1-14 誓いと盃
それから桜良は、髪や化粧を少々直した後、館のさらに奥の間に通された。
開かれた板戸が先にあったのは金の屏風が置かれた暗い部屋で、明かりは隅に置かれたいくつかの蝋燭だけだった。
(神様に会ったら、一体どんな挨拶をすれば良いのだろう)
指示された場所に正座して、桜良はだんだん闇に慣れてきた目で土を塗り込んだ壁を見る。
傍らには黒地の差袴に白い上衣を着た真那斗が控えていて、寝ているのか起きているのかわからない顔で目を閉じていた。
落ち着かない気分で待っていると、やがて廊下から二人分の衣擦れと足音が近づいてくる。
とうとう宇迦尊がやってきたのだと思った桜良は、姿勢を正して顔を伏せた。
まず部屋に入ってきたのは、真那斗と同じように黒と白の装束を着た由貴斗だった。
由貴斗は取り澄ました表情で戸の近くに立って、入り口に垂れている几帳をその後ろにいる神のために手で上げる。
もう一人の白い影はゆっくりと歩を進めて、暗闇の中から桜良の前に姿を現した。
(この方が、私の神様)
顔を伏せている桜良には、白い裾を引きずった束帯に足袋を履いた足元しか見えない。
宇迦尊と呼ばれるその神は、一旦、無言で立ち止まっていた。それからさらに一歩近づき、宇迦尊は花嫁に声をかけた。
「桜良」
優しく親しげな、やわらかな声である。
今まで名前を呼んできた誰とも違う響きに、桜良は綿帽子を被った頭を自然に上げた。
まず目に入ったのは、宇迦尊の人のものではない、金色の鉱石のように虹彩が輝く瞳だった。見つめ合う形になった桜良は、気恥ずかしさから視線を反らそうとした。しかし月明かりに照らされた雪や真新しい上白糖に似た美しさのある宇迦尊の姿に、桜良は目を離せなくなった。
(とても綺麗な、男の人だ)
桜良は宇迦尊が神であることを知っていたし、淡く光る銀色の髪を長く伸ばし、白綾の袍に長身を包んだ宇迦尊は神らしく神々しかった。
だがその鼻筋の通った顔が纏う束帯よりも白く繊細に整っていて、目は髪と同じ銀のまつげに縁取られていても、宇迦尊は桜良が想像していたよりも人間らしい存在に見える。
それは宇迦尊の表情には、理由のわからない寂しさがあるからかもしれないと、桜良は思った。
「君が明日、僕を食べてくれる女の子なんだ」
薄紅を塗ったかのようにほんのり桜色に色づいたくちびるで、宇迦尊が桜良に問う。
立って見下ろす宇迦尊を座ったまま見上げて、桜良は小さな声で「はい」とつぶやいた。
憂いを帯びた視線を宇迦尊に注がれて、桜良は胸を締め付けられるような切なさを感じた。礼儀正しい挨拶を考えてはいたけれども、返事以外の言葉は何も言えない。
やがて宇迦尊は小さく頷くと、桜良の横に並んで座った。
「ほんの少しの間だけど、よろしくね」
かすかでも完全に人の心を奪う宇迦尊の微笑みに、桜良は幼い頃にもらった飴の包み紙をほどいたときの甘い匂いを思い出す。
宇迦尊と桜良が並んで座ったのを確認すると、由貴斗は真那斗に目配せして屏風の裏に消えた。
居眠りしていたのかも知れない真那斗も、慌てて由貴斗に続く。
そしてすぐに、二人はそれぞれ膳を持って屏風の裏から現れた。
赤漆の膳には、揃いの
真那斗は宇迦尊の側に屈んで膳を置き、一番小さな盃に銚子で酒を注いだ。由貴斗も桜良に同じようにしたけれども、まだお酒は注がない。
酒を注ぎ終えた真那斗が、宇迦尊に声をかける。
「では、まずは宇迦様から」
「うん。わかった」
宇迦尊は両手で盃を持ち、優雅に傾けて飲んだ。
一つ目の盃が飲み干されると、今度は中くらいの大きさの盃に酒が注がれ、同じことが三度繰り返される。
時間をかけて宇迦尊が三つの盃で酒を飲み終えると、今度は由貴斗が銚子を手にした。
「次は、桜良様が」
「はい」
透明に澄んだ酒が注がれた赤い盃を、桜良は宇迦尊と同じように両手で持った。
蝋燭の明かりを映して、盃の中の清酒は揺れた。そしてゆっくりと口に近づけ、少しずつ飲んで空にする。
水とは趣が違うその液体を口にしてみると、清酒の濃く甘い匂いと刺激が、舌が触れた。
生まれて初めて酒を飲んだ桜良は、のどを過ぎていく酒の冷たさに反して、身体が熱くなるのを感じた。
とりあえず一つ目は空にした桜良は、若干ふらつきながら盃を膳に戻す。
「お酒は、全部飲まなくても大丈夫だよ」
「はい。ありがとうございます」
桜良を気遣いささやく宇迦尊の声が聞こえ、桜良は反射的にお礼を言う。
しかしぼんやりとしていた桜良は、自分が酒を飲める量もわからないのに、結局残りの盃も飲み干した。
それからまた再び宇迦尊が三度、酒を飲んで儀式は終わる。
手続きめいたやりとりだけでは、実感はわかない。
しかし神である宇迦尊と誓いの盃を交わしたのだから、桜良は神に嫁ぎ、神の伴侶になったはずだった。
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