も聞き返さずに頷いた。


「ええ、まあ。人並みには」


「それじゃ作りたい献立があれば言ってくれ。必要なものはこちらで用意する」


「では、茶粥と卵焼きか何かで……」


 何でもないことのような軽い調子で、真那斗は食材の確認する。

 作りたいものと言われても作れるものしかない桜良は、とっさに一番よく作っていた朝食向けの献立を挙げた。

 ほうじ茶で米を炊いた茶粥は、西都を中心に食べられている郷土料理で、久世月家の朝の食卓に並ぶことも多かった。

 桜良の希望を聞いた真那斗は、もう用事がなくなったらしく立ち上がった。


「茶粥と卵焼きを中心に何品か、という感じだな。俺も手伝うから、そう緊張はしなくてもいい」


 おそらく料理ができない人間が神喰いの花嫁に選ばれた場合は、結局ほとんど真那斗が作ることになるのであろう。

 真那斗の態度には、桜良が失敗したとしてもどうにかなるという自信が見えた。

 しかし桜良はせめて朝食くらいは、胸を張って自分が作ったものを捧げたいとささやかな野心を抱いた。


(せっかく選んでもらえたのだから、私はやれることはやりたい)


 それはめったに自分の能力を試したがらない桜良が示した、他人のために何かをしたいという積極性だった。

 桜良はこれまで、苦境に耐えてただひたすらに終わりが来るのを願っていた。神喰いの花嫁に選ばれて嬉しかったのも、優劣ではなく卜占で決められたのであって、特別な何かを期待されているわけではないからだった。


 自分が何かの才能を持っているとは思えないし、持ちたかったとも思わない。


 しかし最後に自分ができることで神に尽くせたのなら、孤独な歳月も報われるような気がしてくる。


(私はそう、もらえるものなら意味がほしい。これから神を食べて死ぬ意味だけではなく、これまで生きてきた意味を)


 その密かな欲望を、桜良は口にしなかった。

 聞くべきことを聞いたら立ち去ろうとしている真那斗は、作務衣を着た使用人であり、桜良が心を開くべき相手ではない。

 桜良が真心を見せるべきなのは、これから会って結ばれる神である宇迦尊なのだ。

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