1-15 夜宴

 盃を使った儀式を終えた桜良は、一旦宇迦尊と別れて、別室で白無垢よりも簡素な白地の衣裳に着替えた。そこは桜良の一応の自室になるらしく、唐木の文机や厨子が並んだ部屋の隅には、久世月家から持ってきた長櫃が置かれていた。

 無事に着替えが済むと、由貴斗に案内されてまた別の部屋に移動する。甘醒殿と呼ばれる館はとても広いので、桜良には自分がどこからどこへ向かっているのか把握できない。

 やがて由貴斗は回廊の途中で立ち止まり、御簾を上げて桜良をある部屋に通した。


「こちらが宇迦様のご寝所です。お二人にとって、今夜が最上の時間でありますように」


 着替えた花嫁を寝室に連れてくるという仕事を終わらせた由貴斗は、丁寧な言葉をかけて桜良を一人残してその場を去った。

 この先は他人が足を踏み入れることはできない、夫婦の空間なのである。


 由貴斗の説明の通り、部屋の中心には練平絹ねりひらぎぬとばりに囲まれた豪奢な帳台がある。

 しかし部屋の主である宇迦尊は寝具の置かれた帳台にはおらず、板の間の床に敷かれた畳の上に座っていた。


「真那斗が僕たちのために夕食を用意してくれたから、早く食べよう」


 手招きする宇迦尊の前にはいくつもの食膳が置かれ、その上には食にこだわりのない桜良でも思わず見入ってしまうような料理の数々が載っている。


「ありがとうございます。こんなご馳走は、初めてです」


 桜良は宇迦尊と並ぶ形で、燭台の光に明るく照らされた畳に腰を下ろした。

 真ん中の膳には、炊きたての白米にふきの味噌汁、菜の花の辛子漬け、あじの細作りの昆布締めにたけのことわかめの煮物といった、春らしく手の込んだ品々が並んでいる。

 他の膳にも、尾頭付き鯛の塩焼きや鶏と茸の蕪蒸かぶらむしなどの華やかな献立が載っていて、桜良は自分が作る朝食が真那斗の料理と比べられることになるのが怖くなる。

 しかし神である宇迦尊は人の悩みは意に介さず、桜良に箸をとることを勧めた。


「ここに、桜良の箸があるよ。食べ足りない品があったら、真那斗を呼べばいいからね」


 婚礼衣装から白色の狩衣に着替えて、少々印象が軽やかになった宇迦尊は、自分の箸を手にするとさっそく白米と味噌汁から食べ始めた。

 白いまつげが降り積もる雪を連想させる横顔は、確実に人間ではない美しさがある。しかし箸を使って飯粒を食べる様子は妙に人間臭く、ちぐはぐな可笑しみがあった。


(神様も、箸でご飯を食べるんだ)


 興味深げに隣の食事を眺めていると、宇迦尊が桜良の方を見た。


「桜良は、食べないの?」


「はい。今から、いただきます」


 不思議そうな顔をする宇迦尊を前に、桜良は慌てて目の前にあったあじの昆布締めに箸をつけた。

 青芽紫蘇あおめじそが彩りを添える、ほんのりと出汁の色に染まった細作りのあじの刺身は、流れる水のように黒漆の皿に収まっている。

 桜良はその皮引きの銀色の跡に艶がある、透明に澄んだ赤身を箸で一切れ口に運んだ。


(うん……。昆布出汁のやさしい旨みが染みていて、お醤油も何もつけなくても美味しい)


 丁寧に小骨を取り除かれたあじは、まったりとやわらかく口の中でとろけ、脂ののった旨味が出汁の風味と重なって広がる。

 自分の舌を確かめるように、桜良は無言で添えられた加減酢や山葵わさびを使いつつ食べ続けた。

 柑橘で香り付けされた加減酢と、舌触り良くすりおろされた山葵わさびを使ってあじを食べれば、さっぱりと爽やかな味わいになって食べ飽きることがない。


「それを食べるなら、お酒が必要だね」


 横目で桜良を見ていた宇迦尊が、脇に置かれていた燗鍋かんなべから白磁の杯に酒を注いで桜良に渡した。

 桜良はうやうやしくお礼を言って杯を受け取り、勧められるままに飲む。

 その酒は婚礼の儀式で飲んだものとは違ってぬるく温められていて、香りに芳醇なふくらみがあり、先程食べた肴の味がコクを引き立てていた。


(お母さんがいつも酔っ払ってた理由が、ちょっとわかる気がする)


 身体が温まって気分が良くなった桜良は、洋酒ウィスキーを愛していた母親への理解を深めた。このまま飲み食いを続ければ、母親に助言された通りの馬鹿な女の子になれるだろうと桜良は思う。

 しかし相手は神なのだから、馬鹿になる前に礼節を守らなくてはならないと考えた桜良は、箸を止めて宇迦尊の方を向いた。


「あの、私はあなたを、どのように呼べばいいのでしょうか。由貴斗さんや真那斗さんは、あなたを宇迦様と呼んでいますけれども」


 御饌都之宇迦尊という名前の神に対して、桜良は呼びかけに困っていた。正式な名前は長すぎるとして、宇迦尊様では親しみに欠け、宇迦様では気安すぎるような気がしていた。

 ささやかな戸惑いを見せる桜良に、宇迦尊は蕪蒸かぶらむしの入った平椀を手に、匙ですくって食べながら答えた。


「何とでも呼んでくれていいよ。死んだ恋人の名前でも、憧れの俳優でも、好きなように」


 宇迦尊は冗談めかして茶化したが、金色の瞳は本当にどうでもよさそうに笑っている。おそらく彼にとっては、名前は意味を持っていないのだろう。


「では、神様と呼んでもいいですか。これまで漠然と、心のなかで神様って呼んでいたので」


「うん、神様だね。いいよわかった」


 特に仮託したい名前もない桜良が無難な提案をすると、宇迦尊は軽い調子で頷く。


「ありがとうございます。神様」


 さっそく桜良は、望んだ呼び方で宇迦尊を呼んだ。そうすることで、長年寝る前に祈ってきた神が最初から宇迦尊であったような気がして、桜良はより深く運命を信じることができる。


(私は明日、この神様を食べることになる)


 桜良は改めて宇迦尊の姿を見つめて、自分に与えられたものの価値の計り知れなさを実感した。

 香ばしく焼けた鯛の塩焼きを食べるくちびるも、やわらかそうで形がよい耳も、白くてなめらかな裸足の足も、すべてが暴かれ、神喰いの花嫁である桜良が食べる肉になる。そう考えると桜良は、倫理に反した気持ち悪さを覚えると同時に、言い知れない背徳的な喜びをかすかに抱いた。


「僕の顔に、何かついてる?」


 あまりにも桜良が見つめるので、宇迦尊は箸を置いて向き直った。


「いいえ。何も」


 桜良は否定で答えながらも、宇迦尊を見つめ続ける。

 すると宇迦尊は、ごく自然に桜良との距離を縮めて、顔を近づけた。

 これから口づけをされるのだと、桜良は理解した。桜良は宇迦尊の花嫁であるので当然、その行為を受け入れる。

 何より桜良は、ただの卜占の結果なのだとしても、庶子としても認められず未来を奪われていた自分を特別な存在にしてくれた宇迦尊に、好意を持っていた。


(だってこの神様は今、私だけの神様だから)


 桜良は祈るように、目を閉じてそのときを待った。

 やがて酒を飲んで熱を持った桜良のくちびるに、鯛の塩焼きの風味を残した宇迦尊の平温のくちびるが触れる。

 重なるくちびるの感触とほのかな塩気に、桜良は旨みを感じた。口づけをしただけでこれだけ美味しいのだから、宇迦尊の肉は本当に美味しいのだろうと思う。

 しばらく息を止めていた桜良が一杯になったところで、宇迦尊はくちびるを離して桜良に確認した。


「君は、それでいいんだね」


 ゆっくりと目を開けると、桜良の鼻先には宇迦尊の整いすぎた顔がある。

 まぶしくて宇迦尊を見えない桜良は、再び目を閉じると無言で頷いた。

 了承を得た宇迦尊は、華奢で軽い桜良を抱き上げ、帳台に敷かれた寝具の上に運んだ。

 幻のように美しく見える宇迦尊も、触れてみると男性の身体をしている。

 何もかもが初めての桜良と違って、何度も死んで生まれ変わっている宇迦尊は、愛を交わすことにも慣れていた。

 耳を澄ませば桜良の動悸と二人の息遣いの他に、遠くでなにかがさざめく音がする。


(あれは多分、神在森の……)


 帳台の上で宇迦尊の身体の熱を感じながら、桜良は館の中にいても聞こえる、外の森の葉が風にこすれる音を聞いていた。神在森の木はブナであるので、おそらく秋にはたくさんの団栗どんぐりの実がなるのだろう。

 きっとおぼろ月の光に照らされているはずの、外の森の音は両者の耳に届いているらしく、宇迦尊は桜良のあごを細い指でなぞってささやいた。


「明日、僕を食べた君が死んだら、あの木々の葉のそよぐ音がする神在森のどこかに埋められる。その土の中の君のからだから新しい木が芽吹いたとき、僕は再び生まれるんだ」


 宇迦尊は語り終えると、そっと桜良の額に口づけをした。くちびるを重ねるのとは違ったこそばゆさに、桜良は宇迦尊の腕の中で身体を震わせる。

 昔話の通りの結末は嘘のようであるが、宇迦尊が言うなら真実である。

 酔いの回った桜良は、何の後悔もなく幸せに宇迦尊のために死ぬことができる多幸感に、静かに微笑みを浮かべた。


「素敵です。神様のお身体をいただく私は、神様の一部になれるのですね」


 いびつなほどに素直な花嫁の感謝を宇迦尊がどう受け止めるのか、桜良は反応を見ようとして目を開けた。

 宇迦尊の装束が解かれていく桜良の衣に重なり、白銀の髪がさらさらと頬を撫でる。

 燭台から離れた帳台の中は暗くても、眉も鼻もまなじりもすべてが美しい輪郭を描く宇迦尊の顔が輝いているように見えた。

 しかしその穏やかな微笑みにどんな感情が隠されているのかは、酩酊した桜良には察することはできなかった。

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