1-10 花嫁衣裳

 卯月の中旬のある縁起の良い日が、桜良が神喰いの花嫁として久世月家を出ていくときになった。

 屋敷では花嫁の門出を祝う宴が開かれて、桜良には思い入れのない客が集まっている。

 しかし花嫁本人である桜良にはやるべきことがたくさんあるので、宴で振る舞われるご馳走を食べる時間はない。


 日差しは暖かいが空気にはひんやりとした清々しさのあるよく晴れた日の自室で、桜良はさらさらと肌触りが良い長襦袢を着る。

 本来なら家族が支度に関わるものなのかもしれないが、明里や都志子が桜良の面倒をみる雰囲気ではなかったので、代わりに絹江が手を貸してくれた。


「それじゃあ、始めますよ」


「はい。お願いします」


 使い込まれた道具を机に並べて声をかける絹江にすべてを任せて、桜良は鏡台の前に座った。

 絹江はまずコテを使って髪のクセをとり、鬢付け油を使って両鬢や髱に分けてまとめていく。

 身支度の手伝いは絹江の本来の仕事であるので、家事と違って慣れた様子で手際は良い。

 やがて結い上げた髪が乱れなく整ったところで、絹江はくしやヘラを片付けて今度は化粧道具の入った抽斗ひきだしを開けた。


「次はお化粧ですね」


 普段よりも若干自信がありげな絹江は、てきぱきと手のひらで化粧油を温めて、下地として桜良の顔や首になじませた。

 そして練白粉を小皿にとると、水で薄く溶かして刷毛で桜良の肌に塗る。


(白粉は、ちょっと苦手)


 ぬるりと冷たい白粉が頬に触れる感触に、桜良はびくりと身体を震わせた。化粧とは縁のない生活が長かったせいか、何度してもらっても慣れることはない。

 そうした桜良の戸惑いは意に介さず、絹江は顔だけでなく手や衿足にも白粉を塗っていく。

 肌がほの白くなるとさらに、まぶたにはぼかし紅が、眉には眉墨が施された。

 濃い白粉の匂いの中で桜良は、鏡に映る自分の顔が淡く彩られていくのをただ見つめる。

 水化粧が終われば白無垢の着付けがあって、絹江は衣紋掛けから幸菱が織り込まれた真っ白な掛下を手に取って微笑んだ。


「お衣裳、間に合って良かったですよね」


「はい、本当に」


 絹江の他愛のない言葉に、桜良は静かな喜びを込めて頷く。

 掛下も打掛も呉服屋の職人が今日に間に合わせてくれたもので、誰のお下がりでもない桜良のための衣裳である。

 長襦袢の上に掛下を裾を引いて重ね、やや高めの位置で銀襴緞子ぎんらんどんすの立派な帯を締めて打掛を羽織る。


「もうほとんど、最後です」


 白無垢の花嫁衣裳を無事に着せた絹江は、古風な銀細工の花笄はなこうがいを木箱から出して髷に挿した。

 そして仕上げに、桜良のくちびるに小筆で紅を塗る。

 桜良は軽く目を閉じ、絹江がくちびるの形を筆でなぞるのを感じていた。

 本来の紅差しは母が娘の幸せを願って送り出す儀式であるが、絹江はただ仕事として、桜良を花嫁人形を飾るように桜良を美しくする。それはもしかすると寂しいことなのかもしれないが、特に深い意味はないからこそ、桜良は差し出された善意を安心して受け止めた。


「これで、終わりました」


 長い時間をかけてやるべきことをすべてやった絹江は、満足そうに息をついて桜良を姿見の前へ連れて行った。

 誘導されるまま鏡の中を覗けば、白地に銀糸で流水に満開の桜の意匠が刺繍された白無垢を着た桜良がすました顔で立っていた。

 煌びやかで上品な光沢のある正絹の打掛が、桜良の華奢な身体の美しさを儚く繊細に引き出す。薄く施された化粧によって瑞々しく冴えた面貌は、まったく違う装いのはずなのに、いつも異国の服を着て紫煙を揺らしていた母親に似ていた。


(私と違ってたくさん愛されていたのに、幸せそうじゃなかったお母さん)


 心からの笑顔を見た覚えがない亡き母親の姿を自分に重ね、桜良は不器用に微笑んだ。母は桜良に幸せになる方法を教えてはくれなかったが、美しい人間の振る舞いは記憶に残してくれていた。

 その微笑みの意味を知らない絹江は、安心した様子で桜良に話しかける。


「まあまあ緊張したんですけど、上手くできましたよね」


「はい。ありがとうございます」


 桜良は本来の気持ちよりも純粋で前向きなふりをして、お礼を言った。綺麗になって嬉しいのは嘘ではないが、期待されているよりもずっと冷めた喜びを抱いている。

 それから桜良は、絹江が用意したもう一枚の鏡を使って華やかに裾が広がった後ろ姿も確認した。

 しばらくすると座敷で客人の相手をしていた都志子と明里も様子を見に来て、桜良に何もかも予定通りに進んでいることを告げ、適当に話しかけた。


「桜良は名前にちなんで、桜の刺繍の打掛なのね。私の場合なら夫と二人で長生きしたいから、縁起良く鶴や亀の文様にしたいけれどもどうかしら。簪はそうね、藤の花みたいな飾りが揺れる金色のもので……」


 明里は品評するように桜良の衣裳を見ながら、いずれ着ることになる自分の花嫁衣裳についての希望を絹江や都志子にまくし立てている。

 真っ赤な振り袖を着た明里の横に佇む黒留袖の都志子は、改めてよく観察すると桜良が今まで考えていた以上に老いていた。落ち着きはあっても若さは失っていなかった昔の姿と違って、今は積み重なる年月の重さに疲れて抗うことを諦めていた。


(それに今日のこの人は、昨日までと何かが違う)


 そう重要ではない明里の話は聞き流しながら、桜良はそっと都志子の顔色を探る。

 見たところ都志子の瞳に宿っているのは、憎しみや憤りではなかった。

 どうやら桜良に対して何もできることがなくなった都志子は、畏怖と切望が入り混じったまなざしをこちらに向けているようだった。

 より古い時代を生きてきた都志子は、部屋にいる他の誰よりも神に嫁いで神を食す花嫁の神聖さを信じていて、選ばれた少女を畏れている。また同時に都志子は、自分には与えられなかった幸運を羨ましがってもいた。


「良かったわね。素敵にしてもらえて」


「はい」


 誰にも選ばれなれなかった失望を込めて、都志子が桜良に声をかける。

 余計なことは言わないように注意して、桜良は短い返事をして頷いた。


(この人が妬むってことは、私はやっぱり幸せになるんだ)


 障子越しに差し込む午後の日差しが、部屋に影を作り出す。

 その光と影の間に桜良は立ち、幸福を手にする確信を他人のまなざしによってより強めた。

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